第七話 画竜点睛〈3〉

 

 §


 巨大な赤銅色の満月が中天にかかる真夜半。

 濁った紅色の月光が窓から差し込み、部屋全体を薄く翳らせている。

 まるで、いつかジーンと背中合わせで戦った夜のようだとグウェンは思った。

 雪蓮とともに一度義荘に戻ったグウェンは自室で傷の手当てをしていた。

 転化防止の符咒を施し、僵尸の毒は消したが、ユーリンが与えた傷は深く、縫合もグウェン自身の手では困難だった。血止めと回復の符咒を最大限に展開し処置をしたが、所詮はしないよりましなだけの間に合わせに過ぎなかった。

 それでも致命傷とならなかったのは、ユーリンの心中に迷いがあったからだろう。

 ――すべては自分の意思ではなかった。自分の心は全部ジーンによって仕組まれた紛い物だ。

 ユーリンはそう言っていたが、グウェンを追い詰めておきながら死に至らしめなかったあの愚かさこそ、彼女自身の心が、魂がまだ存在している証拠だった。

「……あの馬鹿、本気で来ないから殺せないんだ」

 ひとりごちて、ありったけの呪符と法具を取り出し、装備を整える。

 折られた剣の代わりも必要だった。グウェンは壁に掛けられた古い双剣を外して手に取った。先代の遺したものだが、霊幻道士が何年もかけて鍛え上げた刀剣である。古くても相応の働きをしてくれるはずだろう。つり革に刀を収めると、グウェンは踵を返して部屋を出た。

 もう一刻の猶予もない。あの会堂とは別の場所で、ジーンは既に動き出している筈だ。

 その時だった。けたたましく鐘の音が響き、市街地の方角から火の手が上がるのが見えた。

「……ちっ。おっ始めやがったか」

 舌打ちをして、街の方向を睨む。

 霊幻道士である自分が現場に赴かなければ、僵尸による被害は止められない。

「グウェン、いるか!?」

「ルオシー? 無事だったか!」

 数名の怪我人を伴い、義荘に駆け付けたルオシーが姿を現した。

「僵尸だ。大勢の僵尸が街で暴れてやがる。まだ怪我人が避難してくるだろうが、平気か?」

「もちろんです。ここは開放していくので、自由に休んでもらって構わない」

「……ってことは、やっぱり行くんだな」

「僕は霊幻道士です。他に奴らを止める手段はない」

 満身創痍のグウェンを見て、ルオシーが顔をしかめる。ルオシーは器用に立ち回る情報屋だが、情に厚い男である。死地に赴かんとする友人を純粋に心配しての言動だと、グウェンにもよく分かっていた。だからこそ、余計なことは言わずに現実だけに目を向ける。

「して、状況は」

「パブリックガーデンの騒ぎよりはるかに規模が大きい惨状だぜ。死傷者が多くてどうにもならん。それ以前に奴らの数が多すぎて警官隊も間にあっていない。まさに混沌だ」

「……混沌」

 ――そう、混沌だよ。おれはそれが見てみたいんだ。

 以前のジーンの言葉が脳裏に甦る。

 まさにこの状況こそが奴の狙いなのか。それとも、さらに何かを引き起こさんとしている?

 ともかく、これまでジーンの手によって研究・製造され、上海に集められていた僵尸は、この襲撃に備えたものだった。

「ユーリンが言っていたように、別の場所に待機させていた軍勢を動かしたのか……」

「気をつけろ。奴ら、形状が妙だった。ちらりと闇の向こうに見えただけだが、ありゃ人じゃない――別の何かと混ざりあったような……とにかく禍々しい姿としかいいようがなかった」

「何か喰わせて強化でもしたか。いずれにしろ、一筋縄でいかせてくれそうにはありませんね」

「グウェン様。ラウ様もおいででしたか」

 そこへ、装備を整えた雪蓮が駆けてきた。見慣れぬ洋装に、ルオシーが目を丸くする。

「雪蓮、準備はできましたか」

「はい。……グウェン様、怪我の具合はいかがですか」

「強力な符咒を施したので、さっきよりはだいぶマシですがね。どちらにしろ、今は気にしている場合ではありません」

「……無理をなさらないで、とはいいません。ただ、またここに戻ったら、わたしが責任を持って治療いたしますわ」

 凛として宣言する雪蓮を見て、グウェンは眩しいものをみるように目を細めた。

「雪蓮は、本当に強くなりましたね。あの子にも見習わせたいくらいだ」

「あら。では、是非そうしてあげようじゃありませんか。きっと、ユーリンも街にいる筈です」

 グウェンはその言葉にただ頷くと、ルオシーに義荘の鍵を託した。

「ルオシー。それでは、ここは任せましたよ」

 一度は鍵を受け取ったルオシーだったが、ややあってそれをグウェンへと突き返す。その顔には決意の色が浮かんでいた。

「……おい、俺も行く。俺にも手伝わせやがれ」

「何言ってるんですか。あなたはここで怪我人の手当てを」

 ルオシーは言葉を遮り、グウェンの額を中指でぴんと弾いた。

「あいたっ」

「ったく、おまえというやつはぜんぶ背負った気になりやがって。その調子じゃ、あの家出クソガキとどっこいどっこいだぜ」

「それは……だが、それでもオマエを行かせるわけには」

「何にせよ数は多い方がいいのだろ。呪符くらいなら俺でも扱えるだろうが。それに雪蓮さんだって行くんだろう。彼女に戦わせて、俺をここで留守番させるっつー道理があるかよ」

 ルオシーは雪蓮にむかって片目を瞑って微笑んだ。雪蓮がルオシーを見つめる。

「ラウ様、本当に……よいのですか?」

「雪蓮さんのためなら、たとえ火の中水の中ですよ!」

 雪蓮の細い手指を握り、ラウが頼もしく宣言する。

「まあ、そんな。本当はグウェン様のためというのがお恥ずかしいのでしょう? でも、ラウ様のお気持ちはもう分かっておりますわ。どうか一緒に戦ってくださいまし」

「え? う、うぅ……その、そうですね」

 雪蓮はルオシーの言葉の意味するところが分かっていないのか、いつも通りにほんわりと微笑むのみだ。でもこれがいいんだなぁ……とルオシーの唇が呟くのを、グウェンは傍から読みとった。張り詰めた緊張感さえ忘れさせる束の間のやりとりに、結局グウェンのほうが折れて苦笑する。

「まったく……あなたというひとは。それでは頼みましたよ、ルオシー」

「おう。っても危なくなったら遠慮なく逃げるし、出来る範囲で手伝うだけだがね」

「それでよいのです。あなたは雪蓮と一緒に行動してください」

「よっしゃ! やってやるぜ」

 頷く雪蓮と気合を入れるルオシーを見て、グウェンは淡く微笑んだ。

 ……そうだ。オレだって、ひとりではない。雪蓮に、ルオシー。そしてユーリンにも何度も助けられ、救われてきた。ならば、もう出来ることはひとつだけ。

 生者を生かし、死者を葬る――。自らに課された掟と、そしてなにより信念に従うだけだ。

「では、まいりましょうか」

 三人は義荘の門を出、上海市街地へと下る道を急ぎ始めた。


 §


 轟音、爆発、銃声。

 上海中心市街地は、暴動でも起こったかのような有様だった。

 駆け付けた一行の眼前には、地獄もかくやとこそ思われる凄惨な光景が広がっていた。

 通りのあちこちから人々の悲鳴が上がる。転化した僵尸、それに元凶の僵尸どもが逃げ遅れた人間を襲っているのだ。喰い散らかされた骨や四肢や首が其処此処に転がり、その周辺には大量の血痕が残されていた。

「鬼魔駆逐――急急如律令!」

 グウェンの外套がはためき、舞い飛ぶ呪符が僵尸へ転化した者たちの動きを封じる。

 ところが、元凶としてばら撒かれたと思しき僵尸どもは止まらない。

「なんであいつらは動いてやがるんだよ?」

「おそらくは体のどこかに予め符咒が彫り込まれているんです。彼らを造り出した術者が死なない限り、命令に従い続けるようにと」

「それにしたって……あいつら、いったいどうなってやがるんだ」

 元凶である僵尸たちを見たルオシーが声を荒らげる。無理もない。彼らは怪物であり、そしてそれ以上に異形であった。

 肌は硬い鱗で覆われ、その牙は異様に尖り、背中や胸腹を突き破る形で巨大な爪牙のような突起が生えている。まるで蜥蜴の類と人間を掛け合わせたかのような暴悪な変種バリアシオン。僵尸――そう呼んでよいのかすらわからぬ異形。これまで数々の怪異を祓ってきたグウェンでさえ見たことのない禍々しい化物たちがそこにいた。

「まるで蜥蜴のよう……ですわね」

「ンだよ、恐竜でも喰わせて造ったってのか?」。

蜥蜴人リザードマン、か。なるほど……考えたな。硬い鱗に高知能、好戦的な気性の動物……よっぽど僵尸の軍隊を造りたかったとみえる」

「感心している場合かよ。俺らはどうしたら――」

 どうしたらいいのか、ルオシーがそこまで言いかけた時、向かいの通りから悲鳴が上がる。

「いやぁぁぁっ」

 逃げ遅れ、地面に転んだ子どもが泣き叫んでいる。そこに喰らいつこうと女僵尸が爪を突き出し、襲い掛かった。

「ちぃっ――!」

 グウェンが疾駆し、半ば強引に女僵尸と子どもの間に割って入る。

 剣光が一閃し、グウェンの刀が僵尸の首を刎ねた。ぽん、と舞った首が路を転がる。尻もちをついていた子どもが一瞬の間を置いて大きく泣き叫んだ。

「あ……あ、うわぁぁぁぁッ!」

 雪蓮によって助け起こされた子どもは彼女の腕を振りほどくと、グウェンの脚に飛びかかり、何度も拳で腰を叩いた。

「母さんをっ、よくも母さんを殺したな!」

 その叫びに雪蓮が息を呑む。しかし、グウェンは子どもを冷たく一瞥するだけだった。

「僕を怨むか。……生きているなら、それも道です」

 グウェンは呪符を飛ばして女の死体を焼き払う。とうとうその場にくずおれて、子どもは泣き続けた。と、周囲の様子を警戒していた雪蓮が声を上げる。

「……きますわ」

 前方から三体の蜥蜴僵尸がじりじりと距離を詰め、彼らに迫っていた。

「ラウ様は下がって。もしもの時に備えて呪符を」

「お、おう」

「雪蓮、行きますよ」

「はい……!」

 転瞬。雪蓮がその身を媚肉の怪異の姿へと反転させる。血と肉のヴェールが淫靡に波打つ。

 真紅の凶爪を構え、紅い眼を炯々と光らせた雪蓮がグウェンに向かって頷き掛けた。

「わたしが右の二体を引き受けますわ」

「頼みます」

 二人は目で合図すると、それぞれの獲物に向かって駆け出した。

 路地を抜け、左手から迫る一体にグウェンが肉薄する。

「殺ャァァァァァァァァァァァァ!」

「るぅあぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 蜥蜴僵尸の凶爪とグウェンの刀とがぶつかる。

 がぃんっ!と音をたてて、グウェンの刀が押し返される。

「硬いっ……だが!」

 飛び退いたグウェンは再び跳躍、大きく開いた僵尸の口腔を狙って剣を突きだす。霊力を込めた刀身で蜥蜴僵尸の喉を素早く貫き、即座に抜き取る。そして、体勢を崩した僵尸の背中から首を思い切り叩き斬った。

 その背後では蜥蜴僵尸が咆哮を上げて、雪蓮へと襲い掛かっていくところだった。

 既に一体を屠っていた雪蓮が向き直る。地を滑るように駆けた雪蓮は両爪を振りかざし、蜥蜴僵尸の胸から腹を引き裂いた。しかし、僅かに浅い!

「呀ァァッ!」

 短く吠えた僵尸が突き出した腕を、雪蓮の爪がすっぱりと切り落とす。

 それとほぼ同時、背後から肉薄したグウェンの刃が僵尸の首を刎ねた。

「これで、三」

「助かりましたわ。この僵尸たち、とても硬い……。急所を狙うしかありませんのね」

「呪符が通ればよいのですが」

 戦闘の様子を見ていたルオシーが苦い顔で呟く。

「なんか……際限がねえな」

 その言葉に頷くと、グウェンは意を決して口を開いた。

「やはり頭を潰すしかないですね。僕はジーンを探します。おそらくこの付近にいる筈ですから。二人は出来るだけ僵尸たちを引き付け、人々が避難する時間を稼いでください」

「いいけど、奴らを俺たちだけでどうにかできるってのかよ?」

「深追いはせず、あくまで引き付けるだけでいい」

 ルオシーを安心させるかのように雪蓮が後を続けた。

「ラウ様、大丈夫です。なにがあっても、わたしが貴方様をお守りしますわ」

「えっ、そっそんな滅相もない……というかこっちの雪蓮さんも……ィィ……」

「うふふ。面白いお方」

 そんな二人のやり取りをみて、どこか安堵したようにグウェンも微笑む。

「それでは、二人とも頼みましたよ」

「グウェン様も……ご武運を」

「おう、負けたら承知しねえからな」

 雪蓮とルオシーに見送られ、グウェンは楼閣の立ち並ぶ方角へと走り出す。

 ジーンたちがいるとすれば街全体を見渡せる場所の筈だ。この地獄絵図を見下ろし、次の一手をどのようなタイミングで打ち出すか思案している。きっとそうだ。

 蜥蜴僵尸を造り出して人々を襲わせ、街を混乱に陥れる――それだけが奴の狙いではないだろう。まだ何か、真の目的が隠されているに違いない。

 ジーンならどうするか。それはグウェンがこれまでさんざん考えてきたことだった。

 霊幻道士の役目を果たすにあたり、ジーンならどう僵尸と戦うか、どうやって人々を守るか。その都度思考をなぞり、模倣してきた。愚かでもなんでもいい。自分の中に奴の思考を再構築する。ただ無心に兄を信じていさえすれば良かったあの頃のように。

「……あそこか!」

 そうして見上げた先、古い楼閣の露台から街を見下ろすジーンの姿が目に入る。

「ジーン!」

 蒼と緋の視線が交錯する。ジーンは確かにグウェンを見つめ、三日月の笑みを浮かべた。




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