第2話

「ムカつく」

 どうしてそんな事を言われなきゃいけないんだ。私にだって意思はあるんだ。

 指図しないで。命令しないで。勝手に解釈しないで。決めつけないで。

 バカにしないで。

 私は私。私だってちゃんと考えてる。

 どうして聞いてくれないの?! 私は小さな子どもじゃない。

 自分が頭良くないのは知っているけど、そんな事自分がわかっていれば充分でしょ?

 比較なんてうんざり。くだらない仲間意識もうんざり。平凡な生活もうんざりだ。

 腹が立つ。

 腹が立つ。全部消えちゃえ。みんな死ね!

 大人と子どもの中間地点。大人が考えているよりもずっと様々な事を敏感に感じ過ぎていて、子どもの時よりも色々な現象を理解し過ぎてしまうくせに、反抗期と退屈さがうっとおしい影のように付きまとう年頃。

 やる事なす事、口を開く度に立場の不条理を、自分の意義を喚き散らしていたように思う。それが、私はことさら強かったように思う。けど、そんな簡単に物事は消える筈なかったし、人は死ぬわけなかった。そこで、ふと思いついた。

 そうか。誰かが死ぬように呪う前に自分が死んじゃえばいいんだ。その方が手っ取り早くて簡単。そう思ったから、リストカットをした高校二年の春。

 でも、所詮は世間知らず17歳の自殺素人だった。運が良いのか奇跡的にだったのか、剃刀で手首を切ったはいいが、思ったよりも出血は少なく、どうやら動脈から外れたところだったらしく意識までしっかりあった。

  何だこれ。拍子抜け。が、赤くて生々しい肉と微かに白い筋が覗く中途半端にぱっくり口を開けた切り口を更に広げる勇気も度胸もなかったので、私はそのままブラインドの隙間から差し込む春休み終わりの昼の光る縞に照らされた、フローリングの上にできた直径20センチ程の案外鮮やかな血溜まりをぼんやり眺めていた。

 死ねなかったのだ。そういう行為を実行して未遂に終わった。

 少なくとも手首は切れた。自分を死に至らしめる事こそできなかったが、傷つける事には成功したのだ。

 私は、口ばっかりたいそうな事を並べ立てて、そのくせみみっちく自分を守る弱虫なんかじゃなかった。この傷をもって、示したのだ。虚無を訴えてもどうせするわけないってバカにしていた祥二や、対した事じゃないと相手にもしてくれなかった親や周りに。私は心底本気だったと。

 死等怖くはなかったのだと。そこまで思考がまとまると、他にやる事もなかったのでとりあえず寝っ転がって、窓の外の呑気な速度で通り過ぎる綿飴みたいな雲が浮かぶ平和な青空を眺めていた。その時、喧嘩していた祥二から電話がかかってきて、今近くにいるから迎えに行くと言ってきた。

 そのまま、死んだ振りして寝っ転がっているのもなんだったから丁度よかった。

 私は起き上がって、適当に血をティッシュで拭ってゴミ箱に放り投げ、救急箱を引っ張り出して傷を適当に消毒してガーゼを当てて包帯を巻いた。その時、母が買い物から帰ってきた。

「またあんたは。休みの日は制服なんて着なくてもいいじゃない。それともどっか行くの? それ、着過ぎてボロボロよ。繕ったり洗濯したりするから、置いときなさい。そんなの汚らしいでしょ」そう言った後で、目敏い母は私の隠し気味の手首をいち早く見つけて素早く聞いてきた。

「あんた、それどうしたの?」

 私は態度悪く母の問いには答えなかった。ただ、出掛けてくるとだけ言った。

「ちょっと待ちなさい!その傷見せなさい!」

 玄関のチャイムが鳴った。祥二が来たのだ。私は色の褪せたスニーカーを引っ掛けると、玄関の鍵を開けた。

 祥二が、その色黒のシェパード似の顔に些か戸惑いを漂わせて突っ立っている。母に気付いてぎこちなく挨拶する祥二の腕を無理矢理引っ掴んで、軽トラックに向かった。

「祥二君!吹雪の手首、お願い!」

 祥二は母の叫んだ事が一体なんの事だかわからないで、キョトンとしながら一応頷いたが、既に助手席に乗っている私の手首を見ると一気に顔を曇らせた。

「なにした?」

 訝しそうに聞きながら軽トラックを発信させる祥二に、私は相変らずなにも答えなかった。なんと言ったらいいのかわからなかったのもあった。

 祥二はそんな私をバックミラー越しや信号待ちしている時なんかに横目で見ていたが、特になにも言わなかった。しばらく2人共無言のまま祥二の家までの道をひた走った。

「・・・自分で切った 剃刀で」何度目かのカーブを曲がった時に不意に私は呟いた。

 何故か家を出る時の心配そうな母の顔が脳裏に焼き付いていたから。もう周りへのアピールは充分だろうとも思った。

「っーー・・・!なんて、事してんだよーー!」

 祥二のその静かに唸るような言い方は私に向けられたものではなくて、まるで自分に言い聞かして呟いているみたいに聞こえた。それがまた母の顔のように、何故か私の胸に突き刺さったのだ。祥二はそれ以上はなにも言わずに、ただひたすら帰路を急いでいるようだった。

 途中のコンビニで停まり、一人で乱暴に降りていってなにかを買って戻ってきた。そんな祥二の顔は、始終少し不貞腐れているような表情だった。

 私は特に後悔もしていなかったが、優越感と言う感じでもなかった。してやったりと言う気持ちではあったが、心配している母や祥二に対しては漠然とした安心感すら覚えていた。

 あぁ、心配してくれるんだ。私を心配してくれているんだ。やって良かったとも思っていた。それは私から見た光景であって、祥二や母にしてみたら、なんてバカな事をやったのだと思うだけなのかもしれないが、少なくとも私にはその方法でしか自分の存在意識を確認出来なかったのだと、17の私は迷う事なく思い込んでいた。

 祥二は自分の家に帰ると、さっそく私の片手でめちゃくちゃに巻き付けられた包帯を丁寧に取って、そのばっくりとした傷口をなにも言わずに顔を引きつらせたまま怖々と観察した。

 祥二の家には親がいなかった。

 いるのは弟と祖父と猫だけだった。元々父親だけの片親家庭だったらしいが、2年前に父親が死んでしまってからは、保険金と祖父の年金と、兄弟のバイト料と、祖父の世話を押し付けている伯父さんが毎月送ってくるお金で暮らしていた。

 土方のバイトをしている祥二と、パチンコ屋でバイトしている弟だけでもだいぶ稼いでいたので、暮らしぶりは全然悪くなかった。

 料理をしなくて買い食いばかりでも、飼っている猫が喧嘩して病院に通院しなきゃいけなくても、お爺ちゃんが漏らしてしまって布団を新調しなきゃいけなくなっても余裕みたいだった。

 祥二が使っている洒落っ気もそっけもない薄汚れたベージュの軽トラックは、家でも会社でも何台か車を持つ伯父さんから借りているらしい。

「けっこう切れてるじゃんか。病院に行った方がいいよ」

 祥二はひたすら顔を強張らせて私の顔なんか見もしないで、傷口を凝視しながら言った。

 私はそんな怯えているような怒っているような祥二の様子をじっと観察した。

「行かない」

 私は言い張った。頑固な事にかけては私の右に出る物はいない程、私は小さい頃から頑固だった。それは祥二もよくわかっていたので、呆れ混じりの溜息をついてから、私のお母さんに電話してと言った。

「やだよ。しない」

「俺が話すから」

 祥二は冷ややかな空虚さすら秘めた黒めがちな眼差しをして、威圧的とも取れる雰囲気で静かに私を見据えた。

 私は負けるもんかと睨み返したが、どうしたわけかあんなに溢れていた威勢は何処へやら、いつもと違う荒々しい野生の狼みたいな顔の祥二が怖く感じてしまい、渋々母に電話をかけて祥二に渡した。

 祥二はなにか母に聞いて指示を仰いだりしていたが、わかりましたと電話を切った。それから、さっき買って来たコンビニの袋を引っくり返して、新しい包帯と消毒液とテープでおぼつかない手つきで手間取りながら私の傷口を手当した。

 部屋のたった1つの窓の曇りガラスは、いつのまに染まったのか夜の帳色で吸い込まれそうな程濃くなっていた。祥二の部屋は常に電気が点いているから時間がよくわからなくなるが、窓の色を見れば大体わかる。

 私はその暗い曇りガラスに分解されて微かに映ってうごめく元はこっちの様子をしたものをぼんやりと眺めた。

 祥二はその後、ご飯を食べる時もお風呂に入れてくれた時も何も言わなかった。その無表情な動作は辛そうにも、憎々しそうにも、なにかを堪えているようにも見えた。

 布団に潜って眠りにつこうとした時、電気の紐を引っ張って豆電球にした祥二が隣に入ってきて背を向けて寝転がりながらふと呟いた。

「死ななくて良かったな。死んでたら俺らみたいに惨めに残される人間が増えてた」

 まだなにもわかっていなくて、自分の事だけだった私には、祥二の呟いたその意味は断片的にしか理解出来なかった。

 少しすると、祥二は規則的な寝息をたて始めた。

 私は、陰気な橙色を暗闇に投げかけて更に陰気にしている、恐ろしくぼんやりとぶら下がっている豆電球と、その下に微かに揺れている怪しい蛍光緑の丸い引っ張る紐の先についた目印玉を眺めていた。

 祥二のいびき混じりの寝息の合間をぬうように、何処かから途切れ途切れに、タイミングを指示された笑い声みたいな音やテレビの音の波みたいな雑音が聞こえてくる気がする。眠れない。

 包帯がグルグル巻きになっている手首を持ち上げて、しばらく眺めてみた。

 医療品独特の消毒された殺菌や減菌的なふっとした匂いが、辺りの空気に微かに広がった。もう痛みはなかった。

 不安定な感じもしなかったが、余計に裂けるのが怖くて無意識に常に前屈みになるように気を使って動かしているのに気付いて、不意におかしくなった。

 あんなに死を恐れなかったくせに、生き残ると途端に体をいたわり始める。一度はもういらないと自分を捨てた筈なのに。

 そのまま続行する事も出来たではないか。猛烈な痛みに堪えながら傷口を更に広げる事も、その下を切る事も出来たではないか。

 それをしなかったのは、やっぱり私の目的が本当に死にたいと思うものではなかったから。甘えとか弱さの部類に属する種類の死にたいだったのだと思う。それは生に執着する良い事なのか、それとも意気地なしの負け犬だとわかった悪い事なのかわからなかった。

 判別する事もないのかもしれない。理由や心意気なんてどっちみち、死んでしまえば関係ない。同じ事。

  ー私は未遂、死んでない、ただそれだけ。そんな事をつらつらと考えながらも私は特に反省もしていなかったし、もう死なないようにしようとも思っていなかった。

 まだ自分の死と言うものに無頓着で、これから先に、なにかあったらまた死のうとするのかもしれないとも感じていた。

 それだけ私は自分の存在に対して、特に意義や価値を見出す事が出来なかったし、執着もしていなかった。私がいなくても、なにも変わらないのだと。

 そうだ。結局、それが結論だ。それだけはやっぱり変わってはいなかった。


 2日後、私は母に連れられて病院に行き傷口を縫い合わせた。傷口は黒い足の8本ついた小さなムカデみたいな形になった。

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