第七話 画竜点睛〈4〉

 



 次の瞬間、楼から降り立つ影がひとつ。

 華奢な体躯に比して余りにも大きく凶悪に発達した両腕を構え、行く手にユーリンが立ちはだかった。

「……いかせない」

 壊れた瞳がグウェンを見据えた。

「せっかく生き長らえさせてあげたのに、ここまで来てしまうなんて……。愚かですよ、先生」

「どきなさい、ユーリン。でないと――オレのお仕置きは痛いぜ?」

 あくまで挑発的に笑い、グウェンはユーリンを真っ直ぐに見る。

 ぐるる、と低く喉を鳴らし、ユーリンが牙を剥く。その両眼に仄暗い燠火が灯る。

「今度こそ私を本気で殺さないと、誰も助けられませんよ?」

 転瞬。剣光がたばしり、ユーリンの凶爪とグウェンの刀がぶつかり合った。

「法術に頼らないと化物も殺せないくせに! そのつまらぬ憐情が貴方自身を殺すんだ!」

 刃を圧し返し、鋭い突きを繰り出しながらユーリンが叫ぶ。

「オレは、ユーリン。オマエを憐れんだことはないよ」

「嘘だッ! 先生は……私をいつもみくびって、侮っていたくせに!」

 繰り込まれる攻撃はどれも急所を狙ったものだ。

 それらをすべて刀で受け止め、いなしながら、グウェンはユーリンに向かって語りかける。

「そうかよ。オマエにはそう見えていたか」

「そうだ! 他に何があるッ……」

 響く剣戟。打ち合う刃が火花を散らし、再び二人はぶつかり合った。

 互いの呼吸を読み、思考を辿り、果ては本能のままにせめぎ合う。

「愛している」

 零距離で刃と視線を交わし、言葉を紡ぐ。

「オレはオマエを愛している」

「なっ――」

 驚愕に目を見開いていたユーリンの表情が歪んでいく。その身を苛む情念に耐えきれず、苦痛が表面に滲み出すかのように。

「多分、オレはオマエを大事にし過ぎたんだ。それがかえってオマエを傷つけてしまった」

「うるさい! 今更……もう何もかも手遅れだというのにっ」

 ずぶ。凶爪がグウェンの長袍を切り裂いた。この瞬間、グウェンはユーリンの爪に肌を貼り付けるようにして身を滑らせた。冷たい凶爪が肌に触れた時には、ぞっと鳥肌が立った。修羅場は踏んでいるが、これほど危ない賭けをしたのは初めてだった。

 空を突いたユーリンが驚くが、そのまま手鉤を捻って横薙ぎに払う。その腕へ、グウェンの刀が切りこんだ。

 ユーリンは即座に構えを解いて、宙に身を翻した。逃れる気だ。好機。グウェンの手が、墨壺を構えた。目にもとまらぬ俊敏さで糸を手繰る。刹那にして張り巡らされた黒縄がユーリンの体に巻き付き火花を上げた。用いたのは雌鶏の血ではなく、自身の血液。霊力の籠った一撃が、ついにユーリンを捕え、縛めた。

「ぐあぁぁ――ッ」

 雷撃の如き神力がその肉体を駆け廻り、ユーリンが悲鳴を上げて悶える。

 飛僵であるユーリンにとっては痛恨の一撃だった。

「観念しろよ、ユーリン。オレの仕置きは痛いと言っただろう?」

 憎しみに滲んだ翠眼が、グウェンを睨みつけた。仄暗く壊れた目をしたその姿が、グウェンの心に重ねて傷をつけた。

「ッ……ぅ……殺してよ。いつもしているように首を刎ねればいい」

「しないよ。できないんだ」

「私は化物だ。飛僵なんですよ。愛し、愛される資格もない」

 目に涙を溜めて、それでもユーリンは真正面からグウェンを見据えた。

「霊幻道士なら、そのお役目を果たしてください。たとえ、相手が誰であろうと!」


 §


 どす黒い血潮が飛び散り、闇の中でも浮かび上がるような雪蓮の美貌を染めた。

 背後で年老いた親と息子が支え合いながら路地へ逃げ込むのを確認し、雪蓮は紅爪を振るう。蜥蜴僵尸の首が飛ぶ。

「雪蓮さん、向こうの避難は終えたところだ!」

 駆けてきたルオシーが呼び掛け、雪蓮もそれに頷く。

「こちらも粗方終わりましたわ。……しかし、きりがありませんわね」

 ルオシーを庇い、前に踏み出た雪蓮が呟く。

 眼前の楼閣の陰から、あるいは小路から、次々に蜥蜴僵尸たちが現れ、襲い来る。

 雪蓮も息が上がっている。何体屠り、あるいは封じたかもう分からない。ルオシーとて、そろそろ限界であろう。それなのに彼は音も上げずに駆けまわり、人々を救助にあたっている。

 さらに、向こうではグウェンがユーリンと戦っている。

 みんな命をかけて行動している。こんなところで自分が諦めるわけにはいかないのだ。

「戮ゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ!」

 雪蓮は直走り、迫りくる蜥蜴僵尸たちの胴を薙ぐ。

 ルオシーがどこからか拾った杭で転化した僵尸を殴り、退ける。

 気がつけば背中合わせになって互いに背後を守りながら戦っていた。でも、悪くはない。わたしは弱い。だから、必死でも、格好悪くても、誰かを守れるのならそれでいい。

 ルオシーに噛みつこうと飛び越えてきた僵尸を腕で貫き、斬り捨てる。その間にもルオシーは呪符で転化した僵尸の動きを封じている。

「ははッ……雪蓮さんはまったく頼もしいぜ」

「わたしが、ですの……?」

「貴女といると負ける気がしない。もちろん、俺の方は足手まといかもしれませんがね。それでも、どうしてか今夜死ぬという気がしないんだ」

 ルオシーの言葉を聞いて、雪蓮は死地に置かれながら、それでもふんわりと微笑んだ。

 その姿こそ禍々しい異形のものであったが、ルオシーの眼にはいつもの雪蓮以上に気高く、美しく映えた。

「そうですね、わたしも、あなた様といると不思議と勇気が湧いてきます」

「絶対にここを切り抜けましょう。そしたら……」

「そうしたら?」

「い、いえ! また後で言いますよ!」

 なぜなら、このような局面で大切な約束を交わすのは禁物だからだ。その悪運ジンクスをルオシーは心得ていた。そう。死ぬにはまだ早い。本当に大切なことはここを切りぬけてから言えばいい。

 すっかり勢いを取り戻した二人は再びそれぞれの武器を構える。きっと大丈夫だ。蜥蜴僵尸だって、幾分かその数を減らした筈なのだから――しかし。

 彼らの眼前に迫っていた僵尸たちに、明らかな異変が生じたのはその時であった。

 人々を襲って喰い散らかしていた蜥蜴僵尸らが、今度は僵尸同士で共喰いを始めたのである。

「なっ――」

 常軌を逸した異様な光景に、二人は息を呑み、戦慄する。

 其処此処で蜥蜴僵尸同士の喰らい合いが起きている。見えない衝動に突き動かされるように、彼らは仲間を襲い、互いの手脚を、臓物を喰らっている。凄まじい血臭が辺りに満ちる。

「これ、は……!?」

 蜥蜴僵尸たちは喰い合うごとに形状を変え、残った個体が徐々に大きく、そして人型から逸脱してゆく。骨格が、筋肉が、血と肉までもが再構築され、巨大に――そして凶悪な姿に変貌してゆく。

「なんか知らんがまずくねえかコレ!?」

「これは……まるで、蟲毒ですわね」

「そうか、それだ! やつら喰い合って成長してやがる。止めないと大変なことになるぞっ!」

「でも、もうっ……!」

 電信柱よりも高く聳える異形の塊が立ち上がりつつある。

 剥き出しだった皮膚を急速に発達した黒い鱗が覆っていく。

「――させぬっ!」

 そこへ、高く跳躍したグウェンが双剣を振りかざして飛びかかった。

「急急如律令――!」

 首と思しき部位の付け根を狙って刃が振り下ろされる――が!

 がぃん!と音をたてて二振りの刀が弾き返される。逆鱗と――そう呼ばれる喉下の急所を、たった今硬い殻が覆い隠した。

 勢いを殺しながらグウェンが着地した箇所を、巨大な怪物の爪が薙ぐ。転がるようにして一撃を避け、グウェンは元いた位置まで後退を余儀なくされる。

 そして最後の一体を喰い終えたそれは、耳をつんざくような咆哮を上げた。街全体が揺れる。

 咆哮、否――それは紛うことなき産声であった。

 一行の眼前で、ついに聳える山のような体躯の黒竜が降誕した。

 原始の姿そのままに、禍々しい爪牙と硬い鱗を備えた巨大な爬虫類の怪異が顕現していた。

「ユーリン、てめえ……これを知っていながらオレを足止めしてやがったな」

 鋭い視線に射抜かれても、ユーリンは昏い眼をして笑うだけだった。

「彼らの目的は竜骨を喰わせて造った僵尸同士の蟲毒により、本物の邪竜を造り出すこと。私も先生も、あの邪竜が十分な霊力を得るための時間稼ぎに使われたにすぎない」

「……ジーンの傍にいながら、すべてを黙って見ていたというのか。ユーリン、オマエだけが止められた筈だ。なのに、オマエは」

「言ったでしょう、私は飛僵……奴が造りだした化物だ。私自身に意思などはないのです」

「ほざけっ、ユーリン! オマエが一番殺生を嫌い、人が傷つくのを憎んでいたはずだろうがっ! オマエは本当にこのままで……大勢の無関係な人間が殺されてもいいというのかよ!?」

 ユーリンは突きつけられた言葉にびくりと肩を震わせた。しかし、俯いたまま何も答えない。

 ごぉぉぉん、と地響きを立てて辺りを揺らし、邪竜がその巨大な体を一歩前へと前進させた。

 その鼻先にはジーンと宦官が立つ楼閣の露台があった。

 宦官が姿を現し、満面の笑みを浮かべて邪竜の首元に駆け寄った。

「まさに皇帝陛下を象徴するこの姿こそふさわしい。今ここに清朝の復権を宣言する時がきたのよ!」

 男が醜く老いた顔をさらに歪めて叫ぶ。

「さあ、お征きなさいな、私の可愛い息子よ! この魔都から穢らわしい外国人どもを一匹残らず駆逐するの!」

 ぐるるる、と竜が嘶き、男の命令を受け入れたかに見えた――その瞬間。

「ここまでだよ。おまえみたいな腐ったオカマの妄執に付き合うのはこれでおしまいだ」

 ジーンの声に反応した竜が、その牙で男の体を喰い破って立ち上がる。

 竜の顎に囚われたまま、宦官が目を剥いた。

「ぎぃっ………あっがっ……アンタ、なんてっ、ことをッ」

「そいつは僵尸どもが喰い合うことによって生まれた邪竜僵尸だ。だから、その竜もおれが使役する立派な僵尸だってこと。お忘れかな?」

 外套の衣嚢に両手を突っ込んだまま、悪戯っ子の笑みを浮かべてジーンが告げる。

 邪竜の全身に張り巡らされた符咒の紋様がジーンの霊力に呼応するように燐光を放ち、浮かび上がる。その様を、誰もが唖然として見上げていた。

「きぃぃぃぃぁぁぁぁああッ、きっ、貴様っ! 貴様ッ、貴様ァァァァァァァァッ! 謀ったな……よくもよくも、よくもっ……ジーン!」

「目の前の餌に釣られて踊っているだけだった貴方が悪いのですよ、睨下。まるで出来そこないの僵尸みたいで、滑稽だったなぁ」

 純真無垢な笑顔で告げるジーンに、宦官がいきり立って何事かを叫ぶ。牙が食い込んだ箇所から激しく血が噴き出し、ぼたぼたと露台に滴り落ちた。

「それじゃ、さようなら。睨下」

 ジーンが宙に掲げた手のひらをぎゅっと握り締める。邪竜僵尸の顎が打ちおろされ、宦官の体を噛み砕き、咀嚼した。

 ユーリンが、雪蓮が、ルオシーが、避難を始めていた多くの人間が、その光景を固唾を呑んで見つめている。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る