第三話 燎火燃ゆる〈2〉



 グウェンは店を一軒潰してしまうのではないかとユーリンたちが危惧するほどに大閘蟹を食べて、食べて、食べまくった。蟹の脚や甲羅をばりばりと剥きながら一心不乱に中身を貪るその姿は凶暴な僵尸を彷彿とさせたが、ユーリンはそれは言わずにおいた。

 ぱんぱんに腹を膨れさせたグウェンをユーリンが引きずり、背中を雪蓮が押す形で運河沿いを散歩していると、一行の視界には見慣れぬ光景が現れた。

「先生、見てください。運河沿いにすごい数の……燈籠?」

「ああ、あれは天灯といってね。これから中の紙に点火して空に浮かべるんですよ。熱せられた空気を逃がさないように造った紙袋を竹ひごに固定して拵えてあるんです」

「え? あれを全部空に飛ばすんですか?」

「まあ。それは壮観でしょうね」

「そうか、二人は知らないのですね。天灯は許願灯とも呼ぶのですが、もともとは無病息災を祈って元宵節の夜に空に向かって飛ばすものなんです。ここでは満月の日になるとああして浮かべているらしいですがね。そうだな……近くで見てみたい、ですか?」

「――はい!」

 ユーリンと雪蓮は同時に返事をし、顔を見合わせて笑う。だって、せっかくの提案なのだ。乗らないわけにはいかない。

 二人を連れたグウェンは運河沿いに停泊する手こぎ舟のうち一艘を選び、船頭に声を掛けた。

「この舟はまだ空いているかな? 通常の順路で構わないから、許願灯を近くで見たいんだ」

「あいよ。三人だね」

 グウェンが渡し賃を払い、舟に乗りこむ。

 運河沿いのあちこちで蝋燭が灯り始める。

 気づけば温かな闇の底に雑踏は溶けて消え、打ち寄す波の音と風の匂いだけが辺りを満たしていた。

「何をしているんですか? 早く乗って。一番近くで見たいのでしょう?」

 聞けば、天灯は火災の危険を避けるために水上に向かって飛ばすのだという。なるほど、舟に乗ってしまえば無数の灯の中に入る形になるのである。

「あ……本当にいいんですか? その、私なんかがこんな……」

「何言ってる。おいで、ユーリン」

 蒼い眼を細め、グウェンがやさしく手を伸べる。ユーリンは差し伸べられた手をおずおずと握り返した。足元がぐらつくが、無事に船上に移ることができた。

 さて、今度は雪蓮の番だ。

 ユーリンは振り返って雪蓮へと両手を伸べる。

「ほら、雪蓮も」

「わたし、お舟は苦手なんですの。だからユーリン、グウェン様とおふたりで行ってらして。ほら、あそこのお店でお茶を飲んで待っていますわ」

「雪蓮!? あ、待って! 舟出ちゃうし……ちょっと、雪蓮っ!」

「……帰りは、ちゃんと迎えに来てくれなくちゃ嫌ですのよ?」

 とん、と背中を押された感触があった。

 舟はついに石段を離れ、笑顔の雪蓮が水際で手を振っている。

 これは……もしかしなくても、わざとだ。気を回されたことくらい、ユーリンにも分かった。

 最初から、きっと全部気づかれていた。子供じみた嫉妬も、くだらぬ羨望も。雪蓮はそれらを全部見抜ぬいていたのかもしれない。その上で、あんなにやさしく接してくれていた。

 私は、本当に馬鹿だ。

「あの、先生……ごめんなさい」

「なにがです? ともかく、折り返して戻ったら雪蓮を迎えに行かないといけませんね」

「……はい」

「でも、せっかく乗ったんですから。ユーリンも、ほら、景色を楽しんでくださいな。燈籠が舞い始めましたよ」

 ひとつ、ふたつ。灯り始めていた白い燈籠は、気がつけばあたり一面に溢れていた。

 仄暗い川面に無数の灯が揺らめき、空に浮かび始めた提燈が周囲をふわふわと漂っている。

「……すごい。こんな風景、あるんですね」

 万感の思いも、吐き出してしまえばたったひと言。

 あとはもう、幻想的な光景に息を飲むことくらいしかできない。

 浮かびあがってゆく無数の燈籠が、ユーリンには人々の願いや祈りそのものに見えた。

 舟に揺られるまま景色に見入っていたユーリンの耳朶をちゃぷ、という水の音が打った。波紋が広がるイメージに、我に返る。そうだ。すぐ目の前にはグウェンがいる。

 ユーリンはふとグウェンの様子を窺った。精悍な横顔。蒼い瞳は真っ直ぐ先を見ている。さきほどまでの自分と同じく景色に見入っているらしい。

 けれど、先生はいつだって前を――ずっと遠くを見ているんだ。

 思わず、話かけるのを躊躇った。むしろ何と声をかけてよいのかもわからない。でも、せっかく雪蓮がくれた時間なのだ。無下に過ごしてはいけない。

 ……いつも通り。いつもしているようにやればいいのかもしれない。否、それしかない。

「あの……先生」

「どうしました、ユーリン」

 無数の灯が作りだす仄温かな闇の中。微笑むグウェンの相貌はいつもよりも穏やかに、けれどどこか謎めいて見えた。師は自分が何か言うのを待ってくれている。

 言わなくちゃ。早く。なんでもいい。

「……いえ、その……先生はいつから霊幻道士のお役目を?」

「十五のときから。もっと小さい頃から妖怪退治の手伝いはしてきたんですけどね、僕は出来が悪くって」

「先生が? 信じられない」

「そんなことはない。法術も体術もぜんぶ毎日練習して……でもなかなか上手くなれずに、いつも父と兄の背中を追っていましたよ」

「……お兄さん、いたんですね。知りませんでした」

「言ってませんでしたっけ。法術に頼りがちな僕とは違い、兄は優秀な退魔士でした。元々はこの役目も兄が継ぐ筈だった」

「……でも今の霊幻道士は、先生……なんですよね」

 恐るおそる問いかけると、グウェンは困ったように笑って「つい喋り過ぎましたね」と言った。その眼だけが笑っていなかった。

「兄は左道に堕ち、故郷の霊山を焼き討ちにしたのち、姿を消しました」

「先生の故郷を、滅ぼした……? お兄さん、が……?」

 なにもかも初耳だった。ユーリンは自分だけではなく、グウェンも故郷を失っていたことを初めて知った。それも血を分けた兄弟の手によって。

「どうして、そんな……」

「今思えば、真面目すぎたのかな。人々を救い、魔を払うために更なる力を求めるうち、兄は禁忌の邪法に手を染めるようになった。僕が止めるべきだった」

 一瞬。本当に一瞬だけ、グウェンの瞳に激情の炎が滾った。ユーリンにはそう見えた。

 まだ傷は生乾きなんだ。癒えてなどいない。許すことなどできはしないのだ。

 きっと、私と同じように。

「……それじゃあ、先生はこの先も霊幻道士のお役目を続けるつもりなのですか?」

「僵尸が一匹残らずいなくなるまで、ね」

「……それって、ずっとってことじゃないですか。人の世から恨みや憎しみはなくならない。それらを抱いて死ぬ人間がいる限り、奴らは必ず現れる。だから、霊幻道士の役目が終わることなんて、けしてない……」

 僵尸がいなくなるまで。

 その言葉の意味をつきつめれば、それは今ユーリンが口にした通りとなる。

 道教世界にあっては、不老長生を得て仙道となり、タオとの合一を成し遂げることが最大の目的となる。地上に留まり妖怪退治を続けるということは、本来の目的から外れ、天上への梯子を外されたも同然。世俗の不浄をその身で拭い続けるということだ。

「そんなの、おかしいですよ」

 先生は。グウェンは――こんなにやさしくて、強くて、他人想いなのに。

 そんな人が報われないなんて悲し過ぎる。

「やれ、君は悲観的にすぎるなァ。世の中は変わっていくものですよ、ユーリン。この街も、上海も、それにこの国も変わっていく。人間も変わる。だから、僕は僕が永遠にこのままであるとは思いません」

 人々の想い、願いが空へと浮かんでいく様を見上げて、グウェンは淡く微笑んだ。

「ユーリン。君が今の僕のことを儚んで気の毒に思ってくれていたとして、その運命も一瞬のまぼろしのようなものです。変わらぬものなんてない。この世は皆まぼろしのごとくあり、どんなに縁が深くても、縋った手を離してしまえば一瞬のうちにすべては空となり、みな春の夜の夢のようにおぼろなものとなってしまう。所詮はその程度のことですよ」

「でも私は……今がとても楽しい、ですよ? これも、この気持ちもまぼろしなんでしょうか」

「どうだろう。すべては空――だとしても、この時がずっと続けばいいという君の想い、それだけはまぼろしなどではなく、確かなものだと僕は思います」

 私の心が。この想いだけが確かなものなのだとしたら――……。

 だとすれば、やはり自分はこの人のことが本当に大切なのだ。

 運河を南下していた舟は、いつの間にか折り返して再び街を北上している。

 告げるのならば、今だろう。……でも、やっぱり、とても言えない。言ってはならない。私は女の子ではない。人間ですらないのだから。

 ……ほんとうに愚かだな、私は。

「ユーリン? なにか言いました?」

「……なんでも、ありません。ほら、雪蓮を迎えに行く支度をしましょう」

 間もなく舟が岸に着こうとしている。天灯は遠く彼方の空に消え、ほんの幽かな光がちらついて見えるだけだった。

 今夜の結末を雪蓮に話したらどんな反応をするだろうか。意気地なしと怒られるかもしれない。あるいは、いつものように抱きしめて慰めてくれるかもしれない。どちらも情けないけれど、出来れば今日のところは後者がいい。

 再び船着き場に降り立った二人は、雪蓮の待つ茶屋へと向かって歩きだした。




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