第七話 画竜点睛〈5〉

 



 その中で唯一動き出していたのは、グウェンだ。

 ジーンのいる露台を目指し、軽功を用いてひとっ飛びに疾駆する。

「ジーン!」

「やあ、グウェン。ここまで来るのに随分とかかったじゃない。あの子も案外役に立つんだね」

 吹く風に夜闇よりも黒い髪を遊ばせ、ジーンが微笑む。

 自分を待っていたとでも言いたげなその態度に、グウェンは顔をしかめる。赤橙色の視線がグウェンを射抜いた。

「オマエ……ユーリンに何をしやがった」

「いろいろ、そりゃもう言葉にしちゃいけないようなイイコトさ。グウェン、おれはおまえのモノってだけで俄然あの子を弄ぶのが楽しくなっちゃうんだもの。仕方がないよ」

「ふざけるな。あいつはあいつ自身のものだ。他の誰のものでもない」

「そうかな。本人はそう思っていないようだけど、ね」

 ジーンはわずかに目をすぼめ、まるで親しい相手のことを語るような顔つきになった。それは凌辱の限りを尽くし、最後は塵のように斬り捨てた少女のことを話す表情ではない。 

 ジーンは、明らかに別のなにかを――そこに誰かのことを重ねているようだった。

「この魔都では、誰も彼も、皆が他人や自分の欲望の下で踊らされている。まるで哀れな僵尸のようにね」

「……何が言いたい」

「おれやおまえも一緒だよ、グウェン。この世に溢れる怨みや憎しみ、そのドブ攫いを押しつけられて、永劫の苦界を生きる。人間が現世に生きる限り、霊幻道士の務めはなくならない。なぜなら奴らは憎み、裏切り、奪うのが本分の存在だからだ。そんな人間どもを守り、生かしたところで何になるというのだ? おれたち霊幻道士こそお偉いさん連中の傀儡じゃないか」

「それは……ちがう。ちがうよ、ジーン。たしかに人間は愚かだ。それを変えることはできないかもしれない。だが、救うことはできるだろうが!」

「そうかもしれないね。でも、グウェン。やっぱりおまえじゃおれを救えないよ」

 憧憬を抱くような目をして、ジーンがグウェンを見つめていた。

 子どもの頃に憧れた兄の面影そのものがそこに在り、グウェンは二の句を継げずに立ち尽くすのみ。

「おれは最後におまえと話したかったんだ」

 先に口を聞いたのはジーンの方だった。

 邪竜がこちらを見下ろしている。

「最後、だと? ジーン……オマエはいったい何を」

「あの時、おれは一緒に来ないかとおまえを誘ったね。今、おれが同じことをもう一度聞いたら、どうする?」

 もしも、あの時――。

 それはまさにグウェン自身が何度も心の中で繰り返し考えてきたあの問い掛けだった。

 だが、もう迷わない。答えは決まっていた。

「オレはオマエをどこにも行かせはしない。今ここで、すべてに片をつけてやる」

「いいね、いいよ。それでこそおれの弟だ」

 グウェンの言葉を聞き届け、ジーンは愉快そうにくつくつと笑い出した。

「それじゃあ、おれを止めてみろ、グウェン。おれの目的はすべてを破壊し尽くし、この世を再び混沌に陥れることさ。僵尸に竜、それに人間。肉と肉と肉との豪華饗宴の始まりだ。呪的エネルギーで常に満たされているこの魔都こそ、その手始めにふさわしい!」

 轟音が響き渡り、辺りが揺れる。邪竜僵尸が動いたのだ。

 まるでジーンに向かって跪拝するかのように前のめりに身を倒し、邪竜が額をジーンに近付ける。暗緑色の鱗がぬらりと月光を浴びて輝いた。

「……画竜点睛。描いた竜には瞳を点じないといけないんだよ」

 ジーンが前に進み出て、邪竜僵尸の顎に触れる。

 やめろ、と叫ぶことはできなかった。実際にはそう叫ぶ前にジーンが行動に移していた。

「さよなら、グウェン」

 ――ジーン。

 グウェンが兄の名を呼んだその瞬間だった。

「竜よ、我が血肉を喰らえ。おれの意思がおまえを支配しよう。――急急如律令」

 竜の顎下、そこに宿る宝珠がジーンを呑みこんだ。否、ジーンの方が竜を取りこんだというべきなのだろう。ジーンが竜を喰ったのだ。

 屈んでいた邪竜僵尸が再び立ち上がり、満月を背後に巨躯を聳え立たせた。

 地鳴りと共に辺りが揺れて、大量の瓦礫が崩れ落ちる。

 金色の瞳に、邪悪なる意思の炎が燃えている。ジーンの劫火のような魂がそこに宿っている。グウェンにはそれが見て取れた。だから、すぐさま露台から身を乗り出し、地上の仲間に叫ぶ。

「雪蓮、ルオシー、すぐに退避だ!」

「グウェン様! あの竜はいったい!?」

「ジーンの奴が取り込みやがった。いいから早くここを離れろっ!」

 その言葉を聞き終わる前に、雪蓮はすぐさまルオシーを連れて走り始めた。

「おまえも早く逃げろ、グウェン!」

 そう叫ぶルオシーの声があっという間に遠ざかる。雪蓮は想像以上に有能だった。

 破壊衝動のままに動き出した竜は、その爪で立ち並ぶ楼閣を薙ぎ倒し、進むごとに電柱を引きずり倒す。

 あちこちで土煙りが上がり、破壊が撒き散らされてゆく。その一撃の威力たるや、千体の僵尸の膂力をもってしても凌ぐことはあたわぬだろう。

 この街を破壊し尽くし、なお暴虐の限りを尽くさんとするジーンの意思は、それほどまでに強靭だった。

「……馬鹿兄貴が」

 グウェンも崩れゆく楼閣から跳躍し、退避する。

 地上にはユーリンを残したままだ。まずは拘束したユーリンを回収し、雪蓮たちと合流すべきであろう。

 そう。どんな手段を講じてでも、あいつを止めなければならない。相手が僵尸であり、そして己の肉親である以上、霊幻道士であるグウェン自身の手で始末をつけねばならぬのだ。

 しかし、ジーンという魂の核を得た邪竜僵尸を打ち倒すには装備が足りない。義荘に備えた武器をすべて投じても勝てるか否かはわからない。だが、ここは一端拠点に戻るのが定石だ。

「――って素直に逃してくれる気はないみたいだけど、なっ!」

 直前までグウェンのいた場所を竜の尻尾が砕く。今や楼は完全に崩れ去っていた。

 巨大な三叉戟の如き竜の巨爪が振り下ろされ、グウェンの行く手を塞ぐ。

 自分の方が小回りが利くのが救いであると思っていたが、どうやらそれすら甘いらしい。

 竜は――ジーンは正確無比な追撃でもって、グウェンから逃げ場を奪っていく。

「ちっ!」

 ぶちまけられた瓦礫が退路を阻み、巨爪が路面を引き剥がす。降り注ぐ破片を刀で弾き、尻尾による追撃を跳んで躱す。それでも、迫りくる竜の凶爪は確実にグウェンを追いこんでいく。

 真上からの一撃を躱したところに、横合いから叩きつけるように凶爪が振るわれる。

 ――防ぎきれない!

 直撃を覚悟した時だった。

 グウェンと竜の間に割り込むようにして飛び込んできたユーリンが、グウェンの体を間合いの外へと突きとばす。

 一瞬の永遠、儚い微笑みをグウェンの瞳に焼き付けて。

 その華奢な体を竜の凶爪が引き千切るように薙ぎ飛ばした。

 ユーリン。そう呼べたかどうかすら、グウェンには分からなかった。そんなことは関係なかった。頭の中で何かが、誰かが叫んでいる。自分自身が実際に叫んでいたのかもしれない。グウェンは疾駆し、地面に叩きつけられたユーリンの体を抱えると、すぐにその場から退避した。

 竜の間合いから逃れ、距離を取ると、グウェンはユーリンを地面に横たえた。

 だが、傷を検分するまでもなかった。なにも出来ないことが一目で分かってしまった。

 ユーリンの体は、腰から下が千切れかけ、殆ど骨と筋だけでぶら下がっているのみだった。右腕は見当たらない。左腕も黒縄を喰い込ませたまま、辛うじて繋がっているだけだ。それは少女が無理やりに術の縛めを破ってきたことを示していた。

 ずたぼろに踏みにじられても、まだその体は出鱈目に動こうとしている。それはまさしくユーリンが飛僵であるからだった。彼女自身が忌み嫌ってきた化物としての性質が、彼女をこちら側に繋ぎとめていた。だが、その縁ももう途切れようとしている。

「……せん、せ……無事……です、か?」

「ユーリン。どうして、オマエ、こんなことを」

「……よかっ、た」

 抱き起こした腕の中で、諦観したように少女が微笑む。

「だって、私……偽物、だけど……やっぱり好き、なんだもの。仕方……ない、ですよ」

 ユーリンの体から力が抜け、その双眸からは急速に光が失われていく。彼女の心臓部である宝珠が重篤な損傷を受けている証拠だった。

 疑似生命――体内に埋め込んだ魂魄を維持し、心身を操る符咒の作用機序が失われかけている。

「……もうすこし、だけ」

「だめだっ、ユーリン! いくな!」

「傍に、いられたら。そしたら、」

 それきり、唇は言葉を紡ぐのをやめ、ほんの少しユーリンの相貌が強張った。

 それだけだった。それで終わりだった。グウェンの腕の中でユーリンは事切れていた。

「ユーリン……」

 これで、終わり?

 そんなわけがない。そんなわけが――

 許さない。そんなこと許せるわけがない。まだ逝くな。そんなことをオレは許していない。

 オマエを、たったひとりでいかせはしない――!

「――これは勅である! 命ある者の如く、我に付き従え!」

 知っている。世の理を捻じ曲げるには相応の代価が伴うことも。

 だが今更そんなことを厭うわけがない。グウェンは霊幻道士なのだ。

「急急如律令!」

 自身の魂魄の半分を注ぎこみ、祈りを捧げる。少女に与えられるのは自分自身の命しかない。魂魄を分け与え、再び飛僵として喚び起こす。グウェンは無我夢中で祈った。

 全神経がいくら悲鳴をあげようとも、霊力がここで尽きようとも、止める気はない。何が何でもユーリンを喚び起こす。

 その祈りに呼応するように、ユーリンの中に埋め込まれた宝珠が燐光を放ち始め、全身に張り巡らされた疑似経絡が浮かび上がる。まるで刺青のような複雑な紋様を描きながら、光の線が走っていく。

「ユーリン! 戻ってこい!」

 扉を抉じ開けて、手を伸ばす。

 そんなイメージが展開されていく中で、グウェンは確かに温かい手を取ったと確信した――その瞬間。

 光が弾けるように迸り、辺り一帯を真昼のように染め上げた。




 第七話 了

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