第8話

「吹雪ちゃーん!一緒にお弁当食べようー」

 いつもの昼食場所に鞄ごと持って移動しようとしていた時に、澪が肩の上までのブローがかった髪の毛を機嫌良く揺らせながらコンビニ袋を手にぶら下げて近寄ってきた。

 相変らず耳のピアスがそうしなきゃいけないみたいに反射している。

 私は目を細くしながら、いいけどと言って先に立って教室を出て行った。

 正直、何処でも何するのでも一緒みたいな、なれ合いのベタついた糸を引くような関係は好きじゃなかった。澪は気紛れな一匹猫だからその心配はないけど、なんだかその言い方が気に食わなかったのだ。

 澪は、彼女にしては急ぎ足で私の後を追って、階段を登ってきた。私は無視して真っ直ぐ屋上に向かう。

 途中の踊り場で、強い派閥グループを作っている同級生の女子3人に澪は呼び止められた。

「ちょっと、待ちなよ。あんたでしょ? この子の彼氏誘惑したの?」

「は? なにそれ。知らない」とっさの事態なのにも関わらず、澪は一向に怖じ気ずく様子なく対応している。

 私はなんだか面白そうなので立ち止まり、階段の手すりに寄り掛かり上から、窓から差し込む夏の終わりの密度の高い強い日差しとのコントラストで一層濃く影になっているその湿ったような冷ややかな吹きだまりにたむろって、陰湿な闇の生き物のように蠢いている彼女らの様子を目を凝らして見ていた。

「とぼけんじゃないよ。あんたが人の男誘惑して告らせて、終いにはこっぴどく振った事みんな知ってんだから」

「あぁ。この間いきなり告ってきた、あの全然冴えない男? あたし、あぁいう汗臭い感じのガツガツ系趣味じゃないんだよね」さらっと澪は面倒臭そうにそう答えた。

 3人のうちの奥にいた控え目そうな1人が、いきなり拳を掲げて澪に掴み掛かってきた。

 澪はそれを軽く避けると、前のめりにつんのめったその彼女を助けようとして駆け寄った他の2人に更に言った。

「なんか盲目になり過ぎじゃない? だってまだ高校生じゃん。そんな目くじら立てなくても良くない? 男なんて、まだまだ遊びたい盛りに決まってるよ」

 途端に、空気をゴチャゴチャに綯い交ぜにするようなヒステリックな金切り声が飛んできた。

「偉そうに!あんたみたいな尻軽女になにがわかるのよ!」

「重きゃいいってもんじゃないでしょ。大体、矛先向ける相手違くない? あのガツガツ系は彼女がいるくせに図々しくあたしに告ってきたんだよ。そんな最低な男と付き合ってんだって認めなよ」

「私は彼を信じてるの!」昼ドラの在り来りでベタな台詞を大声で口にする彼女。完全になり切って浸ってる。

「信じてるって何? なにを信じてるの? あんたが信じてるのは自分の理想でしょ? 信じたきゃ勝手に信じればいいじゃない。けど、部外者のあたしに言ってくるのはお門違いだから」

 要点を突いた言葉に、悲劇のヒロイン的にも見える雰囲気で悲壮感を浮かべて蹲っている女史達は、ただ無表情に淡々と話す澪になにも言い返せなくなってしまった。

「誰かを勝手に信じるのと、誰かに勝手に裏切られるのとは何の関係もないんだって覚えといた方がいい。あと、せっかくの昼休みをそんなくだらない時間に当てて悲壮に暮れるのもどうかと思う」

 そこまで言い捨てると、澪はなにも無かったような涼しい顔をして制服のスカートを翻し、再び階段を登り始めた。

 残された女子達は、まるで美術館の隅に打ち捨てられた珍しくも面白くもなんともない、特に見る気も起きないようなスペース埋めの為だけの石像みたいに暗い床に這いつくばって固まっていた。微かにしゃくり上げるような耳障りな音がしただけだった。その浸り切った様子は、見ていても何だか哀れな感じだった。


「吹雪ちゃんってさ、冷たいよねーー」

 夏も終わりの熱気漂う屋上に出て、日陰を探して手すりの少し離れたコンクリートに座り込んだ時に、そんな私には関係なく手すりにもたれて、持参した焼きそばパンを先に齧りながら澪が言った。

「あんたに言われたかないけど」

 澪は太陽を反射でもしているみたいに、私の目には全体的に白っぽく捉えようがないくらいに眩しくて、そしてぼわーんと暗くて、ただ手すりにもたれてそこにいるだろう輪郭のようなものしか掴めなかった。

「小さい頃はあたしが虐められてたら、よく助けてくれたじゃない? 吹雪ちゃんは空手習ってたからすごく強くて。あれ、嬉しかった」

 澪は保育園の時から今のような性格だったので、小学校に行っても、グループ作りが好きな狡猾な女子達から思いっきり嫌われて苛めの対象になっていたのだ。

 更に質の悪いバカ男子からも苛められていた。それでもどんなに虐められようと、澪は決して人前では屈しようとはしなかった。けれど、何故か私にだけは泣きついてきた。

 当時、家が近かったからかもしれない。澪は他の同級生は敢えて仲良くなろうとはしなかったのだが、私とは姉妹のように仲良くしていた。お互いに一人っ子で姉妹が欲しかったのもあるのかもしれない。だから私もいつしか澪を妹のように思い、守ったりしていたのだ。中学生になって、クラスが別れるまでは。

 クラスが別れてしまうと、自然交流も共通の話題もなくなり、澪も自分で自分の身を守る術をある程度は体得したらしく、そうそう私に泣きついてくる事もなくなった。

「ふーん・・・そう」

 私は珍しく帰った時に持たされた母の手作り弁当を、青いプラスチックの箸でつつきながら興味なく相槌を打った。

 おかずは母の得意の地味な味をした煮物と、コロッケと卵焼きだった。さっぱりした冷やし中華でも食べたいと、まだ鳴いている蝉の声を聞きながら思った。

「今も、空手やってるの?」

「してない」

 空手なんて2年前に勉強が忙しくなったのを理由に、もうとっくにやめていた。

「そっか」

 澪は焼きそばパンを咀嚼しながら、無表情な魚のような目でしばらく私を見つめていたが、ふと食べ終わると足下の半分溶けかかっているビニール袋からパックのミックスジュースを取り出して、そこにストローを突き刺すと振り返って手すりの外に広がる校庭と山と、その合間に見える団地の群れと、その上に重た気な雲が立ち上がっているうっとおしいくらいの夏空を眺めながら、微かな音をたててジュースを吸った。

 ジュースを吸う音は得体の知れないところから響いてくるうっとしい蝉の声と混ざり合って、まるで熱気が充満しているそこらの空気を歩き回るようにしていつまでも残音を引きずっていたが、突然吹いてきた突風に澪の足下のビニール袋ごと一気に吹き飛ばされていった。

「生温い風でも、吹けば気持ちいいね」

 澪が痩せ気味の華奢な背中越しに呟くように言った言葉は、私の耳に届くや否や風に乗ってビニール袋の後を追うようにあっと言う間に何処かに飛んで行ってしまった。

 2人の髪も、汗ばんだシャツも夏服の軽めの紺色のスカートも玩ばれるように面白い程クシャクシャに乱れる。

「また、あたしになにかあったら助けてくれる?」

 いつの間に振り向いたのか、澪がその幾らか日にやけ始めた黒っぽい顔をこっちに向けてほんの小さな声で聞いた。眼差しはいつになく鋭く、まるで睫毛の多い本物の山猫みたいだった。

「・・・いいよ」

 私は短い髪を風に滅茶苦茶にされながら、くたっとなった悲劇的なコロッケを摘まみ上げ、眉間に皺を寄せてなにも考えなしに口に放り込みながら気軽に答えた。口にコロッケな無惨な腐乱死体の舌触りともの悲しい匂いが広がった。

「でも、今はあんたの方が強いよ」口直しに白いご飯を口に詰めながら、もごもご言葉を継いだ。

 私にはさっきみたいな場面に遭遇したら、遭遇する事は未来永劫ないかもしれないが、もし間違って遭遇したら澪のように、とっさにものを考えてああまで相手をも納得させるようには切り抜けられない。澪は成績も優秀だけど、私は頭が悪いのだ。

 20歳前にセックスしてばかりいると、快感の物質ばかり増えて考える力が弱くなりバカになる。なにかの雑誌で読んだような文が一行浮かんできた。

 或いはそうかもしれないな。

 風にさらわれたビニール袋は、遠くに舞い上がって楽しそうに玩ばれながら飛んでいたが、まだその姿が見えた。光合成をするように目を瞑り顔を空に向けて寄り掛かる澪の後ろで、見えつ隠れつしているビニール袋を、私は半透明の幾つかの滲みがエアホッケーの円盤のように滑って漂っている視界でぼんやりと追った。

「あたしは今も昔も変わらないよ」

 澪がその首が痛くなりそうな姿勢のまま、目眩でもしたのかズルズルとしゃがみ込み、シャツの胸ポケットに手をあてた。

 気のせいか顔色が悪い。日に当たり過ぎたのかもしれない。

 私は傍までいって日陰に引っ張って行こうと、澪の細い腕を掴んだ。けれど、予想に反してその腕の体温は低く、むしろ冷房で冷え過ぎているくらいの体温だった。

「寒がりだから、なるべく日に当たりたいの」

 気弱そうに掴んでいる汗が滲み始めた私の手を優しく振りほどいて、澪は微笑みながら、手の平よりも遥かに小さな古ぼけたピンク色の巾着をポケットから抜き出した。そして、にっと笑って機嫌良く言った。

「お守り。これのお陰で私はなんとか切り抜けてこれたの」

「へぇ・・・」

「吹雪ちゃんのお陰」

 ?

 どこか陰気な感じの間延びした始業のチャイムが食後の睡魔を誘うように鳴り響いて、勉学に関しては真面目一途な澪は速やかに立ち上がると昇降口を開け、先に階段を降りて行ってしまった。

 次の授業はつまらない世界地理だ。夏休みは終わったばかり。また気怠い毎日の繰り返し。

 私は引き続き残った弁当を食べ終わると包みで結んで鞄に投げ入れ、片耳にイヤホンを突っ込んで立ち上がり、額から流れてきた水よりもさらっとした汗を拭った。

 音楽鑑賞の時間。


 窓際の一番前の席で、熱心に先生の講義に耳を傾ける澪を、その遥か後ろの席から私はイヤホンをつけた耳を方肘をついてわからないようにしながら、立てた教科書の後ろでぼんやり眺めていた。

 生徒の大半が昼休み後のどろんとした睡魔と戦いながら、中には完全に昼寝しながら授業を受けていた中で、澪だけが真剣に黒板を睨み、子守唄よろしく間延びした声で回りくどい説明をする老先生の言う事を素早くノートに書き付けていた。

 窓が開け放たれた教室の窓からは、ひかれた白いカーテンを翻しながら生暖かい透明な光の風が生徒の頰を撫でていた。

 汚れ始めたカーテンが捲り上がる度に、窓に張り付いた反射版のように明度の高い青い空が見える。

「えー・・・で、ありますから、この海岸を高い高い空の上から眺めますと、本当にもう背骨のようなこんな形に見えるわけですな。では、何故、このような形になったのかと申しますと・・・」

 ぶーんぶーんと小さな黒い羽虫が入ってきて、教室内を一周するとカーテンの上にくっ付いた。その下で、うつ伏せになって寝ていた男子が、寝ぼけて腕を動かした拍子にカンペンケースを思いっきり床に落とした。

 カンペンケースが弾け飛ぶような、かん高い音がやけに拡張されて教室中に響き、大半の生徒が驚いて覚醒した。

 ヨダレが口に光っている男子は、きまり悪そうにそれを拾って恭しく教科書の位置を少し直したりして何もなかった振りをしていたが、しばらくするとまた眠りに引きずり込まれていった。

 平和な気怠い退屈の象徴とも言える、撓わにゆれる青い果実のような景色。

 方耳から流れている軽い8ビートが心地よく絡み合う午後。

 永遠すら感じさせるような惚けた輪郭を持つ夢現つの時間。その中で、1人違った場所にいるかのように、くっきりと聡明な眼差しで勉学に没頭する澪。

 重たい瞼を無理にこじ開けているからか涙が出てきそうになったので、私は諦めて目を穴の空いた机に落とし、方肘を支えにうつらうつらし始めた。誰かがまた筆入れを落とした鈍い音が遠くで聞こえた。

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