ムカデの夢
御伽話ぬゑ
第1話
「なにもないな」
ようやくベルトコンベアーに乗って流れてきた海外旅行並の巨大なトランクを引きずって、とりあえず変に息苦しいから新鮮な空気を吸いたいと思い、空港の自動ドアを潜って明るい外に出た時に、深く息を吸い込んで大きな溜息みたいにやれやれと吐き出しながら夫が言った。
確かに夫が言った通り、空港の周りはある程度の駐車場が敷いてあるだけで、その向こうはどこまでも伸びる真っ直ぐな道路と間を縫うような緑の林、遥か彼方にはぼやけて青く山脈が連なるだけでそれ以外は見事に何もなかった。
空気はほの温かかった。
その景色をつらつらと、けれど丹念に眺めている夫の隣で私は景色に対する感動も稀薄で、キレイに胃の形に中身をすっかり掘り出されたようなお腹を押さえて、ただ空腹を感じていた。かれこれ5時間はなにも咀嚼していなかった。
機内サービスで出されるお茶もジュースも飴も、もう見たくもなかった。口内がキシキシした甘さで苛々さえする。私は空港から外に出たその時も、風景にビックリしている夫の横で目を凝らして懸命に飲食店らしきものを探していたのだ。けれど、もちろん見つからなかった。
「ないわね」私はかなり腹立たし気に吐き捨てた。
念の為匂いも嗅いでみたが、何処からも美味しそうな匂いはしてこなかった。きっと体内環境が正常であれば、実感してとうとう来たぞーと感動でもするのであるだろう、いかにも北海道のイメージっぽい、湿度が程よく混じった土みたいな匂いが微かにしただけだった。こんな状況じゃなきゃ、もっと感動出来るのに。
夫が空腹に気付くのがもどかしく感じた私は、まだ風景に魅了されている夫の腕を掴むと、何処か食べる所を探しましょと言って、空港の中に戻った。空港の中には必ず簡単な軽食屋がある筈なのだ。
ところが、空港に幾つか点在する食べ物屋はどこも、ちょうど同じ便で到着した人々と、その後の便で到着した人々で長蛇の列ができていた。
私は舌打ちして更に眉間の皺を深くしながら、その様子を眺めていた。隣で夫も同じようにその光景を眺めていたが、私と同じ位空腹な筈なのに特に興味も無さそうな様子だった。
並んでいる人々は男女関係なく、一様に不貞腐れたような仏頂面を並べて苛立たしそうに立ったり座ったりしている。
小さな子ども2人が、その雰囲気を感じ取ったのか、変に騒ぎ出して大声を上げ始めた。人々に漂う空気が一変に濃くなったように見えた。
騒いでいる子どもを忌々し気に睨みつける人もいれば、眉間の皺を深くして修行僧のように目を閉じている人もいる。宥めようとしている親を、如何わしいものでも見るようにしげしげ見ている人もいる。傍を通ったこれ又余裕のない怒っているような店員を捕まえて、いつになったら中に入れるのかと乱暴に聞いている人も何人かいた。夫はその様子を観察するように眺めていた。
「みんな、腹減って苛々してんだな」
変わらないくらいに苛々している私はそれに対してはなにも返さずに、ひたすら何処の店が一番早く入れそうかと余裕のない浅知恵を働かせては、思いつきもせずマトモに考えられもせず、まとまらない考えに更に苛々をするのを繰り返して舌打ちをしながらウロウロしていた。
夫はそんな私にようやく気付いたらしく、しばらくじっくりと観察した後で、おもむろに私のトランクを引きずってタクシー乗り場へと淡々と歩いて行った。
「何処行くのよ」
不意を突かれて置いていかれた私は、思いのほか大きな声をあげながら急いで夫の後を追った。
「街まで行けば食うとこあんだろ」
「どのくらいかかると思ってんの?!」
「さぁ。ここで苛々しながら待ってるよかマシだろ」夫は、ショールを振り乱して喚く私には目もくれずに颯爽と2人分の大きなトランクを引きずってどんどん歩いていく。
仕方なく私は夫の後ろ姿を恨めし気に睨みながら、力なくついていった。
人気の全くないタクシー乗り場で難なくタクシーに乗り込み、運転手に札幌までお願いしますと言い、ついでにおいしいと評判の店を訊ねている夫の隣で、冷めやらぬ腹立たしさと共にシートに沈み込んだ途端、タクシーの窓ガラスから17歳の私が不意に顔を出したのだ。
私は空腹もなにも忘れ、一瞬にして凍り付き、その窓ガラスの中に映ったくたびれた汚い制服を着て、目にかかるくらいの前髪の下から射るように覗く空虚な眼差しをした不機嫌そうな17歳の自分を見つめ続けた。と言うより目がそらせなかった。
ショートカットの少女は不健康そうな顔の眉間に皺を寄せて睨みつけるように微動だにせず、乾いた唇を少し噛んで、なにかを堪えているようにも不安そうにも見えた。
「ここから少し行った所に、食うとこあるってさ」
現実味のある低い夫の声がすぐ隣でして、私は軽く驚いて我に返った。夫は、気さくな運転手相手に観光客らしい他愛無い会話をしていた。
私は窓ガラスを改めて見直したが、そこには北海道の広大な牧草地が見渡す限り窓の外を通り過ぎていくばかり、それ以外にはなにも映ってはいなかった。
一体なんだったんだろう?
あまりに苛々し過ぎて頭に血が上って、幻覚を見たのかもしれない。それにしては、鏡を見ているようにやけに生々しかった。
私は鞄からペットボトルのお茶を取り出すと一口飲んで落ち着こうと思った。が、一度きっかけを作ってしまった思い出は、箍が外れたように次々と数珠繋ぎに思い出していく。それはわかるけれど、私はこと17歳の記憶については思い出したくなかった。この20年間、ずっと思い出すのを必死に封印していたそんな記憶だったのだ。
悪寒がする。いや。きっと退屈な機内で冷えたせいだ。
私と夫は1年前に結婚した。
仕事が忙しく合間を縫って式だけはあげたが、新婚旅行すら行けずにいたのでそれも兼ねて、夫が小さい頃お世話になった遠い親戚のお墓参りに来ていた。
ずっと気にはかかっていたが、なかなか遠い北海道までの旅を思うと踏み切れずにいた夫も、私と結婚して暮らしも落ち着いてきたので、溜った有給を使って思い切って訊ねてみようという事になったのだ。
私達は、彼がとあるメーカーの促進販売の仕事で、私の働く量販店に入った事で知り合った。なにかと仕事でお世話になっているうちに意気投合し、一緒に食事に行くようになり、彼の販売期間が終わってからも頻繁に会うようになって、付き合い始めて一年でプロポーズされストレートに結婚した。
私は、彼のどんな時にも落ち着いた態度や、方肘張らないラフな性格がとても好きだった。2人で一緒に付き合いを決めて、2人で一緒に結婚までの事を進めて、新居を決めて、時々些細な喧嘩をしたりもしたが、全体的になにもかもが順調。
今回の旅行も2人で観光ブックを睨みながら行きたい所、食べたい物リストを作って、2ヶ月も前から楽しみに準備していた事だった。毎日に不足はなかった。むしろ感謝したいくらいに平穏で、幸せだと思える毎日を過ごしている。だからこそ、どうしてこのタイミングで17歳の私が現れたのかは不明だった。
私の動揺に同調するかのように、気のせいか手首の古傷が微かに痛み始めた。
ムカデが熱を持って脈打っているのがわかって、必死に平静を装いながら何とか落ち着こうとして、テレビのような窓ガラスに映っては通り過ぎていく緑の平原と所々に点在するメルヘンちっくな可愛らしい住宅や白樺の林を眺めながら、私は心底空恐ろしい気持ちになった。
「やけに静かになったけど、どうした? 酔っちゃった?」
相変らず喋り続けている運転手の名産話に相槌を打っていた夫が、急に意気消沈して窓ガラスをぼんやり見つめる私に気付き、伸ばしっぱなしにしていてようやく2日前に肩まで切って緩やかなパーマをかけた私の髪に軽く指を絡ませながら不思議そうに聞いてきた。
私は首を振った。「・・・平気。お腹が減り過ぎただけ」
「そう。俺の嫁さんは空腹にめっぽう弱いから。もう少しだからな」
「うん」
そう言って私はくしゃみを1つすると、また和やかな土の匂いがするだろう大地と、絵筆で走り書きしたような雲が伸びる青空が広がる窓ガラスに目を移した。まだ何処かから、あの射るような不安定な視線を感じるような気がしていた。思い過ごしだ、そんなわけないと強く自分に言い聞かせた。
そう。楽しい旅行。なにも気負う事も心配する事もないんだ。きっと疲れたんだ。少し、少し眠ろう。そうすれば、目が覚める頃にはご飯が食べられる場所に着いているだろうし、きっと気分だって良くなっているはずだから。
眠りは精神安定剤。
私は、夫に聞こえないように、ごく静かに深呼吸をしてから改めてシートに深く身を沈めて固く目を閉じた。長時間のフライトの疲労感からか、思いのほか眠りは早く訪れた。
夫と運転手の声が、徐々にぼやけて滲むように様々な頭の中を満たす周波数と混じり広がっていく。
私は、規則正しく響く車の振動に揺られ、ほの温かいその意識の中にぐったりと浸かって体の力を抜いた。
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