第二話 命召しませ紅い花〈4〉


 §


「なぜです?」

「え?」

 雪蓮がその貌に儚い笑みを貼りつかせたままで凍りつく。

 グウェンは女が抱える綻び――僅かな隙を突き、勝機を抉じ開けるために言葉を続けた。

「なぜ貴女は自ら終わりにしたいなどと仰るのですか、雪蓮? 貴女はなにを恐れている?」

「わたし……わたしは何も怖くなんて……」

「その通りだよ、雪蓮。なにも恐れることなんてない。客人よ、我が細君を唆すのはやめにしてもらおうか」

 雪蓮の背後。隠し扉が開き、グウェンの前に黒い外套姿の男が姿を現した。

 その男を前にして、みるみるうちにグウェンの顔つきが変わっていく。すなわち、本来のグウェンの表情へと――。

「おや、やっと主催者様のお出ましかい。てめえンとこにはオレの弟子をやった筈なんだがねえ。……貴様、あいつをどうした?」

「雪蓮の部屋を嗅ぎまわっていたあの子どもか。殺したよ」

「貴様っ、なぜそんなむごいことをッ!」

 激昂し、声を荒げるグウェンを一瞥しながら、タンは表情を変えることなく言った。

「リー先生。私どもはただ共に安穏に暮したい、それだけなのでございます。しかし、妻は生まれつき体が弱かった。とても、とてもね――。雪蓮との日々は彼女を蝕む病魔との戦いの日々でもありました。だが、ついにあの日、私の手の届かぬ場所へ雪蓮は逝ってしまったのです」

 その告白に、「ひっ」と雪蓮が短く息を飲む音が聴こえる。

 やはり、彼女は怯えている。でも一体何に……?

「だが、私は負けなかった。負けるわけにはいかなかった。だって、信じていたのです。妻は帰ってくる、こんなにも尊く優しい雪蓮が死んでいいわけがない……だから手を尽くしました。どんな方法でも試し、思考錯誤した。道士の先生に教えを乞うたりもしました」

「道士?」

「リー先生とは同門だとお聞きしましたがね」

「まさかっ、ジーン!? あいつが……魔都に戻っている?」

 何かに思い至り驚愕するグウェンを尻目に、タンはとうとうと自らの所業を語り続けた。

「そして、ついに私は妻を……雪蓮を取り戻すことに成功したのですよ。見てください、彼女を。優美で、匂い立つような――どこから見ても人間の女にしか見えないでしょう?」

「やめてっ、言わないでっ! その先を話してはだめっ!」

「黙りなさい」

「あうっ!?」

 タンは縋りつく雪蓮の頬を強く張り、振り払う。男の足元にくずおれた雪蓮はこらえきれずに嗚咽を漏らし始めた。

「しかし、施術は完全ではありませんでした。私が編み出した方法では雪蓮に巣食う病魔までをも僵尸化させ、暴走させてしまう。これでは何度やっても埒があかない。そこでこの酒楼を設けたのです。花に集る男どもから贄を選びだし、餌として雪蓮に与える傍ら、私は日夜実験を行いました。より優れた僵尸を造り上げ、生命の謎を解き明かすための研究をしたのです」

「……なるほどね。それで客から五体満足な僵尸を造り上げてたってわけかよ。街に放ったのは試験のつもりかい? どれだけ性能を上げられているかの」

「さすがですね、リー先生。概ねはその通りです。でも、僵尸には謎が多すぎる。未だに分からないことだらけだ。首を斬っても生きていられるのは何故だ? 魂魄の源は何処に宿る?  疑問は尽きませんでした。だが、それも今夜で終わりだ。さあ、雪蓮。お薬の時間だよ」

「いやっ、いやぁっ……それだけはやめてっ!」

 引きずり立たされる雪蓮がじたばたと暴れるが、タンはその体を簡単に抑え込んでしまう。

 タンの手には注射器が握られていた。取りつけられたアンプルは赤い薬液で満たされている。

「僥倖なことに、リー先生……あなたという最高の贄が飛び込んで来てくれた。あなたほどの道士の霊力を取りこめば、この雪蓮とて飛僵に匹敵する神通力を得ることができるでしょう」

「はん。それでオレを喰わせようって魂胆か。やめときな。あんたの嫁さんにオレのバカまで感染っちまうぜ」

「最後まで笑わせてくれるお方だ。雪蓮、存分に味わいなさい」

「いやぁぁあぁぁぁっ!」

 タンは雪蓮の真っ白な腕に無理やり針先を埋めていく。無情にも薬液が注入され、針が雪蓮の腕から引き抜かれた。

「うああッ……あがっ……ぐっ……先生、おねがい、逃げて、ください……わたしは……ッ」

 変化はすぐに現れた。雪蓮の美しい顔が歪み、全身の皮下で筋肉が、骨が、血管が出鱈目にのたうつのが見て取れた。

 ばごんっ!と音を立てて口腔を抉じ開けた内臓が捲り上がり、袋を裏返すように雪蓮の姿を包み込む。

 咽かえるような血肉の匂いと共に、グウェンの眼前で雪蓮が化物じみた姿に組み換えられていく。雪蓮は「男を喰らうこと」に特化した――それ以外に存在意義すら見いだせぬ禍々しい肉と骨の塊へと変貌を遂げていた。本来口が在るべき部分を骨格が覆い隠し、腰部には穴が穿たれ、それが巨大な女陰型の口腔を模っている。グウェンとて見たことのない僵尸の姿であった。

「呀ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!」

 狂喜か憎悪か、あるいはこの世への絶望か。全身を震わせ、雪蓮は咆哮していた。

「さあ、喰らいつきなさい!」

 命令に従わせるための符咒回路が体のどこかに埋め込まれているらしく、雪蓮はグウェンへと向き直る。雪蓮が一歩を踏み出すたびに部屋が揺れた。

 グウェンは外套の下から倭刀を取り出し、既に構えていた。

「――いいぜ。来いよ、雪蓮」

「殪ィイイイイイイイィィィィィァァァァァァァッ!」

 空を切り裂き、振り下ろされた凶腕がグウェンを叩き潰した――そう見えたが、しかし。

「先生ッ! どこも食べられていませんねっ!」

「オマエこそ、遅かったじゃねェか。ユーリン」

 ギリギリで雪蓮の腕を受け止めたのは、扉を蹴破り部屋に飛び込んできたユーリンだった。旗袍の胸は焼け焦げ、弾けたような穴が穿たれている。

「ダサッ。オマエ撃たれてやンのォ!」

「なっ、これはっ――だからこうして助けにこれたんですよ! 彼に撃たれて死んだふりをして、ねっ!」

 雪蓮の凶腕を押し返し、飛び退いて間合いを取りながらユーリンは告げた。

「お客の誘導と避難、表のことはラウさんに頼んであります。この部屋を探しだすのに少々手こずりましたが、もう問題ありません。さあ、状況を終了させてしまいましょう」

「なんだァ。今夜はやけにはりきるじゃナイの?」

「……べつに、なんでもありませんよ」

 無事でよかったなんて、たとえ死んでいたって言えるわけがない。内心を押し隠し、ユーリンは力強く微笑んだ。

「先生!」

「じゃあイクぜ、ユーリン! 勅令・随身保命――急ぎて律令の如く行え!」

 グウェンが霊力を込めて祈り、ユーリンの中で力が膨れ上がっていく。

 胸の奥に埋め込まれた符咒フールゥ――グウェンの手で造られた回路がユーリンをその命令通りに書き換えていく。

 切ないほどの恍惚と狂喜。

 グウェンの霊力が空っぽだったユーリンを満たしていく。

 ひとつに混じり合って、溶け合う。交合よりも深く、淫らに。そして甘く、激しく。

 やがて暴悪な感覚で思考が塗りつぶされていく。

「GRRRrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr!!」

 飛僵としての獰猛な本性を露にし、ユーリンはそのまま雪蓮へと肉薄する。

 両者の凶腕がぶつかり合った!

「殺ァァァッ!」

「Uraaa!」

 右腕が組みあい!

 ――重い!

ルゥゥゥゥッ……!」

「Ryaaaaaaaa!」

 左腕が唸る!

 ――力も強い!

「でも、情念が! 生への執着が! 雪蓮自身の意思がない! だから、私には届かないッ!」

 ユーリンと雪蓮。互角に渡り合っているかに見えた二者だが、ついに均衡が崩れ、ユーリンが雪蓮を組み伏せた。

 これは同時にユーリンを操るグウェンの霊力がタンの術を上回ったということでもあった。

「呀ァァァァァァァァァ…………ッ!」

 押さえつけられた雪蓮が逃れようと激しく暴れ、吠え声をあげる。それを懸命に抑えながら、ユーリンはグウェンに目で促した。

「タンさんよォ、アンタまだ続けるつもりかい。テメエだって見てわかるだろ――自分の術が不完全な邪法であることくらい」

「だがっ! 私は……なんとしてでも妻を生かさなければならないのだ! でないとっ、私は……私は……このまま、ひとりで」

「オレたち霊幻道士は確かに僵尸退治に関しちゃ達人級エキスパートだ。だが、それでも屍を……僵尸を生者に戻すことは不可能なのさ。失われた命を蘇らせるなんてこたァ専門外。はじめから人間の業の埒外なんだよ」

「そんな!」

 グウェンはユーリンを、そして雪蓮を一瞥し、タンに視線を戻す。

「それに、雪蓮だって自分がもう長くはないことを知っていたぜ。そして、その娘は自分を殺してくれとオレに縋った。もう過去には戻れないことを、雪蓮は誰より分かってるんだ」

 タンの両目が驚愕に見開かれ、やがてその相貌が崩れていく。深い悲しみと、そして己の罪業をはじめて知ったかのようにぐしゃぐしゃに、まるで僵尸のそれのように歪んでいく。

「雪蓮が……? なんて、私はなんてことを……雪蓮、雪蓮っ……!」

 グウェンの外套がはためき、室内に無数の呪符が舞った。

 凶獣の如く変化した雪蓮の肉体を呪符が覆う。ユーリンの腕の中で、雪蓮が見る間に人の姿へと戻っていった。ユーリンはその様子を複雑な面持ちで見守っていた。

「……アナタ……泣かないで。雪蓮は十二分に幸せでしたわ。だから、もうよいのです」

 自我を取り戻した雪蓮が、痛切な面持ちでタンに呼びかける。

「雪蓮、すまなかった……すまなかったね……」

 タンは雪蓮の手を取り、涙ながらに詫び入った。

 しばらくの間、誰も言葉を発することなく、伏して咽ぶタンを見つめていた。ユーリンだけが冷めた目をして視線を外していた。蹲り嗚咽を繰り返していたタンが、やがてふらりと立ち上がる。その顔には深い悲しみと、それと同居するにはやけに潔のよい――微笑み。

 タンは袂から匕首を取り出すと、自らの首へ突きつけた。それを誰も止められはしなかった。

「おい……!」

「リー先生、大変申し訳ないことをしました。だが、私にはどうしても間違っていたとは思えないのです。雪蓮をよろしく頼みますよ。あなたほどのお人ならば、やがて真理にも辿りつくことでしょう。周荘の水月客棧を御調べになるといい」

「タンっ、おまえ――」

「さようなら、雪蓮」

 雪蓮がよろめきながらも走り寄るが、もう間に合わなかった。

 タンは両手に握った匕首でその首を掻き切った。

 真っ赤レッド血の花ダリア。タンの血は咲き狂う花々と同じ色に雪蓮の体を染め上げた。



 数日後。

 四馬路で火事の騒ぎが起きたことが新聞各紙で報じられた。

 全焼し、打ち壊された家屋は幸い空家であったが、地下からは謎の大広間が見つかり、様々な憶測が飛び交った。しかし、話題に事欠かぬ魔都の住人にとってはそれもただの世間話のひとつに過ぎず、すぐに噂は忘れ去られていった。


 §


「先生、もう夕方です。疲れているからといって、寝過ぎは体によくありませんよ!」

 薄暮の義荘。

 夕刻になって起き出したユーリンだったが、本堂にグウェンの姿は見当たらない。

 普段から自堕落で淫蕩な生活を送っているグウェンである。夕方に起きるユーリンが逆に師を起こしにゆくことも珍しくはない。

 大方、今日だってまだ眠っているのだろう――そう踏んだユーリンはグウェンの寝室の扉を叩き、押し開いた。案の定。敷布にくるまる背中が見えて、盛大に溜息をつく。そのままずかずかと師の部屋に踏み入り、ユーリンは強引に敷布を剥いだ。

「さあ、先生。起き…………」

 確かに、グウェンはすやすやと安らかな寝息をたてて眠っていた。いつものように全裸で。

 しかし、ユーリンを凍りつかせたのはそんな容易い問題ではなかった。

 ならば、なにがユーリンをそうさせたのか。

 師の隣には、なんと雪蓮が眠っていたのだ。ただし、これもまた一糸纏わぬ姿を晒して。

「きっ、きゃわ―――――――――――――――――ッ!?」

「ン……ふお、なんだァ……? あー……どうしたよ、ユーリン」

 髪を掻きつつ、起き上がったグウェンが半眼でユーリンを睨む。

「ど、ど、どうしたもこうしたもありませ、これ、は、どゆこどッ、ぐっ、うっ、ひっく……」

「えっ、ちょまっコレ泣くとこ!? あっこら、雪蓮! オマエまたおれのベッドに潜りこんで……ってユーリン、これは違う! 違うから! そういうのじゃないから断じて!」

 泣き出すユーリンに、うろたえるグウェン。その傍ら、目を覚ました雪蓮が可憐な唇から甘く吐息を漏らして起き上がる。百合の花のような腕がグウェンの背から胸へと回された。

「……んぅ……。お二人とも、おはようございます」

 雪蓮は裸のまま、艶然と微笑んでみせた。豊かな胸が、たゆん、と揺れる。

「薄暗く、水の匂いとグウェン様の陽の気が混じり合って……とてもよい夕方ですね。いま夕餉の支度を始めますわ」

 眼前の地獄絵図の意味が、どうやら雪蓮には分からないようだった。


 §


「だっははははは! そりゃ災難だったな、グウェン」

「ルオシー、笑いごとではありませんよ」

 真っ赤に腫れた頬に氷嚢をあてがいながら、グウェンは朗らかに笑う旧友を睨みつける。

 先の件以来、久々に義荘を訪れたルオシーもこの日の夕食に同席していた。そも、もとはルオシーに感謝の意を示すための席だったのだが。

「……で、雪蓮さんはおまえが引き取って義荘で暮らしてもらうことになったんだっけ?」

「まあ、そうなのですがね」

「体内から僵尸化が進行している上、身よりもない以上は……まァそれが最善ってやつだよな」

 窓際で酒を酌み交わす二人は、少し離れた場所でくつろぐ雪蓮の姿を見やる。

 夕刻、雪蓮がグウェンの寝台に潜りこんでいたのは、いうなれば体が無意識に陽気を欲してのことだった。グウェンのような霊力の高い人間と共に過ごすことが、なにより彼女を長らえさせる。今のところ、唯一の対処療法といってもいい。

「……しかし、彼女の命運が変わったわけではありません。残された時間はあと僅か。僕は少しでも穏やかに暮らしてもらう方法を選んだだけです。それに、雪蓮の心もまだ癒えたわけではありません。できる範囲で彼女がしたいようにしてやるのがせめてもの……」

「手向け、か」

 グウェンは答えない。二人の視線の先ではいじけて長椅子に蹲るユーリンを雪蓮がやさしくあやしている。ユーリンとて雪蓮が憎いわけではなく、ああして雪蓮が姉のように――いかんせん一方的ではあったが――ユーリンに寄り添っていることも多くある。

「でも、おまえは諦めるつもりはないんだろ。雪蓮さんが生き延びる――再び人間に反転する方法を探す気でいる」

「……どうだか」

「はぐらかすなよ。それに、手がかりだって得たんだろう」

 タンが最後に示した言葉。あれは僵尸を造り、魔都に持ち込んだ者共についての手がかりだ。

 ともすれば、ユーリンの仇敵にも繋がる貴重な情報だった。

「それに、気になる名前も聞きましたし、ね。……オチオチのんびりもしていらンねェよなァ」

 ――ジーン。破門されたかつての兄弟子。そして、グウェンの異父兄だ。

 タンの口振りから察するに、此度の件に介入し、入知恵をしたのはジーンであろう。だから、奴とはこの先あいまみえる可能性が高い。そうなれば、オレは今度こそ――。

「ま、いいけどよ」

「なにその言い方……何か言いたそうですね、ルオシー?」

「おまえ、あんまユーリンを泣かすなよ」

 本気だぜ、あいつ。ルオシーはそれを口に出すほど野暮ではなかったが、意図するところはグウェンにも理解できていた。理解しているからこそ、こうして心底悩むのだ。

「べつに泣かしているわけではないよ」

「あ、今私を呼びました? 先生方、さきほどからなにを内緒話しているんですか?」

「そりゃ……オマエが聞いたら卒倒するような猥談にきまってンだろ」

「最ッ低!」

 その日、何度目かの破裂音が義荘に響き渡った。




  第二話 了

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