第三話 第三話 燎火燃ゆる

第三話 燎火燃ゆる〈1〉

 


 第三話 


 江蘇省蘇州東郊・周荘。

 この地は周辺地域の水運の要所として発展した街であり、国内有数の水郷の一つである。

 夕刻、水郷村の北門に一台の馬車が止まった。

 ほどなくして降り立ったのはユーリンだ。外出着に身を包み、革鞄を抱えた出で立ちで、辺りをもの珍しげに見まわしている。

 降り立ったユーリンの眼には、赤い燈籠の灯りに彩られた運河に、行き交う人々、瀟洒な建物の群れが飛び込んできた。

 船が通る度に水面が揺れ、水鏡に移りこんだ風景が輝いて映える。

 夕暮れ時を過ぎたちょうど今が、最も街が賑わう時間帯のようである。自分たちのような旅人の姿も多く見受けられた。

「すごい、まるで異世界だな。荷物はどうしましょう……って、あれ? 先生?」

 すでに横にいると思われたグウェンの姿が見当たらず、背後を振り返る。

 グウェンは車上の雪蓮にやさしく手を伸べて、彼女が転ばぬよう気に掛けていた。

「ゆっくりでいい。そっと降りてください」

 グウェンに支えられて、ふわりと降り立つのは雪蓮だ。まるで重さなど感じさせぬ佇まいは一輪の百合の花のようであり、いつもの通り美しかった。実際、彼女が姿を現した瞬間に周囲の男どもの視線が自然と集まったのが分かる。

「ありがとうございます。まあ……とても明媚な土地ですわね」

 雪蓮は可憐な笑顔の花を咲かせるが、すぐにそれをしおれさせた。

「わたし、こうした遠出は初めてで。きっとたくさん迷惑をかけてしまうわ」

「それでいいのですよ。そうしてゆっくり慣れていけばよいのです。僕もユーリンも旅行は久しぶりなので、はしゃいで逆に迷惑をかけるかもしれませんよ?」

「まあ、グウェン様ったら」

 嫉妬や羨望、好奇の視線を受けながら、二人の姿は一幅の絵画のように映えている。

 ……お似合いだな。なんていうか、すごく。まるで新婚旅行かなにかに来た若い夫婦みたい。

 知らぬ間に自分も周囲の人々と同じような目で二人を見ていたことに気づき、ユーリンは苦々しい気分になった。

 ……嫌なやつだな、私は。先生はあれがいつも通りだし、雪蓮なんか大切な人を失ったばかりで、ようやく元気になってきたところだ。それを羨むなど――ましてやほんの少しでも憎く思うなんて、どうかしている。

「ユーリン、どうしたの? 顔色がよくないわ。旅疲れ、かしら」

 いつの間にか傍らに立っていた雪蓮がユーリンの両頬に手を当てて浮かない顔をして見せる。

 相変わらず近い。正体不明の芳香が鼻孔をくすぐり、脳を蕩かすくらい、近い。

「大丈夫、顔色が良くないのはいつも通りだし。というか雪蓮……あの、恥ずかしいから……」

 まるで姉のように自分をやたらと可愛がる雪蓮がくすぐったくて、ユーリンは彼女の腕を優しくほどいた。

「ほら、ね。水路とか橋とかとても壮麗できれいだし。向こうの通りには出店もたくさんある。早く行こう。荷物を貸して、雪蓮」

「自分で持ちますわ、あっ、待ってユーリン……!」

 雪蓮から鞄を奪うと、ユーリンは彼女の手を取って歩き出す。

 雪蓮の手首はきゅっとしまっていて、ひどく細い。気をつけないと折れてしまいそうだった。少し慌てながらも、雪蓮は愉快そうに笑っていた。雪蓮とて、この小旅行を楽しみにしていたらしい。これまで、彼女は殆ど外出を赦されてこなかったという。だから見るもの全てが新鮮で刺激的なのだろう。

 ……それって、やっぱり辛かっただろうな。どうせなら色々回って、できるだけ沢山の景色を見せてあげたい。もちろん、雪蓮が望むのなら、だけど。

「おや、ひどいなぁ。僕のことは無視ですか? 」

 なにやら門番と話し込んでいたグウェンが置いて行かれてふてくされている。

「先生は荷物を宿に届ける用事があるでしょう! 早く済ませちゃってくださいね。そしたら合流しましょう」

「それなら、そういうことにしましょうか。あまりはしゃぐのは無しですよ。僕もすぐに戻りますから」

 グウェンは苦笑いをしてみせると、宿へ向かうよう馬丁に指示してその場を離れていった。

 周荘、水月客棧シュイユエホテル――。

 タンの残した手掛かりを調べるため、一行はこの地に足を運ぶことを決めた。

 だが、このところは張り詰めた日々が続いていたため、どうせなら休暇も兼ねての小旅行にしてしまおうということになったのである。

 今こうしているように、到着した初日は取り敢えず観光を楽しむ予定だ。本格的な調査は翌日以降と前もって決めていた。

 グウェンだって早く遊びたかったのだろう。のんびり構えているふうを装いながらも、大急ぎで今夜の宿へと向かっていったのにユーリンはしっかり気づいていた。

「とりあえず、あんまり奥へは行かずに……あっちの橋の方を見てみようか?」

「はっ、はい……!」

 ユーリンは雪蓮の手を引いて運河沿いを歩き出す。

 グウェンに対しては少し意地悪をしたい気持ちもあるが、真面目な話、師を待たずにあまり遠くへ行くのもまずい。だから、あくまでもゆっくりと入り口周辺の風景を見て回るつもりだ。

 運河沿いには、煉瓦を積み上げ、漆喰で塗り固めた白壁に、黒瓦をぎっしりと敷き詰めた屋根の建物が立ち並んでいる。水路のところどこには古い石橋が掛けられていた。そんな運河の中を所狭しと手こぎ舟が行き来する風景は、この地方でしか見られないという。

 少し手前の目抜き通りからユーリンたちが今いる小路地まで、其処此処に吊り下げられた赤い燈籠が、複雑に入り組んだ街の風景に彩りを加えていた。

「さすが水郷というだけある。きれいだね」

「本当に、すごいです……。あっ、ユーリン、あれはなんでしょうか?」

「なんだろう。短冊、かな? えらく沢山あるようだけれど」

 二人が近寄って確かめれば、橋の欄干には数え切れないほどの短冊が結ばれていた。よく見れば一枚ごとに文字が書き込まれ、微かな夜風に靡いている。

 ユーリンはたまたま傍を通りかかった女性にわけを訊ねた。理由は単純で、何らかの御利益があると評判らしく、訪れた旅行者がこうして願い事を書いた短冊を結んでいくということだった。

「つまらないね。だいたいこういう時だけ神頼みするだなんて都合がよいにもほどが、雪蓮?」

「わたし、これ、やってみたいです! あ、その……よい、でしょうか?」

「えっ? では、えーと紙……と、筆。使って」

 あり合わせの紙と筆を渡すと、雪蓮は嬉しそうに何事かを記し始めた。豊かな胸の奥に、何か大切な願い事を秘めていたのだろう。一生懸命に書きこんでいるのをみて、気になったユーリンはそっと彼女の手元を覗きこむ。視線に気づいた雪蓮が「めっ」と言って唇を引き結ぶ。

「あら、ユーリン。いけませんわ。ひとに知られてしまうと叶わないと本で読んだことがありますもの」

 胸元に紙を引き寄せ、雪蓮は謎めいた微笑みを浮かべてみせた。妖艶で、しかしどこかあどけない表情に、ユーリンでさえも魂が蕩けそうになった。

「そういうものか。知らなかった。……ごめんね」

「いいのよ。そうだわ、ユーリンも何かお願い事を書いてみたらどうかしら」

「私は……いい。急に言われても思いつかないし」

 ――それに、私のような化物が願いごとだなんて、身の程知らずもいいところだ。

「ユーリン」

 雪蓮がやさしくユーリンの名を呼ぶ。何を考えているかお見通しだ、とその瞳が語っていた。

「では、あなたのぶんもわたしが書きますわね」

「えっ、ちょっと、なんて書く気? 逆に気になるんだけど!」

「だめ。いけないわ。願い事の効力がなくなってしまいます」

「私のことなのにか!?」

 雪蓮はさっと一筆したためると、あっという間に短冊を欄干に紙を結びつけ、ユーリンの目から隠してしまった。

「……もう。こんなことなら、先生の円形脱毛症が治りますようにとか書いておくんだった」

「あら、グウェン様はそんなにご苦労なさっているのですか?」

「二人とも、一体なんの話をしているんです……」

 遅れて現れたグウェンが話に割って入ってくる。その相貌が心なしか青ざめているのは、急いで駆けつけた際にユーリンの願いを聞いてしまったからだろう。

「おい、ユーリン。オレにハゲなんかねえだろうが? オマエなァ……ってこっちみろよ! 雪蓮なんか言って……ってなにその意味ありげな微笑みは! なんか妙に仲良くなってるし!? 急に淋しいンですけどォッ!」

「先生、年甲斐もなくはしゃがないで。きもちわるいから」

「グウェン様、周りの方々が見ていますわ。わたし……はずかしいです」

 ユーリンと雪蓮の連携口撃に、グウェンはしょんぼりと項垂れた。

 それでも、眼前の二人の距離が少しずつ――だが確実に縮まっていることを内心で喜びながら後に続き、三人は目抜き通りの雑踏へ向かって歩きだした。



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