第4話
祥二は会う度に執拗に私の手首の様子を調べた。毎度、無言であの混沌とした伺い知れない強張らせた表情を思いっきり顔に張り付けながら。
もうムカデの黒い足は抜糸され、胴体と同じ赤色になってけれどもまだ生々しくハッキリとそこにあった。
「そんなに怖い?」
ある時、いつものように怪訝な表情で手首を調べる祥二に、何の気なしに聞いてみたのだ。
祥二は憎しみさえ籠っているのではないかと思うくらいの恐ろしい眼差しで、にわかに私を睨み据えた。
何? どうしてあんたがそんな顔をしなきゃいけないの? 意味がわからなかったので、私は構わず続けた。
「そんなに傷が怖いの? 案外、血とかダメな感じの情けない系だった?」
瞬間、なにが起きたのかわからなくなった。
目の前が一瞬大きく傾げて揺らいだ。白濁しながら、同時に強い力で顔を横に跳ね飛ばされて頰に痛みを感じた。
私は自分がどうなったのか理解するまでかなり時間がかかった。ただぼんやりと制服のスカートを無意識に掴みながら祥二の前に蹲って、獰猛な炎で真っ赤に燃えて、拳を震わせている祥二の顔を仰いでいたばかりだった。
え? 今なにやったの? もしかして殴られた? すぐには信じられなかった。自分が家族以外の他人に殴られたなんて。
祥二はそんな私には一向気にせず、なにか憎しみの対象に向かってものを言うように冷え冷えと淡々に、けれどはっきりと言った。
「ははは。怖かねーよ。俺はな、自殺なんて考えて実行するようなはた迷惑な人間が大嫌いなだけだ」
祥二の顔の炎は赤から青に変わり、増々高温に冷酷に燃えている。もはや、持ち前の祥二の表情が思い出せないくらいだった。
私は力なく唖然として、一気に知らない他人になってしまった祥二をただ眺めていた。どうして祥二が怒ってるのかわからなかった。
「でも、関係ないじゃん」
私は掠れた声でようやく言葉が口をついて出たが、それが増々いけなかった。祥二は足下の私を力こそ強くはなかったものの勢いよく蹴ったのだ。
「マジでバカだ、お前。俺の親父はな、自殺したんだよ!俺達を無責任に残してなっ!」
私は自分を守ろうとする事で精一杯で祥二の顔を見る余裕なんてなかった。
ぼんやりと得体の知れない残像が体に打撃を食らう度に元の位置に戻っては又行き交う、瞑った明るい暗闇の中に祥二の辛そうな声だけが次々と大きく反響してくる。
「俺が最初に見つけたんだ! 親父は小便垂れ流して、ようやく楽になれるって顔して、笑いながら死んでやがったんだ! 自分の事だけ考えて自分勝手になっ! 俺は親父を許せない!自殺なんてする無責任な人間は大嫌いだっ! だのに、お前までなぁっーー・・・!」最後の方はもう苦しそうな呻き声にしか聞こえなかった。
不意に攻撃が止んで、私が恐る恐る目を開けると、祥二が半泣きして涙を汗みたいに垂れ流しながら、頭のてっぺんから爪先まで体中余すとこなく力をありったけ込めて床に根でも生やしたみたいにつっ立っていた。
全ては見事に一時停止していて、次のアクションが始まるか又繰り返すかの狭間の休憩時間みたいな奇妙な沈黙の中、祥二の頰から色褪せたシミだらけで所々剥げた元は白だったろう汚いカーペットに、ぼたぼたと絶え間なく微かな音をたてて落ちていく涙だけが動いていた。
ちょうど私の目の高さに、血管が飛び出す位に強く握っている祥二の拳があった。
そんなに強く握りしめているのに、静物画のように、まるでずっとそうして握っていたかのようにとても自然に当たり前に落ち着いて見えたのだ。私はそれを愛おしさすら感じて眺めた。
特になにかを言おうとした訳ではなかったが、私がふと口を開いたのを見たのか見なかったのか、祥二は荒々しく扉を開けると外に出て行ってしまった。トラックのエンジンをかける音がして、祥二が出て行ったのと同じくらいに騒がしく遠ざかっていった。
残された私は途方に暮れた。
が、家に帰る事も出来なにのでとりあえず鼻をかんで、そのまましばらく座り込んで祥二が帰ってくるのを待っていた。ここは祥二の家だから必ず帰ってくるんだから。
隣のお爺ちゃんは今日はデイケアの日でいなかった。なぜか手首がやけにずきずきと痛んだ。
どうしてこんな事になったんだろう?
私が事の起りを思い出そうとしていると、裏の勝手口が開く音がして、廊下を誰かが歩いて近付いてきて、次いで扉をノックしてきた。
「兄ちゃん、兄ちゃん。悪いんだけどさ、ムース貸してくれない?」2つ下の弟君だった。
私は迷わず扉を開けた。茶髪の前髪を垂らして、祥二とは全然似てない猫目に黒斑の眼鏡をかけている痩せ気味の弟君は若干びっくりしてはいたが、私の事は以前から知っていたので、構わずに聞いてきた。「あれ。兄ちゃんは? 買い物行ってる?」
「う、うん。そんなとこ。勝手に持ってっていいよ。帰ってきたら言っとくから」
「うす」
黒い制服のズボンに白いワイシャツの上に同じく白いセーターを重ねて着た祥二より背の高い弟君はさっさと部屋の中に入ってきて、ムースの固めて置いてあるコーナーに行き幾つかある中から一番カラフルな一本を選んでまず手に取った。スーパーハードタイプと記載されているのが見えた。
私は祥二と同じように慎重にムースを選ぶ弟君の後ろ姿を眺めながら、ふと聞いてみた。
「・・・お父さんはどうして亡くなったの?」
弟君は特に顔もあげず、振り返りもせず調子も変えずに、まるで携帯を耳に挟みながら面白くもない世間話でもしているような感じで話した。
「いや。俺も詳しくはよくわかんねーんすけど、色々大変だったみたいっすよ。この部屋で首つりして死んだんすよー」
弟君はムース缶から目を離さずに説明書きを読みながら、振り返り続けた。
「兄貴が第一発見者だったんすよ。かなりショックだったみたいで、その後しばらく落ち込んでましたねー ま、俺は見てもないし、親父に対してそんなでもなかったから、別になんともねーんすけど。兄貴は俺と違って責任感強いから余計に色々思う事があったらしくてー・・ よし。これにする。じゃ、俺もうバイト行くんで、兄貴に宜しく言っといて下さいねー」そう言って弟君は涼しい顔をして、選んだムース缶片手に口笛を吹きながら出て行ってしまった。
私は古くてヤニで変色している部屋の電気の傘や、柱の梁を一通り眺めながら溜息をついた。 ここでねぇーー・・・
祥二の辛そうな表情が浮かんで途端に意味がわかったような気がしたが、なんだか一変に面倒臭くなったのでシャットダウンして投げ出した。
ー知らんわ、そんな事。
祥二の暴力はあの時以来はそんなに目立っては起こらなかった。
相変らず私の手首を見る目付きは変わらなかったが、私も特に怖いと感じもしなかった。手首を見る時以外は、至って温厚で優しい普通の祥二だったからだ。だから、私もすっかり忘れた気になっていた。
「ねえ。ねえ、吹雪起きなよ。今日こそ学校行きなよ」
寝起きの良い祥二がとっくに自分の支度を終わらせて、まだ布団に包まっている私を揺さぶった。
朝になっていたが、窓が1つしかない祥二の部屋は薄暗くて電気を付けなければいけなかったので、まだ夜のような気分がして、寝坊助の私は起きるのがおっくうだったので無視した。
「起きなよ。吹雪のお母さんにも頼まれているんだから。吹雪が卒業出来なくなったら俺のせいになる」祥二が気弱そうに、そのくせ責任感にかられて強く揺さぶり続けた。
「なあ、起きろよ。送っていくから」
その言葉を聞いて、私は目を開けて祥二を見た。「なら、朝マック食べたい」
「いいよ。でもドライブスルーでな」
「ぃやったぁー!」私は勢いよく布団を飛び出していそいそと支度を始めた。
唖然としてそれを見ていた祥二は薄く苦笑いをして、現金なやつと言った。祥二は、例の、私を散々叩いたり蹴ったりした事を心なしか申し訳なく思っているのか、以前より少しだけ優しく甘やかしてくれるようになった気がする。詫びのつもりなのかもしれない。
学校に向かう道の途中にあるマックで、エッグマックマフィンと野菜ジュースを購入して、それを齧りながら私は特になんの気なく聞いてみた。
「お父さんってどんな人だった?」
お気に入りのアーティストを集めた自作の音楽編集テープから流れる歌を機嫌良く聞きながら、前方を見て運転している祥二の目元が、ほんの一瞬見逃してしまう程微かに動いた。言ってしまってから、私は些か自分のノリの良い軽い口を後悔した。
いつもそうなのだ。
頭で考えて判断してから言葉を発するようにしているのだが、慣れている相手や親しい相手だと冗談や好意に任せて本当に何の気なしに、その時にふと浮かんできた言葉をただ発してしまうのだ。
それはある意味自然なのかもしれないが、慣れない相手に使うと想像以上に相手を傷付ける事態を招いてしまう。そして今、過去を刺激された祥二の私との間には、微かな溝が出来ているのだと言う事を私は全く考えなかった。
私にとっては、私が起こした事で母や祥二に心配をかけたのは重々承知しているが、祥二の過去の事までは知らないし、酷な良い方をすると、それは祥二が自分で処理して乗り越えて行く類いの事であって、付き合った私が似たような事をしたからと言って、私のせいみたいにするのは不条理だと思っていた。
腹立だしさや、苛立はわかるけど、私はきっかけを作っただけで、祥二の抱えているそれを全部背負って償うなんて出来るわけないし、例え出来たとしても祥二にはなんにもならないと思う。だって、誰かがなにをしても最終的には自分でどうにかするしかないのだから。
それに、自分の気持ちや思いをどうにか出来るのはやっぱり自分だと思うし、他人ができるのは求められた事に対して出来る範囲で答えるか、見守るかのどちらしかないと思う。それだって、よっぽど相手を大切に思っていたり、愛していないと付き合えるもんじゃない。余計なおせっかいや助言は、それを求めてない相手にとっては無意味なのだ。
唯一僅かでも入っていけるものは自分が相手をどんなに大切で好きかと言う事と、心配していると言う事だけなんだ。
「厳しくておっかない親父だった。俺はよく殴られた」
苦虫を噛み潰したような表情になった祥二は、太陽に輝く朝の街路樹と住宅が千切れるように過ぎて行くフロントガラスを睨んだまま乱暴に言葉を吐き捨てた。
祥二はその後、学校に到着するまで始終無言のままひたすら乱暴に運転を続けた。そのあまりの荒さにさすがに怖くなって、途中降りてしまおうかと思ったが、スピードも出ていたので無理だった。
チェンジレバーやギアを手慣れてはいるが、怒りを表すように操作する祥二を私はぼんやりと眺めながら、こんなに近くにいるのにやけに遠くなったんだなと思った。でも、そもそも私達は近いところにいたのかな?
それすらよくわからないな・・・
私は無心に残りのエッグマフィンを齧って咀嚼しながら、祥二から無理矢理目を引き剥がして、同じフロントガラスに映る祥二が見ているのとは違った全体的に穏やかな青緑色に流れていく景色で気を紛らわせようとした。
なんだかなぁ。相変らず、変に色のついたプラスチックのおもちゃみたいな私の日常。それでもさ、
それでも 生きる意味ってあるのかな?
私の体にまだ馴染めないムカデが疼く。まるで手首から這い出たいともがいているようだ。
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