第4話
「一緒に帰ろう」
校舎の昇降口を出ると、夕焼けがかった景色の中、例の彼が待ち伏せをしていた。私はもうすっかり忘れてしまっていて、顔の判別のつかない彼を気付かなかった振りをして横を通り過ぎようとした。
「ちょっと、待ってよ」
「・・・なに?」
「一緒に帰らない?」
「帰らない」
「いいじゃん。友達なんだから」
「そうだっけ?」
「酷いなぁ。もう忘れたのかよー」
「酷いのはあんたでしょ。そうやって気紛れになにかしてくるの迷惑」
「迷惑って事は、少しは俺の事考えたりしてくれたんだ」
嬉しそうだか計画的にだかわからないけれど、爽やかな笑顔を貼付けて彼は足早に歩いて行く私の後を追ってきた。
「付いて来ないでよ」
「一緒に帰ってんだよ」
「そうやってよくわかんない事して私を振り回さないで」
「俺は振り回してないよ。君が勝手に振り回されてるって感じてんだ」
「違う」
「そうだよ。だから君は俺を前より意識し始めてるんだ」
「自惚れ過ぎじゃない?」
そんな事を言い合いながらも気付けば結局、私の家の近くまで来てしまっていた。
「少しでも俺を視界に入れてくれて嬉しいよ」
「入れてない」
「嘘だね」
「どうして私が、好きか嫌いかすらわからないようなあなたを見なきゃいけないの?」
「じゃあ、なんであんな視線を送ってきた?」
気付かれてた。視線が合わないと思って気にしなかったのに。けれど、その自信たっぷりの言葉が気に食わなかったので私は否定し続けた。だってこれじゃあまるで、私が再び誘ったようなものじゃない。
「そう? 気のせいじゃない? 忘れた」
「うん。でも俺は感じたよ。そして嬉しかった」
「知らない」
彼は私の家の前に来ると、ちょっと中を覗くように視線を泳がせてから、じゃあ又明日と言って来た道を戻って行った。彼の家は逆方向らしかった。
何とも言えない気持ちで玄関を開けようとした時、ふと背中に視線を感じて夕闇の濃くなった中、後ろを振り返った。黒々と夜に沈んでいく住宅の並んだ道の少し離れた所に、沈んだ夕日の残光を浴びて影絵のように長く影を引いて立っている小柄なシルエットを認めた。あーちゃんだった。逆光になっているので、その表情まではわからなかったが私が声をかけようとすると、あーちゃんは一目散に走って行ってしまった。追いかけようとも思ったけれど、あーちゃんの足は私より何倍も速いので諦めて家に入った。
それから数週間、あーちゃんは廃墟工場に姿を見せなかった。
朝も見かけない所を見ると、もしかして具合が悪かったのかもしれないけれどわからない。以前、あーちゃんのお母さんに見つかって以来、あまりよく思われていないらしかったので気軽に家を訊ねる事も出来なかった。
とりあえず、私はいくら冷たくしてもめげずに送ってくれる彼を巻いた後、一人で工場に通っていた。
その日は羊毛を無造作に丸めたような雲が多くて、しかもすごい速さで横切って行っていたので薄暗く、吹く風もどこか肌寒かった。だからいつものように工場にあーちゃんがいるのかを見に行ったらすぐに帰るつもりだった。
私は一人では割らない。あーちゃんと一緒の時しか壊さないと、この遊びを思いついた時に2人で約束したのだ。
「絶対に独り占めするなよ! 2人で一緒にするんだからな!」
そう何度もあーちゃんと約束させられた。だから、私はそれを破らない。
工場のいつもの場所に行く途中の吹き抜けの廊下で、私は何気なく上を見上げた。いつもは特に興味もないので見もしないのを、何となくその日は見上げたのだ。そこにはぶち抜かれた陰気な空の天井が広がっていた。不意に胸騒ぎを覚えて、今日はあーちゃんがいますようにと思った。
あーちゃんは来ていなかった。
私は溜息をついて帰ろうとしたが、鼠色の空に何か幾つか光るものを認めた気がして立ち止まった。決して頰に寄り添おうとしないそっけない辺りに漂う空気の色密度が一段と濃くなったような感じがした。帰ろう。そう思って踵を返そうとすると、いつもよりも深く濃い灰褐色を落としている影から不意に現実味を帯びた声がした。
「帰るのか?」
声の主は幾重にも濃淡になった影の中に立ち、軍手をした両手にたくさんの電球や温度計を抱えたあーちゃんだった。
「あーちゃん、いたんだね」
それには何も答えずに、あーちゃんは手に持った物を片っ端から力任せに粉々にし始めた。無言で無表情のあーちゃんは気のせいかいつもよりも苛々となにかの感情を込めて力一杯に叩き付けているようで、破片が勢いよく飛ぶ。
私は何もせず、ただかん高く儚気な断末魔の叫びを上げてスローモーションのように粉々に散らばっていくかけら達の様子を、時折前髪を微かにそよがす風に目を細めながら見つめていた。
ひとしきり割り終えると、あーちゃんは煙草を出してマッチで火を点けて、火がまだ燃えているマッチを徐にかけらの山に投げた。温度計に閉じ込められていた色付けされたアルコールや灯油達が微量ながらも勢いよく燃え始めた。
炎の中で粉々になった破片達はキラキラとその輝きを増しながら、まるで生き物のように艶が出て今にも動き出しそうな程だった。
その傍に何処かのおじさんみたいにウンチ座りして煙草を吹かしながら、あーちゃんは黙って火を見つめていた。その黒めがちの幼さの残る円らな瞳は、炎が映りちらちら動いてまるで水晶玉のように綺麗だった。
「蛍は知ってたのか?」
なんの事を聞いているのかがよくわからなかったので何の事かと聞き返すと、あーちゃんは足下に落ちていた小石を拾って火に投げながら静かに言った。
「・・・俺の親父が 蛍の母ちゃんの男だったって事」
頭の後ろになにかがじわっと滲みた。とうとう知ってしまったのだと思った。急に私はあーちゃんの姿を見つめる事が出来なくなってなにも言えずに視線を足下に落とした。奇妙に揺れる薄い影。
「最近母さんが尋常なく怒るから、俺、面倒臭くなって親父の実家に家出したんだ。そしたらばぁちゃんが言ってた。俺、知らなくて、たまたま夜遅くに来た親父に問いただしたんだ。そしたら野郎間抜けた顔して知らなかったのか? だってよっ!」
あーちゃんは火に向かって腹正し気に砂やら爪くらいの大きさの石やらを手当たり次第投げ続けた。
「最低だな。蛍が言ってた通りだ。 家に帰ったら、母さん 俺に黙って引っ越す準備をしてた。俺は母さんにとどめを刺しちまったんだ」
「 ・・・ごめん」
「お前が謝んな」
「・・・うん」
「俺は母さんと行く」
「いつ? いつ行っちゃうの?」
「・・・もうすぐ」
視界が霞んで私は思わず蹲ってしまった。この数日間でそんな事が起こっていたなんて。まるで取り残された気分だった。それに、怒りをぶつけるように一心に砂を投げ続けるあーちゃんの心情が痛い程わかってしまってどうしても堪えられなかった。炎はそんな事には構わずただ燃えている。きっとガラスやなんかがいやらしく溶け合って変にきらきらしているんだ。粉々に割れて光を反射するあの神々しい輝きとは違う、なにかドロドロした如何わしい輝きに似たもの。どす黒く惨めな塊。気持ち悪い。そんなもの見たくない。あーちゃんも同じ気持ちだったのかもしれない。
全部燃えろっ!燃え尽きてなくなればいい。惨めで濁った塊だけ残して溶け崩れればいい。そして焼け残ったそれを私達が粉々に砕くんだ。欠片も残さずに・・・
私達はそうしてしばらくただ炎のたてる不思議な音を聞いていた。
「あいつの事、好きなのか?」
躊躇いがちにけれど、ハッキリとした肉声の輪郭を持ったあーちゃんのその突然の問いに、私はなんの事だかわからず答えに窮してしまった。
「一緒に帰ってんのか?」
いつもの彼の事だと気付いて、何故か私は慌てた。そうだ。確か、あーちゃんは一回目撃していたんだ。誤摩化すのもなんだか違うし、かと言ってどう説明すればいいのか迷っていると、あーちゃんはもう一度強めに聞いてきた。
「あいつの事、好きなのか?」
「わっ、わかんないよ。そんな事・・・」
「でも、一緒に帰ってんだな?」
「一緒に帰ってるんじゃなくて、あの人がついてくるの。同じクラスだから、それだけだよ」
あーちゃん相手にどうして言い訳のような事を口走っているのか、わからなかった。あーちゃんは黙りこくって俯いてしまい、しばらく吸わずに灰になって次々落ちて行く口の先に加えた煙草を鋭い眼差しで凝視していた。
私はどうしてあーちゃんがそんな事を聞いたのかわからなかったので、どうしてそんな事が気になるのかと聞こえないくらいの小さい声で聞いたのだ。
途端、あーちゃんはすごい勢いで立ち上がり、隅っこに置いてあった自分の使い古してぺっちゃんこになった黒いランドセルを掴むと火の中に投げ入れようとした。私は驚いてしまい、とっさにあーちゃんの腕を押さえてそれを止めさせた。いくら男の子でも、私の方が歳が上なのもあってあーちゃんは私の腕に強く羽交い締めにされてもがきながら喚いた。
「放せっ!蛍っ! どうして俺は小学生なんだっ! 蛍と同い年が良かったっ!こんなガキじゃイヤだっ!イヤだあーー・・・!」
「あーちゃん・・・!」
「あーちゃんなんて子どもっぽく呼ぶなっ! 旭って呼べよっ!俺は旭なんだっー!」
痛っ! 腹を立てて暴れるあーちゃんを、力一杯抱き締めながら私はまた体中を砂利で擦るようなチクチクした痛みを感じていた。でも、あーちゃんを放す訳にはいかない。あーちゃんの声に呼応するように痛みは増していく。視界の中の炎とその周りに煌めきが増えていき目眩がする程だ。
「蛍っ!放せっ! お前なんか嫌いだぞっ!大嫌いだー・・・!」
あーちゃんの悲痛な泣き叫ぶ声が建物に谺して、それを合図にしたように静かに雨が降ってきた。
あんなに躍動していた火は惨めに消され、後には汚く黒ずんだかけらの残骸とだらしなく濡れそぼった焼け跡が残った。私はすっかりずぶ濡れになって更に小さく見えるあーちゃんに体操着のタオルを被せて家まで送って行った。
家の前まで着くと、あーちゃんは何も言わずに自分の家に駆け込んでしまった。私は正直どうしたらいいのか途方に暮れていたが、鈍痛を堪えた体は重たく何も考えられなかったのでそのまま家に帰った。
その夜から高熱の出た私は、丸々3週間寝込んでしまった。
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