第5話
ようやく私の熱が下がって登校し始めた頃、色んな事が一気に変わっていた。
ママは旭のパパとの私の扱いに対する意見の相違で喧嘩になり、そのいい加減さに呆れて別れ、その勢いで正式にお見合いをして大人しそうな人と再婚した。どうりで体調が回復してきてから家にいない事が多いと思ったらそういう事だったらしい。ママの奔放さと言うか非常識さには驚く事もあるが呆れてしまうが、今回の事に関しては私は心底ほっとしたのだ。
「なんだかママ、あまりの寂しさに質の悪い病気にでもかかっていたみたいなのよ。今思ってもどうしてあの人だったのかしら? って思うの。多分その時に一番身近にいたからね」
おっとりとそんな事を口ずさむママを苛立たし気に睨みながらも、私は溜息をついた。もっと早くにママがそれに気付いてくれれば、あーちゃんもあーちゃんのママも傷付けずに済んだのに。辛い思いをして離れずに済んだのに。それとも、それも仕方なかった事なのかなぁと疑問に思う。新しいパパは、何処か死んでしまったパパに似たような雰囲気を持つ優しくおっとりした人だった。そのお陰かどうか私は好感を持つ事が出来、とても歓迎した。その人は決して横柄な態度でお前だなんて言わないような人だったからだ。
高校の彼は、私が寝込んでいる間も足繁く通い、そのある意味謙虚さと素直さが私のママに見初められて、学校に復帰する登校日の朝にちゃっかり迎えにきたりして、なんとなく私の彼氏だと勝手に名乗って堂々と一緒にいるようになった。
そして、あーちゃんは、
お母さんのいる神戸に引っ越してしまっていた・・・
私はその後何度も廃墟工場に行った。けれど、いつ行っても工場は終焉を迎えたもの特有の少し不気味な臭いのする空気を纏って、なにも変わらずただぽかんと青空の天井を空けてその下に転がっている無数のかけらの残骸を照らし出しているだけだった。
かけら達はもう輝かなくなってしまった。
ある昼下がり、私は仮病で学校を早退して工場に来ていた。額から流れる汗を拭いながらいつもの部屋に行って、窓枠だけになったひんやりと冷たい剥き出しのコンクリート塀に寄り掛かって転がったコンクリートブロックに座っていた。向かいにも似たようなブロックがあって、そこはずっとあーちゃんが座っていた場所だった。
鬱蒼とした熱気と共に窓枠から差し込む眩しい程の緑を帯びた光の粒子に浮き彫りにされた陰陽のぼやけた境目をじっと眺めていると、あーちゃんの汚れたスニーカーの先っぽが今にも交互に顔を出したり引っ込んだりするんじゃないかという気がして、私は随分長い事それを待つように見つめていた。
窓枠の外には青々と濃く茂った葉が何重にもなって太陽の日差しを柔らかく透けて映し出している。何かを訴えるような油蝉の合唱が聞こえて、それに答えるような木々の微かなざわめく音が判別出来ない程静かに響いてくる。
私はそんな音に耳を澄まして、徐に鞄から手鏡を取り出した。それはパパが私の小学校入学祝いにプレゼントしてくれた大切なもので、いつも肌身離さず持ち歩いていたのだった。鏡の中にはどこか薄淡い色をしたぼんやりした私が映っている。真っ直ぐの黒い髪。色のない顔。汗をかいているのに何故か乾いた唇。黒いばかりの目。まるで実体のない消えかかった影のようだと思った。私はこんな顔をしていたんだなぁ。独り言のように鼻で笑いながら、私はその手鏡を思い切り壁に投げつけた。小さくて華奢な叫びがして、鏡は粉々に砕けて床に落ちた。
かけらは今までで一番キラキラしていて綺麗で、もう私の顔は映っていなかった。一寸、その粉々になった小さな反射面の中であーちゃんが笑ったような気がした。あーちゃん・・・いや、旭は本当はあの綺麗なかけらの中にある国に行ったのかもしれない。私もいつか行けるのかな・・・
でも、何となく自分はもうそこにはいけなくなってしまった事が紙に水が染み込むような感じでわかって、ふと前触れもなく汗だか涙だか判別がつかないものが溢れてきた。私達はいつの間にこんなに離れてしまったのだろう。
いつもの帰り道、彼は狙っていたように私の手を繋いできた。私は一瞬ヒヤリとした。とっさにあーちゃんの時の事を思い出したからだ。けれど、予想に反して別に何も起きなかった。シャープペンシルやコップを持つようにあまりに普通だったのだ。キラキラもなにも見えなかった。あれ、こんなだっけ。拍子抜けしている私とは打って変わって、顔中に甘酸っぱそうな幸せ色を塗りたくった彼はご機嫌で鼻歌を歌っている。繋いだ手は何の感触も実感も伝わってこず、ただ空白のに中に置き去りにされたように宙ぶらりん変な気がした。彼は大きな間延びした欠伸をした。
「今朝、工事の音でうるさくて早くから目が覚めてさ、一体何の工事をしてんのかと思って覗いたら、俺の家の近くにあるデカイ胡桃の木が根元からなくなってたんだ。知ってる? 俺、割とあの胡桃の木好きだったんだけど・・」
唐突に突き上げるような衝動が襲ってきた。私は何だかわからないけれど恐ろしさに怯えるようにして何も言わず、彼の手を振り払って工場へと走った。走らなければいけない大切なものを思い出したのだ。
工場は緑のビニールシートが張られ、取り壊し工事の真っ最中だった。不遠慮なけたたましい大きな音を轟かせて、コンクリートを壊し、次々と原型の判らない瓦礫の山に変えていく。私は圧倒されてしゃがみ込んだ。なくなっていく・・・
あぁ、今やっと理解した。私は本当にバカだったんだ。あーちゃん・・・ ごめんね。
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