第二話 命召しませ紅い花〈3〉

 

 §


 まさに傾城――夢のような女がそこにいた。男にとって運命となり、そしてまた命運の糸を断ち切るであろう魔性の女。

 酒楼〈大麗花〉。

 その中枢へと案内されたグウェンの前に現われたのは、真珠色の満月の如き美女だった。蒼銀に輝く長い髪を結いあげて、羽衣めいた衣装に豊満な肉体を包んでいる。反面、ぽってりとした唇に薄い顎、頬の輪郭は蕩けそうなほど白く、あどけない。それは身も心も蕩けさすような婀娜な美貌に清楚な趣を残したままの無垢なる姿だった。

「アナタが霊幻道士……リー・グウェンさまね。さ、どうぞ、お座りになって」

 舌ったらずな口調だが、鈴を震わすような澄んだ声だ。

「おや、僕のことを知っているんですね」

「アナタがご自分でお書きになったのでしょう?」

「なんのことかな?」

 二人は円卓を隔てて向かい合い、少しの間視線をぶつけあった。

 そこは真っ白な八角形の部屋だった。八卦模様の部屋、とでもいうべきか。

 見つめ合ったまま、グウェンは娘の向かい側の席に座した。陽と陰。日と影。男と女。人間と化け物――。すべての属性が対をなして向かいあう位置取りだ。

 グウェンが席に着くと、娘は先ほどの局票を手に取り、差し出した。そこにはグウェン自身の筆跡で「貴女様の首を頂戴したい 霊幻道士 リー・グウェン」と書かれていた。

 ユーリンとルオシーに見られていたら「おまえはバカか」と罵られ蹴り出されていただろう。だからわざと見せずに素早く給仕に手渡したのだ。バカで結構、そも自他ともに認めるバカである。だが、勝算がなかったわけではない。現にこうして今自分は疑惑の女と相見えている。

「おかしな方ね。これは勇気などではない、蛮勇ですわ」

「思いを懸ける女性のためなら、男はことにいらぬ胆気を発揮する生き物なのですよ」

 グウェンがにっこり微笑んでみせると、娘もくすくすと笑う。まるで邪気のない仕草だ。

「さあ、ただお話するのでは気が咎めますわ。どうぞお飲みになって」

 真紅の液体で満たした酒杯を、自分とそしてグウェンの前に差し出し、娘は艶然と微笑んだ。

「毒など入っていないから」

「毒入りだとしても、貴女が勧めるのなら僕はすべて飲み干しましょう」

 娘はまたおかしそうに笑う。

「どうか、雪蓮、と呼んでくださいまし」

 互いに酒杯を掲げて飲み干せば、はたして血の色をした液体はただの葡萄酒であった。

「それで、リー先生。わたしの首が欲しいというのは本当かしら? 道士さまはわたしを殺してしまいたいとおっしゃるのね?」

「ええ、僕はあなたを殺したい。その首を切り落とし、灰も残らぬまで焼き尽くしてしまわなくてはなりません。僕の役目は生者を生かし、死者を殺すこと。そのために現世に留まり続けている。そう……あなたのような怪物がいる限り、僕たちはこの世の理に縛られ続け、タオを得ることが叶わないのです」

「ひどいことをいうのね。すべては自分の長生のためだなんて」

 そういいながらも、雪蓮は穏やかに微笑んだままだ。

「しかし、雪蓮。貴女自身も分かっているのでしょう? 貴女は」

「ええ、僵尸よ。わたしは生き血を啜り、人間を喰べてしまう、とっても悪い吸血鬼なの」

 夢を見ているかのように柔らかく、たおやかに、彼女は告げた。

「僕のことも食べてしまいたい、ですか?」

 グウェンの問いかけに雪蓮は首を横に振った。

「いいえ、今は平気よ。人間を食べたくなるときは……食べなくてはいけないのは、お薬を打たれたときだけなの」

「お薬、ですか」

「わたしは、雪蓮は病気なのよ」

「誰がそんなことを言ったのですか?」

「旦那さまよ。だから陽の光を浴びてはいけないし、外にも出してもらえない。それに、毎晩お薬を打たなきゃならない。とっても痛くて、とってもつらいお薬よ。わたしがわたしでなくなってしまうような……」

 グウェンはそれを聞いてこっそりと思考を巡らす。奇妙な話だ。この娘――雪蓮は自分が何者か知っていて、しかもどこか罪悪感すら抱いているように見える。確かに彼女は人間ではなく、僵尸に転化した化物だ。漏れ伝わる陰気からそれが読み取れる。それにグウェンの蒼眼は浄眼と呼ばれるもので、怪異の正体を視ることのできるだ。したがって、自分がこの娘の正体を見誤ることはない。

 だが、否、だからこそおかしい。

 この娘が自ら男どもを陥れ、僵尸に転化させた元凶だとはどうしても思えない。

 ……ならば残る可能性はひとつだけ。主催者が黒幕で、女が僵尸。ここに来る前自分たちが考慮したもうひとつの事態だ。

 だとすれば、ユーリン。あの子が主催者――雪蓮が旦那さまと呼ぶ男の正体を暴きだす方に賭けなければならない。

 ……頼みましたよ、ユーリン。内心で呟き、再び眼前の状況に意識を集中させる。と、雪蓮の方から「ねえ、先生」と口火を切った。

「旦那さまはこの雪蓮のために手を尽くしてくださったわ。殿方たちの陽気を含んだ新鮮な血肉と魂魄を与えて、わたしを元気にしようとしてくれた。でも、もう手遅れなのです」

 目を伏せて、どこか寂しそうに彼女は笑う。

「どんな方法でもってしても死は取り消せない。過去には戻れない」

 真っ直ぐにグウェンの瞳を見つめ、雪蓮はついに切り出した。

「アナタのような方にお会いできるのをずっとお待ち申しておりましたわ、リー先生。どうぞ、わたしを殺してくださいませ」


 §


 立ち入り禁止区域へ足を踏み入れたユーリンが最初に辿りついたのは調理場だった。

 天井からは無数の巨大な肉塊がぶら下がっている。業務用特別サイズの瓦斯台では灼熱の劫火が肉を炙り、表面をほどよく焦がしていた。饗宴の準備に余念は無いらしく、壁に留められた注文票の束には指示が細かく書き込まれている。

 血肉の芳しき匂いと熱気に包まれる室内には、料理番の男が一人。今、彼は調理台の上に横たえた正体不明の肉塊を包丁で叩いて脂肪を削ぎ落していた。足元には血溜まりが出来ている。

 そして、その傍らには人間の男の首が三つ並び「なんでだよォォ」「どうしておれが」「喰ワセロ……喰ワセロ……」と口々に恨みごとを漏らしていた。いずれも僵尸――生きながらにして喰われ、転化した人間のなれの果ての姿であった。

「こんばんは、料理長。私にもひとつ特別メニューを用意してくれないか?」

 背後から侵入したユーリンは料理番にわざとらしく声をかけた。

「おやァ……?」

 柄まで血に染まった牛刀を構えたまま、男がぐるりと振り返る。その瞬間、タイミング悪く「喰ワセロ!」と鳴いた生首の脳天に、ざんっ! と刃が突き立てられた。ややあって首だけの男が沈黙する。

「おやおやおやァ……! 調理場に蠅が一匹紛れこんでおります、ねえッ!」

「ふっ!」

 予備動作なく振り下ろされた一撃を、ユーリンはひらりと跳躍して躱す。

 料理番は怯むことなく牛刀をぶんまわし、ユーリンを斬り刻もうと迫りくる。

「ああ、どうしてでしょう! 貴女をこんなにも食べてしまいたいのはァァッ!」

「それはあなたがもう死んでいるから。そして……僵尸になってしまったからですよ」

 再び脳天を狙って振り下ろされた刀を腕ごと引き寄せて一気に距離を詰める。雑魚め。

「急急如律令!」

 額に呪符を貼られた瞬間、料理番の男はぴたりと動きを止めた。

「さて――ちょっと調べさせてもらうよ」

 ユーリンは、僵尸の腕から小指をもぎ取った。硬くてぱさぱさとした感触に顔をしかめる。

「なって二三日、というところか。こいつは……違う」

 元凶の僵尸はグウェンが屠った少なくとも四体の僵尸を転化させている。となると、目の前の僵尸もやはり死後――あるいは生きながらに転化した僵尸だ。おそらくはこの酒楼で使役するために転化させられたのだろう。自分たちが探している標的ではない。

 ……やはり元凶は他にいる。自分はここの主催者を探し、正体を暴かなくてはならない。

 料理番僵尸を炉に叩き込み、その死体が燃えだしたのを確認すると、ユーリンは次の部屋を求めて移動を開始した。廊下はろくな照明もなく、真っ暗だ。だが、元々夜目の利くユーリンにとっては然したる問題ではない。そうして歩き続けるうちに、少しだけ開けた場所に出た。

 行き止まりに扉が三つ。どれも個室のようだった。

 僅かに風の流れがあり、くん、と鼻をひくつかせて気配をたどる。すると黴や埃の匂いに混じって、妙に甘やかで官能的な香りが漂っていることに気づく。……これはイランイランの花の香りだ。香料としては非常によく用いられるため、この手の知識に疎いユーリンにもさすがに分かる。ユーリンはその香りがとりわけ強い部屋を選んで忍び込んだ。

 幸いにして室内は暗く、人の姿もない。

「これは……女性の寝室?」

 甘やかな香りで満たされた部屋は、上品な舶来の調度品で飾り立てられ、天蓋付きの大きな寝台が真ん中に設えられていた。

「酒楼の裏側にこんな部屋があるなんて……」

 ユーリンは驚きながらも辺りを見回し、なにか怪しいものはないかと視線を走らせてゆく。

 すると、室内に異様な数の薬瓶や薬袋の類が散らばっているのが見て取れた。そう……この数は明らかに異常だ。おびただしい数の薬品、血液とおぼしき液体で満たされた無数の透明な袋詰。それに香炉には怪しげな薬草が残っているが、ユーリンでは正体がわからない。

 ベッド脇には注射器と点滴台が据え付けられ、今は主のいない寝台の上に管が垂れ下がっている。足元には薬液のアンプルが散っていた。誰かが西洋医学を試していたとでもいうのだろうか。豪華な絨毯はところどころが赤黒く染まり、何かの液体が零れた形跡が残っていた。

 そういえば、甘い香りには僅かに血の匂いが混じっている。

「これは……誰か、病気なのか?」

「私の妻だ。妻は不治の病に苦しんでいてね」

 背後から響いた声に振り返る。

 戸口に黒いローブで身を包んだ男が立っていた。生気のない相貌。しかし、両眼にはぎらぎらとした燠火が宿っている。それは生命力というより、ある種の怨念めいた光であった。

「……あなたは」

「主催のタンだ。君こそ、ここで何をしているのだね? 斯様な盛装の盗人など、聞いたこともないがね……まあいい。丹薬に反魂延命、借屍還魂……どれもだめだった。そんな時、道士の先生が現れて教えてくれたのだよ」

 どこか虚ろな様子で、タンはユーリンに向けて――あるいはひとりでに語りだす。

「道士……?」

「若く健康な男の肉を喰わせればよい、と。陽気に満ちた血肉に魄、そして人魂を取り込めば、いずれ病が治るだろう……とね」

「ッ、おまえ……それが邪法であると知ってのことか!」

 聞くもおぞましい告白に、ユーリンは憤った。自らが受けた屈辱と虐遇が脳裏にありありと甦る。記憶は今もなおユーリンの心身を苛み続けているのだ。

「関係ないのだよ、そんなことは。わたしの願いはたったひとつ、妻を生き長らえさせること……それだけだ」

「そいつは左道に堕ちた外法道士だ。そしてその術は禁忌の法。生者を殺し、奥方に屍肉を喰らわせるなど人間のすることではないっ」

「正論ばかり並べ立てて、君は愉快かね」

「貴様こそ……どれだけ非道な真似をしているかわかっているのか! 生きた人間を僵尸に貶めるなどあってはならない……ましてその苦しみを軽んじるなど……ッ」

「その点は残念に思っているよ。だが、私は選んだ。我々はみな取捨選択し、決めなければならない。大事なものとそうでないもの。切り捨てるべきものと、是が非でも守りたいものとを――違うかね?」

「詭弁をいうなッ」

「なんとでも言えばいい。結果は手段を正当化する。たしかに妻は見違えるほどに元気になったよ。しかし、この方法は病をも加速度的に進行させてしまったようだ。いわば妻の身に巣食う病魔までもが暴食の意志を得たかのように、爆発的に増殖してしまったのだよ。そう、僵尸バケモノのごとくにね……」

 タンの告白にユーリンは怒りも忘れて息を飲む。

 そんなことが起こりえるのか。こんなにおぞましく、おそろしいことが――。

「そういうわけで、妻にはもう時間がないんだよ。君は玄奘三蔵の話を知っているかい」

「……霊力の高い坊主の肉を喰らえば、仙力を得ることが……できる……まさかっ!?」

「そうだ。だから我々はラウ……いや、リー・グウェン先生を選んだというわけだよ。ユーリンさん」

「おまえ! 我々のことをなぜ知っているっ!」

「……彼は非常に強力な法術を使う、霊力の高い道士だと聞いたよ。精・気・心を満たす彼の霊力を補えさえすれば、私の妻は、雪蓮は今度こそ……」

「ふざけるなッ。そんな方法を取らせるものか!」

 やはり――僵尸を操っていた黒幕は主催者で、女が元凶の僵尸だった。

 このままではグウェンが危ない。そう悟るが早いか、ユーリンは戸口へと一目散に走りだす。

「先生、今……!」

 だが、眼前に立ちはだかるタンとて丸腰ではなかった。

「邪魔するものは容赦しないよ」

「しまっ――!」

 手遅れだった。ユーリンが動くより、それはずっと速かった。タンは拳銃を構えると、容赦なくユーリンに向けて発砲した。

 旗袍に包まれた胸が弾け、ユーリンは床に倒れ伏した。




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