第7話

「おはようございます。ガイドが急病の為、急遽代行といたしまして私、桃井早太郎が本日一日皆様のガイドを勤めさせて頂きます。せっかくのバスの旅の付き添いがどうして女性じゃないのかと憤慨のお気持ちもおありかとございますが、なにとぞどうぞ宜しくお願い申し上げます」

 そう前置きして、ガイドの腕章を巻いたブルドッグに似た小男は、上品な角度で乗客に向かってごく丁寧にお辞儀をした。

 夫が真っ先に満面の笑みで拍手をした。それにつられてチラホラと一応形式的な拍手が上がった。桃井さんは些か赤面したような表情にも見える位置に眉と目を弛めたが、すぐに引き締め直して北海道の歴史云々から簡単に説明を始めた。

「桃井さんなら、まずガイドのストレスはないな」夫は私の髪を指に絡ませて呟いた。

「そうかしら?」

「そうさ。彼は間違っても頭の悪い人間みたいに、くだらない世間話や寒いジョークなんて備えてるような奴じゃない」

「そんな事わからない」

「わかるさ。彼の声を聞けば。肝心なのはどういう事を言っているかじゃない。どんな声でどんな風に言っているかなんだ」

 果たして夫は、桃井さんの事を人間と思っているのか犬と思っているのか訝しいところだった。夫にしてみればどっちであろうとあまり関係ない事なのかもしれないけれど。

 桃井さんの品のいいBGMのように流れてくる説明や解説の声を心地よく聞きながら、おとなしくシートに張り付いている乗客を乗せたバスは、旭山動物園に一心不乱にひた走っていた。

 大きな窓から見える景色は山林ばかりで、今にもひょっこりと熊だの鹿だのが顔をあげそうな情緒たっぷりだった。動物飛び出し注意の鹿が跳ねている標識もまた、そんな気分を盛り上げた。

 私は何処かに動物が見えやしないかと懸命に目を凝らしていたが、さっぱり見えない上に軽く酔ってきたので、よく考えれば、これから動物を見に行くのだと、自分で無理矢理納得して窓から目を離した。夫は半分居眠りしながらニコニコして、桃井さんを見つめていた。

 私は桃井さんが解説をする事に必死に耳を傾けてその想像だけで頭の中を埋めようとしたが、どうしてもさっき公園で見た光景が蘇ってきた。しかも、思い出せば思い出す程、増々現実味を帯び、夢ではない事を記憶に刷り込ませようとするかのようだった。

 有り得ない。だって澪は・・・

 固く目を瞑り、信じないようにしようとすると、こっちに歩いてくる澪の奇妙な微笑みが蘇ってきて冷や汗が滲み出る。その薄暗い瞼のスクリーンで澪は私の方に近寄ってくる。どんどん近く、どんどん鮮明に。

 底知れぬ憎しみをたたえているようなその怖いくらいの笑顔が手が届く位に近くなる。本当に生きているかのように。

「いかがなさいましたか? ご気分が優れませんか?」

 霧の中から聞こえてくるような落ち着いた、しかし現実味のある聞き覚えのある低い声がして目を開けると、ぐっすり眠り込んでいる夫の横から桃井さんが覗き込んでいた。

「え? ああ、平気です。大丈夫」

「酷いお顔の色をしています」

 私は動揺を悟られないように、まるでそれ自体がなにか1つの生き物であるかのように脈打ち昂る手首を押さえて、無理矢理笑顔を取り繕ったが、澄み切った湖のようなつぶらな墨色をした桃井さんの目は誤摩化せそうもなかった。

「大丈夫です。少し酔っただけだと思いますから」

「もし宜しければ、酔い止め薬も常備しておりますので、ご入用でしたらどうか何なりとお声をおかけ下さい。旭山動物園にはあと30分足らずで到着出来る予定でございます」

 急病で交替を余儀なくされた見知らぬガイドには申し訳ないが、桃井さんがガイドで良かったと感じた。

 少なくとも穏やかではない心情のこの状況には、桃井さんの低い品の良い楽器のような聞いているだけで安心出来る声が、今現在の私を取り戻させてくれるのを助けてくれるのだ。

「ありがとう」残っている力の限りに笑ってそう返した私に、桃井さんはワイン色のブランケットを渡しながら目だけ優しく形作ったが、姿勢は崩さずにお辞儀をして他のお客の様子を伺いに引っ込んだ。

 ー落ち着かなければ。

 私はブランケットを広げて肩までかけた。


 晴天の中、一面に白く燃えるようにススキが揺れる山間に作られたその小さな動物園は、砂糖に群がる蟻の大群のように観光客で埋まっていた。

「なんだ。えらく小さな動物園だな」

 次々と生産されるゴリラのウンコのような混み合った密度の高い行列と速度で入場ゲートから尻出された人々に混じって園内を歩きながら、夫が大きな欠伸をして言った。

 余すとこなく人間に埋め尽くされた園内はしかし、引率のガイドの解説音と飼育員の声以外は目立って聞こえてこず、その声が途切れるとほぼ無音に近かった。時々子どもが声を上げる以外は大多数の観光客が、ただ機械的に無表情に巡っていただけだった。

 それもその筈。大々的な宣伝の賜物か、夫も含め恐らくほとんどの人々がもっとすごい展示や仕掛けを見られると思い、かなり期待をして訪れたに違いなかった。ところが、実際は何の変哲もない小さな動物園。観光客しか呼べないのかもしれない。

 設置された通路を並んで進み、ありきたりな説明を聞くともなしに聞きながら退屈そうに寝転んでいるやる気のない動物に目をやる人々、または売店で長蛇の列に並んで食券を買って、芋洗い状態のテーブルでラーメンやカレーライスを口に運ぶ人々の顔には明らかになーんだこれっぽっちかよと言った類いの失望感が張り付いていた。

「これじゃ、動物を見に来たのか、人間を見に来たのかなんだかわからなくなるな」

 檻の周りを囲む老若男女問わず密度の高いゆっくり動く行列に混じって気圧されながら、死角位置で優雅に昼寝している虎の鼻と髭を横目で見遣った時に夫が呟いた。

 私は小さな子どもみたいに迷子にならないように夫の腕に捕まって、それでも後ろから迫った中年の集団に押されて躓きながら頷いた。まだ少し気分が良くなかったのもあって、ふらついてもいたので余計だった。

 ペンギンの水中トンネルのところまで来て、楕円とか編み目とかの日光模様が浮かぶ玉髄と青瑠璃をマーブル状に溶かし合わせたような透明度の高い水を一気に切り裂いて勢いよく猛スピードで上を悠々と泳ぐキングペンギンを見上げていた時に、目眩までしてしまい、もう動物を見るどころではなくなった私は夫に提案した。

「少し、休まない?」

「そうだな」

 仮設のような格好で園内の端にある小さな売店で、夫はコーラとお茶とじゃがバタを買ってきた。私は少し離れたベンチに座って木漏れ日の下、夫が器用にその3つを運んでくるのをぼんやり見ていた。

「疲れたな。あとは狼を見たら俺はいいや」

 まだ回るの? 些か疲れが限界に達しそうな私は一人で行って来てと言いそうになったが、思い直して言うのをやめた。

 北海道に来る前から、この動物園にかけていた夫の期待をよく知っていたからだ。だのにあまりの規模の小ささに、ある意味詐欺だ。けれど、それを置いても今回の旅行は2人のずっと待ちわびていた新婚旅行でもあるのだから。

「狼は外せないね」

「何を置いてもな」

 私達は初夏並に暑いくらいの空気の中、しばらく疲労感を和らげようとして、お互いにそれ以上は特に何も話さずジャガバタをつついたり、煙草を吸ったりしていた。

「行っちゃお」言ったものの気力が出ない夫を誘って私はゴミを捨て、狼の檻の方に引っ張った。

「だな」

 夫が動く気になれなかったのも無理はない。狼の檻の前にも徐々にしか前進しない長蛇の列が出来ていた。仕方なく言い出しっぺの私は夫と手を繋ぎ、そこに並んだ。

 私も実は結構気分がしんどくはあったのだが、犬好きの夫の希望を是非とも叶えてあげたかったのだ。

 列は極端にのろのろと進んだ。時間が30秒ごとに崩れ落ちて、足下を流れているような錯覚が起きるくらいに遅かった。

 たかが狼を見るだけにどうしてこんなに遅いのか、訳はじきにわかった。小さなかまぼこ型の覗き窓から狼の近くを覗く為だったのだ。が、しかし当の狼は遠くで昼寝をしているらしく何処にも姿が見えなかった。

「ダメだ、こりゃ」

 覗き窓から外を見た私は、そう呟いて狭い階段を降りて行く夫の後をすぐに追おうと思って顔を引っ込めようとしたその時、近くに効果的に設置された草むらから突如黒い狼が顔を出したのだ。

 私はその大きな狼と丁度目が合ってしまった。その金色の目には野生の輝きは褪せて既になく、けれどなにかを秘めているような奇妙な表情があったのだ。

 狼は舌をだらりと下げ口で息を静かに忙しくしながら、ただ真っ直ぐに私を見下ろしている。

 その瞳を覗き込んでいるうちに、またしても私の中に渦が巻き起こった。狼の目はあの時の祥二の目と同じだったのだ。あの時の・・・

 渦は徐々に勢いを増しながら回っていく。

 どんどん回って速度を上げながら私を遠い記憶に完全に連れて行こうとする。17歳の記憶のただ中に。嫌だ。でも、もうダメだ・・・

 私の意識が遠のきかかって半分以上倒れかかった体を、何事かと振り返った夫が慌てて支えた。

「なんだ。奴さんいるじゃんか。大胆なアピールだな。惚れられたか?」

「・・・ばか」

 踏切の警報機の点滅のように薄れていく景色の中で、頼もし気に微かに微笑み支える夫の顔と制服姿をした固く口を結んだ澪の顔が交互に見えた。それがいつしか狼にそっくりな目をしている祥二の顔と、澪の顔だけになった。

 2人が私をじっと見つめて交互に点滅する。私の中のなにかを射るように見つめる澪の目が焼き付く。

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