第5話

 目を開けると、青白く染まった大きな正方形が並ぶ見知らぬ小綺麗な天井だった。

 隣には夫がまだ微かな規則正しいいびきをかいて、ぐっすりと寝入っていた。

 私は昨夜までの記憶を少し掘り起こす作業をして思い出した。あぁ、ここは札幌の変な名前のホテルだ。

 けれど体は軽かったので、私は颯爽と起き上がると夫を起こさないように静かに、大浴場に朝風呂を浴びに行った。時間はまだ5時過ぎだった。

 大浴場は当たり前だが誰もいず、目隠し効果がされてあるだろうガラス張りの窓からは、まだ朝日が挿し込んでこない青白い静寂の中に立ち並ぶビルと、遥か遠くにくっきりと群青色の山脈を眺められた。それはまるで絵画のような眺めだった。私はそれを思う存分堪能しながらお湯の中で手足を曲げたり伸ばして泳いだりして、微かな水の流れる音だけの贅沢な一人っきりの時間に浸かった。

 部屋に戻ると、夫も起きていて煙草を吸いながら惚けた表情をして静かに外を眺めていた。

「コーヒー、煎れるよ」

 私は、夫のまだ生力の循環しきれてない頼りな気な影のような背中に向かって言った。

「ん、ああ」

 私は2人分のコーヒーを煎れると夫に持って行った。夫はさっきと全く同じ姿勢でまだ外を眺めている。

「なにかいるの?」

「いや。綺麗だなって」夫の視線の先には、ビル街の継ぎ接ぎの徐々に透明な青さを増してきた空から、途切れ途切れに差し込みながら昇ってくる眩しいくらいの金色の朝日があった。

 神々しい程の眩しさに目を細めている私からコーヒーを受け取りながら、夫はにこやかに少し笑ってふと言葉を繋いだ。

「こういう時、生きてるっていいなぁって思うよなー」


 バイキング形式の朝食を済ませ、まだ出発までの時間があったので、私達は大通公園を散歩しようとホテルを後にした。

 今朝はまだ出勤していないのか休みなのか、桃井さんの姿は見えなかった。そのかわりに、ゴールデンレトリバー似の上品な栗色の髪をした美人が電話対応をしていた。心なしか、夫は少しガッカリしたように見えた。今日も雲1つない見事な快晴だった。

 ホテルの前に広がる公園で、口から水を出す獅子の噴水の石段に座って、私はその一円玉が所々に落ちているエメラルドグリーンの水に広がる白く反射する編み模様を眺め、夫はゆっくりと食後の一服を吸っている。今朝のように、生きてる幸せを肺一杯で味わっているのだと思うような満足そうな笑みだった。

 2人共すっかり冬物をトランクの奥に突っ込み、半袖に薄い長袖の上着を羽織っただけの軽い格好だった。夫はそれにまさに次元のような帽子を粋に深めに被っている。

 公園には早くも散歩している人や、シートを広げて談笑しながらお茶を飲んでいる人々がいた。

「ねぇ、そういえば、ホテルの名前、Black Dogってどういう意味?」

 職業柄、特徴や由来や意味について聞かれる事が多い私はほとんど無意識に夫に聞いた。

 夫は大きく吸ってゆっくり吐き出す煙に乗せるようにそっけなく答えた。「ただの黒い犬だろ」

「そう? 何か意味があるのかと思ったけど・・・」

「あのホテルのオーナーが飼ってた犬とか、そんなとこだろ」

 取り出した携帯灰皿に煙草を擦り付けて入れながら、夫は意味深ににっと笑った。

「嘘。だって、Black Dogだよ。もし飼ってた犬ならその犬の名前とか付けない? 私ならそうするよ。コロとかポチとか」

「ホテルコロとかホテルポチなんて名前こそどうよ?」

「それに、あのルームキー見た? あんな全然癒される要素ゼロのおっかない顔をした犬を普通飼うかしら? ペットって癒し度も高くないとペットとは言えないでしょ」

「良い所をついてる。だが、犬はペット以外にも番犬としての要素も持っている。番犬にはおっかない犬は最適だ」

「番犬 で、Black Dog? ハリーポッターの映画にそんなの出てたよね」

 私がそう言うと、夫はまるで子どもみたいに細い目を一杯に開けてキラキラさせながら声を弾ませて得意げに言った。

「そう。イギリスなんかに伝わる黒妖犬とか墓守犬なんかのイメージだな」

「墓守? なんか怖くない?」

「いいじゃないの。俺は一目見てピンと来たね。ここしかないってな」

「なにを根拠にそう思ったんだか知らないけど、私ヤダなぁ。なんか気味悪い。それにあなた、そんな奇妙な分野も詳しかったんだ。何? イギリスに伝わるって。初めて知ったわ」

「なんとなく今思いついた。それにそんなキャラがゲームに出てた」

 成る程、犬とゲームに目のない夫らしいセレクトだ。名前だけがずらっと並んで、よくわからない中からホテルを選ばなければならないなら、確かにそう言った分野が関与してくるのも頷けるが、それにしても、よくそんな名前のホテルを見つけたものだ。

 半分感心して半分呆れながらも、どういう犬なのかと聞いてみた。

「俺も詳しくは知らん」

 夫がそう言うか言い終わらないうちに、私の目ににわかに信じ難いものが映った。

 それは芝草の上にシートを敷いてさっきまで談笑していたカップルの、丁度後ろ向きになって私からは顔が見えてなかった女の方だった。

 彼女は柔らかそうな色をした前髪に肩までの軽めのボブを揺らし、歯ブラシのように豊かな睫毛に艶っとした丸顔。ラズベリー色の絵筆で引いたような薄い唇が実に女らしい容姿をしていた。白いカーディガンに葡萄色のカプリパンツと皮の茶色いブーツを履いている。

 私は息を飲む間もなく氷ついてしまった。耳元で動揺している荒い呼吸音がして、体中の血圧が確実に低下して行くのがわかる。痛いくらいに乾いた眼球に映る景色が残像を纏って重なっていく。がたがたと激しく震える程の悪寒が走る。

 どうして? 何で、こんなところにいるの?

 ふと彼女がほっそりとした体ごと振り向いて、私を不思議そうに見つめた。或いは夫を見つめていたのかもしれない。私にはそんな事はどうでも良かった。彼女がその躊躇い等欠片もない瞳を力強く真っ直ぐ向けたまま少し微笑んで、私達のいる方に近付いてきた。あと僅かで接触するほんの一瞬、私は信じ難い恐ろしさに負けて目を瞑ってしまった。

「どうした? 具合悪いのか?」

 その声に再び怖々目を開けると、夫が肩を揺すって心配そうに顔を覗きこんでいた。

 私は即座に素早く周りを見回した。遥か彼方にさっきのカップルが仲睦まじく手を繋いで歩いて行くのが見えた。

 2人はそのまま大通りに抜けると、信号を渡ってビル街に紛れ込んで見えなくなってしまった。私は何度も目を擦ったが、やはり夢ではないらしいのだ。呆然と立ち尽くす私を夫が怪訝な顔をして覗き込んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る