第七話 画竜点睛〈2〉

 



「なにも……いない?」

 二人の眼前には、がらんどうの地下礼拝堂が広がっていた。

「気取られたか……もしくは、あの男が嘘を喋っていた?」

 二人は入り口に立ち尽くし、灰色の広間を見渡すばかりだ。ジーンたちに繋がる手掛かりかと思われた場所はもぬけの殻。ここで捜索が振り出しに戻れば事態は確実に悪化する。

 その時だった。ひた、と。二人のものではない足音が響いた。

 顔を上げた雪蓮が「あっ」と悲鳴じみた声を上げる。

「僵尸どもは既に別の場所へ移送済みだ。そして今夜の特別列車は囮。もちろん、あなた方ならば喰いつくだろうと踏んでのことですよ」

 低く澄んだ少年のような声が告げる。続く数歩分の足音。

 そして、闇の中でも浮かび上がる白い美貌が幽けき光に照らし出される。

「こんばんは、先生、雪蓮。お元気そうでなによりだ」

 紫紺の円套マントが、華奢な体躯に比してあまりにも大きく凶悪な腕を辛うじて隠している。晒された脚は裸足で、無惨な傷痕を覆うように両脚の間にかけて数枚の呪符が貼られているのみだ。飛僵としての本性を隠さず、ユーリン自身の痛々しい過去すらも露にした艶惨たる姿に雪蓮が堪らず声を上げた。

「ユーリン? あなた、どうして……居なくなって心配、していたのですよ!?」

 そのまま駆け寄ろうとした雪蓮の腕を引き、グウェンが制止する。

「待ってください。様子がおかしい」 

「でも、あの子を放っておくわけには」

「雪蓮の言う通りですよ、ユーリン。ジーンによって義荘の結界が破られ、きみは姿を消した。てっきり攫われたものだと思って探していたんですが……これはいったいどういうことか、こちらへ来て説明してもらえませんか?」

 雪蓮を後ろに庇いながら、グウェンが一歩踏み出す。だが、ユーリンは目を見開き、壊れた表情で低く笑うのみ。

「……説明、ですか。それなら――」

 真珠色の犬歯を剥きだしてとびきり凶悪に微笑むと、そのまま跳躍。

 巨大な黒腕を構えたユーリンがグウェンに襲い掛かった。

「これが私の答えですよ、先生!」

「テメエ、ユーリンッ……!」

 ユーリンの凶腕を刀の峰で受け止め、グウェンは問うた。

「弟子のクセして無断外泊&悪堕ち衣装チェンジたァ、何事だッ!」

「先生は……あなたはいつもそうやって私を見くびろうとするっ!」

 鍔迫り合いを演じる両者の視線がぶつかる。

 ユーリンの翠眼には怒りと絶望が渦を巻いていた。

「私はね、先生。あの男によって造り出された化物なんですよ。でも、それだけじゃなかった。私の意思も行動もすべてはジーンによって造られ、仕組まれたものだった。先生に出会ったのも、みんなを好きになったこの心も、ぜんぶ偽物だったんです。私自身は、ユーリンはあの地下室でとっくに死んでいたのですよ!」

 ついには両腕で刀を押し返し、ユーリンが叫ぶ。

「私は……私にはもう居場所などないんだ!」

「それがどうしたよ! ジーンの狙いなどなにも関係ない。今までオマエが得たものは、ぜんぶオマエ自身の力で勝ち取ったものだろうが!」

「うるさい! うるさいうるさい、うるさいっ!」

 両爪がグウェンの飛ばした呪符を引き裂く。

 千々に裂かれた紙が舞う頃には、ユーリンはもう地を蹴って飛んでいた。

「URAAAAAAAAAAAAA!」

 再びグウェンに肉薄したユーリンが倭刀の刀身を握って引き寄せ、力任せにへし折った。

「ちぃっ! この馬鹿力が!」

 即座に二振り目を構え、グウェンは体勢を立て直す。

「先生こそ、二度目を許すなんて愚かですよ」

 ユーリンの凶腕からは血が流れていた。いつかと同じ、ユーリンは刃を自ら掴んで引き寄せ、懐に潜り込んだのだ。

「私は愛し愛されていい人間ではない。人間ですらない。化物だ。僵尸は生前に奪われた一切合財を取り戻そうとさまよう怪物なのでしょう? 私は……それならば奪いたい、奪う側に回りたい。化物ならばせめて化物らしくしようというだけですよ」

「ユーリンッ、オマエはどこまでっ」

 殺し合いならば勝機はあった。一度の瑕疵は許しても普段のグウェンであれば二度目はない。その筈だった。

 しかし、グウェンは術を叩き込む寸前で躊躇った。

 自分が本気で符咒を使えば、ユーリンの魂魄を傷つけてしまう。それだけはしてはならない――その想いが判断を遅らせた。

「だから、さよなら。先生」

「――ッ!」

 グウェンは咄嗟に身を引くが、間に合わない。

 瞬間、ユーリンの凶爪がグウェンの腹を貫いた。

「っぐぅッ……」

 ユーリンはその巨大な腕でグウェンの首を絞め、体を持ち上げる。

 湾曲した剣のような爪が傷口を深く抉り、ぐちゅぐちゅと掻き混ぜる。グウェンを弄ぶユーリンの表情がうっとりと蕩けたものに変わっていった。

「ぎっ……ぃ、あ、ぐっ……」

「ああ、意外とイイ声で鳴くのですね。このまま指先で心臓に触れたら、先生はどんな顔をしてみせてくれるのでしょう」

「なん、だよ、オマエ……手加減しろとか言っ、といて、ンなハードなプレイ、が好み、とは、ねェ」

「私はひどいことされるのもするのも、本当は大好きなんだって気づいただけですよ。だって、そうじゃないともう何も感じないんだもの」

「……オレはオマエが、可哀想、だよ。ユーリン」

「――その言葉、気に入らないな!」

 ユーリンは軽口を叩くグウェンの腹から五指を引き抜き、激しく頬を張ると蹴倒した。

 腹から溢れた血が見る間に床に零れ、広がっていく。だが、ユーリンが傷口をめがけて爪先を叩き込もうと、グウェンは悲鳴を上げなかった。

「先生、言ってよ」

 ユーリンは右腕でグウェンの黒髪を掴まえ、引きずり起こす。

「次はどうされたいですか? ほら、答えてくださいよ、先生っ!」

「ユーリン、もうやめてください! このままではグウェン様がっ」

「なあに、雪蓮。代わりたいの? きみも私に壊されたい? それとも壊したいのかな? 雪蓮だって本性は肉の化生だものね。そりゃあ喰い殺したいに決まってるよね」

 グウェンを引きずったまま、ユーリンが姦悪な笑みを浮かべる。あんなにも優しく勇敢だった少女からそのすべてが抜け落ちてしまったことに、雪蓮は驚愕し、激しく動揺していた。

「そんな……」

「さあ、見せてよ、雪蓮。きみの素敵な肉としての本性を、さ。本当はずっと斬り刻んでみたくてたまらなかったんだ。だって私たち、友だちでしょう?」

 挑発的に凶腕を掲げて見せるユーリンを一瞥し、雪蓮はすっと目を閉じた。

 覚悟などついていない。つくわけがない。でも、自分がやらなければならないのなら。

「……いいですわ、ユーリン。わたしが、あなたを止めます」

「手を、出すな、雪蓮」

 本性を露にしかけた雪蓮を、鋼の声が制止した。

「今の、こいつには……オマエ、がそん、なことを、してやる価値もない……」

 血反吐を吐き、ぼろぼろになった姿でなお霊幻道士としての矜持を失わず。

 口元に笑みを浮かべ、紺碧の双眸はユーリンを真っ直ぐに睨んだままで、グウェンは告げた。

「やれ、よ。おれを殺して、喰らえばいい」

 その言葉に、ユーリンの肩が震えた。白い貌はひどく打ちひしがれた表情を作っている。

「……オマエがジーンに出来なかったこと、ジーンがオレにできなかったことをすればいい」

「なん、で」

 信じられない、というように頭を振って、ユーリンが叫ぶ。

「どうして、あなたという人はいつも私の魂を砕こうとするのっ。こんな、なけなしの、紛い物の心さえも……」

 泣きだす寸前の、歪んだ表情。

 グウェンの手のひらが、ユーリンの左目に触れた。そこには火傷の痕が僅かに残っていた。

「まだ、完全には……直してやって、なかったんだが、ねえ」

 それだけ言って諦観したようにグウェンが微笑む。

 ユーリンはしかし、その体を掴み上げると、雪蓮の方へ投げ捨てた。苦鳴のひとつもあげずに、グウェンの体は雪蓮の足元に転がった。雪蓮が慌ててそれを支え起こす。

「興が削がれた」

 壊れ切った表情で呟くと、ユーリンはふらりと踵を返した。もう振り向こうともせずに、そのまま闇の中へと歩きだす。否、振り向くことができなかったのだ。雪蓮には分かっていた。

「……あなたたちは黙って見ていればいい。ジーンがすべて混沌の中に呑みこんでしまうのを。この街が、この国が終わっていくのをただ見ていればいいんだ」

 どうせもう何もできないのだから。

 そう言い残し、夜闇に溶け込むように少女の姿が消える。

 雪蓮はその場にくずおれるようにして、倒れたままのグウェンを抱き寄せた。

 流れる血を少しでも止めたくて、きつく、きつく抱きしめる。

「グウェン様、しっかりなさって。わたしが今助けますから……」

「あ、の馬鹿……絶対、連れ、戻して……説教、してやる」

 雑嚢から血止めと回復の呪符を取るように言い、グウェンはそっと瞼を閉じる。

 ユーリンの最後の表情が焼きついて離れないのだ。

「……泣いていた、な。あいつ」

「ええ」

 あんな表情はユーリンには似合わない。

 本当は、いつだって笑っていてほしかった。

 閉じた瞳を雪蓮の手指が優しく包み込んだ。傷に貼りつけた呪符の効果が現れ始めている。痛みが和らいでいくが、胸の奥、どんな符咒でも癒せない場所がまだ痛む気がした。

「……どうかお願いです。グウェン様、あの子を取り戻してくださいまし」

「ああ」

「そしたら、今度こそいっぱい笑顔にしてあげましょう、ね」

「……そうだな。そうに決まっている」


 §


 一糸乱れぬ姿勢で整列した僵尸の軍勢を見ろし、彼女は口元に浮かべた淫猥な笑みをさらに深くした。

「どうです、睨下。おれが仕込んだ僵尸隊は」

「いいじゃない。素敵よ、あの異形のフォルム……を喰わせて育てた甲斐があったじゃないの」

 男は紫禁城から秘密裏に上海を訪れた宦官であった。かつて皇帝の側近として重用され、権勢を誇った――もとい、無能な皇帝に代わり、政治の闇の中で国家を動かすほど大きな権力を持っていた男だ。

 老いて醜くとも、その狡猾さは衰えを知らず、狂狷なまでの清朝への愛念に突き動かされて魔都へとやってきたのだった。

「今こそ見せてやるのよ、強い清朝を。私の愛した皇帝陛下と清朝の復権をね」

 その背後にはジーンが控え、謎めいた表情で僵尸たちを見つめている。

 フランス租界。銀行地下に設けられた格納施設。

 彼らは僵尸隊の一団を揃え、すべての準備を終えていた。あとは出陣の合図を出すのみである。

 その時、背後の闇に生じた気配に振り向きもせず、ジーンが口を開いた。

「戻ったんだね、ユーリン」

「……はい。アンクタン教授をお連れしました」

 階段から地下へ降りてきたのはユーリンと、もう一人。

 スリーピースのスーツに片眼鏡姿の紳士、アンクタンである。中国人たちから強引に土地を買い上げる一方で、兵力や物資を提供し、秘密裏に彼らを援助してきた西洋人だ。

「アンクタン教授。あなたの協力があったからこそ、こうして租界内に拠点が築け、アレを上海に持ち込めたのよ。感謝しているわ」

「こちらこそ、随分と儲けさせていただいたのでね。それに特等席で魔都倒潰という最高のショーを見られるなんて、私にとっては僥倖ですよ」

 教授が笑えば、男も笑う。二人はそのまましばし笑い声をあげていたが、男は突如として笑みを引っ込めた。同時に、アンクタンの喉元にユーリンの凶爪が突きつけられる。

「勘違いしないでちょうだい」

「なにっ、これは……いったいどういうことです?」

 脂汗を浮かべ、頬に笑みを貼り付けたままで教授が訊ねる。

「私が上海までやってきたのは、あなたたち西洋人を駆逐する為なのよ。皇帝の権威が蹂躙されているこの魔都で、外国人どもを皆殺しにして、我が清朝の復権を宣言する……それこそが私の真の目的なのだから!」

「なんてことを! き、貴様っ!」

「ユーリン。おやりなさい」

 アンクタンが懐の拳銃に手を伸ばす――が、実際はその前にユーリンの爪が彼の首を掻き切っていた。返り血を浴びてなお少女は眉ひとつ動かさない。ごぼごぼと自らの血で溺れてゆくアンクタンに、男は変わらぬ調子で語り続けた。

「感謝しているってのは本当なのよ。あなたのおかげでこの部隊が完成したようなものなんだから。でもね、先の戦争を経て、私はとっくに決めていたのよ。我が清朝を象徴するあの子たちでもって、あなた方外国人を葬ることをね」

 ひゅうひゅうという喘鳴もやがて聞こえなくなった。アンクタンはもう事切れていた。

 ジーンだけが表情を変えず、淡く微笑んだままで事の成り行きを見守っていた。

「ユーリン、血を拭きなよ。じき出発だ」

 少女の白い頬についた血を指で拭ってやりながら、ジーンは言った。

 ユーリンはやはり反応を示さず、ただ冷たい眼でアンクタンの死体を見下ろしている。

「さあ、ジーン、ユーリン。行きましょう。清朝の復権を宣言する時が来たわよ」

 それを合図に、ジーンが法術を発動させた。

 僵尸の軍勢が、地上にむけて一斉に歩み出す。

「では、最終段階を始めましょうか」




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