じいさんと柴犬




 これは俺が新しいアパートに引っ越したときの話。

 その日、仕事を終えた俺は、同僚と飲んだあと帰路についた。

 閑静な住宅街の中にあるアパートの前に差し掛かると、道一本挟んだ向かいにある一軒家の軒先にいる犬が盛んに吠えていた。

 いつもは小屋の中で寝てばかりいる柴犬が、真夜中に帰ってきた俺を不審者扱いして吠えているようだ。

(まったく犬ってやつはバカみたいに吠えやがる)

 と進んでいくと、その先に立つ人影に気づいて、「あっ」と思わず口をついて出た。

 車一台がやっとすれ違えるくらいの細い路地を歩いていたのは、白っぽいワイシャツを着た腰の曲がった白髪頭の老人であった。

 真夜中に誰かとすれ違うのは気持ちのいいものではない。まして、不審者扱いのように柴犬がバカみたいに吠えている状況だ。

 俺はアパート側の道の隅によって、老人とすれ違おうとした。

 その時である。

 柴犬が、俺と老人の中間あたりを見定めて、激しく吠えたかと思うと、そこに今まで気づかなかった長い髪で顔を覆うようにしている背の低い女が立っていた。

 俺はギョッとして立ち尽くし、時間が止まったようにその女の動向を見つめた。

 女は顔が見えないので年齢は分からないが、晩夏の熱帯夜だというのに、長い厚手のスカートにをはいて、黒系のセーターのようなものを着ていた。

 女は、俺と老人の間を横切って、犬を飼う家の駐車場の前を通って細い路地へと入って行った。その間も柴犬は女に向かってしきりに吠えている。

「……に見えたがな?」

 老人の声が間近で聞こえた。

「ええっ?」

 俺は大きく肩を揺らしながら振り返った。いつの間にか、数メートルまで距離を詰めていた老人に俺は驚く。

「今の、人ではないように見えたがな」

 暗闇で老人と思っていたが、それほど老いているように見えず、力強い目をして俺を見上げている。

「で、ですよね……今のじゃあ……幽霊?」

 俺は老人に訊き返した。

「あの家には、ばあさんが独りで暮らしているのがな……」

 物といたげに、老人は女が消えていった家の方を見た。

 その家は表通りに面した柴犬を飼う家の裏手にあり、今までそこに家があったことさえ俺は知らなかった。

「おばあさんが独りでって……いくつくらいの人ですか?」

 止せばいいのに、俺は何となく訊いた。

「八十くらいの婆さんだよ。君は知らんのか?」

「……越してきたばかりなので」

 と後ろのアパートを指した。

「悪いが、ちょっと一緒に見に行ってもらえんだろうか?」

「は?」

「婆さんが生きているかどうか、確認しに一緒に行ってもらえないか?」

 老人は強い目で俺を見つめる。

「いやぁ……」

 なんとなく嫌な予感がしたので、返事に躊躇する。

「わしはこの先に住んでいる、自治会長の鈴木という者だ。もし、婆さんが死んでいたら、早めに処理をしないといけないんでな。悪いが頼めんかな?なにすぐに済む、五分もかからんよ」

「はあ……」

 老人の、人をうまく誘導する術に導かれるように、俺は老人について細い路地の先にある民家へと同行した。

 道幅三メートルも満たない狭い路地を少し入った袋小路に、細葉の植え込みに囲まれた二階建ての古い一軒家があった。一見して、かなり年月が経っているのが分かる。

 木枠の引き戸に、すりガラスの玄関。柱に備え付けられたチャイムを押してみるが応答がない。

「やはり、何かあったのかもしれんな」

 鈴木老人はつぶやく。

「寝ているだけじゃないですか?いい時間だし……」

 ポケットのスマホを取りだし、時刻を確認すると午前一時を回っていた。普通の老人なら寝ている時間帯だろう。

 すると、徐に鈴木老人は引き戸に手を掛けてスライドさせると、戸は難なく開いた。

「念のためだ。あがって確かめよう」

 老人はそういうと、躊躇なく中へ入って行く。

「わし独りで入ったら、不法侵入に思われる。あんたも一緒に来てくれれば証人になる」

 と玄関で立ち尽くす俺を振り返った。

 俺は、責任は自治会長であるこの人が取るだろうと、老人に続いて家に上がり込んだ。

「臭いはしないから、死んではないな」

 前を歩く鈴木老人のつぶやく声が聞こえてくる。

 俺は後ろからスマホのライトを使って、廊下を照らしながら爺さんの後をついていく。

 確かに悪臭はしないが、古い家に入った独特の臭いが色濃く漂っていた。廊下の床の板が歩くたびに軋んで大きな音を立てるのを聞きながら、もし自分が独り暮らしの老人なら、俺たちの方が怖い存在なのではないかと考える。

「あの……」

 俺が声を掛けようとしたとき老人は立ち止まり、廊下の奥の部屋の襖に対した。

「ここから見てみよう」

 自治会長はそういうと躊躇なく、襖を開けた。

 そこはガランとした仏間であり、立派な仏壇が床の間に飾られて、わずかに線香の匂いが漂っていた。

「……この部屋ではないようだ。そっちの部屋はどうだ?」

 爺さんが俺の立つ後ろのドアを指さした。

「ここはトイレですよ」

「念のためだ、見てくれんか?」

 俺は爺さんの言われるままに動かされている事が、だんだんと腹ただしく思えていた。それでも言われたようにドアを開けるが、そこはやはりトイレであった。

「もういいでしょう?」

 俺は苛立ちを含んだ声を発した。

「いや、どこにもいないのは逆におかしい」

 鈴木老人は譲らない。

「どこかに入院したんじゃないですか?」

「じゃあ、さっきの幽霊はなんだ?」

「知りませんよ」

「そんな広い家じゃない。とにかく、一通り見てみよう」

 鈴木老人は俺の前を素通りして、廊下を歩いていく。

 その後、キッチン、居間と家主の老婆を探したがおらず、続いて二階へ上がろうとしたその時であった。

「ぎゃあぁぁ~」

 けたたましい悲鳴が頭上から降り注ぐように響いてきた。

「ど、どうした?」

 鈴木老人が階段を上がっていく。俺も怯えながら、老人について二階へと上がった。階段を上がり切った最初の部屋の扉を鈴木老人は躊躇なく開けて中に入って行く。

「だ、大丈夫か?」

 中から鈴木老人の声がする。

 俺も後に続いていくと、部屋の電気がついていて、そこには外で見た厚手のスカートにサマーセーター姿の老婆が腰を抜かしたように脚を畳みに擦りつけていた。

「どうした?何があった?」

 自治会長は老婆を抱きかかえ、尋ねた。

「あ、あが……あの、あの……」

 老婆は壁を指さし、何かを訴えようとしていたが、よほど怖い目にあったのか言葉が出てこない。

「落ち着け、深呼吸しろ」

 俺はその様子を部屋の入口で静観していた。

「なにボウっとしている、水を持ってこい」

 鈴木老人が俺を怒鳴った。

 俺は大声に弾かれたように、下のキッチンに水を取りに行った。そして、蛇口をひねるが水はなかなか出てこない。

 外では隣の柴犬がまだ吠えていた。すると、蛇口が音を鳴らし水が出てきた。

 コップに水を汲んで持っていくと、鈴木老人がまだ老婆を抱きかかえていた。

「水です」

 俺の手から何も言わず水を奪い取る鈴木老人。

「ゆっくりと飲め」

 と老婆の口に水を持っていく。

 老婆はごくごくと水を飲み干して、口を開いた。

「あの女が出たっ」

「あああっ、もう大丈夫だ」

 自治会長は老婆の言葉を遮るように言葉を被せた。

 怯える老婆はそこで初めて俺の存在に気づき、じろりと睨んできた。

「あとは私が独りで請け負うから、君は帰っていいよ」

 と言って、鈴木老人は俺を追い返すように手を振った。

 俺は邪険に扱われて気分が悪かったが、この異様な二人にこれ以上関わりたくないと、家を出ることにした。


 数日後、俺の部屋に私服の刑事が訪ねてきた。

「すみませんが、捜査に協力してもらいたのですが……このアパートの前の民家で死体が発見されたんですが、ここ一か月以内に、何か不審なことがありませんでしたか?」

 刑事の話のよるとこうだ。

 独り暮らしをしている浜崎トネさん(83)が隣町の林野の中から死体となって発見されたという。

 警察の調べで、トネさんは何者かに殺害され、預金一千万円が引き出されていたという事であった。犯人はまだ見つかっておらず、家の中も物色されていたことから、殺人として捜査をしているという。

 俺は、先日の夜に起きた不思議な話を刑事に聞かせた。

 俺の話の裏を取るため、刑事は直ちに俺の証言に出てきた自治会長に話を聞きに行った。しかし、警察署で対面した自治会長はあの夜あった老人ではなく、名前も鈴木ではなかった。

 警察は俺からの証言で似顔絵を作り、その男の行方を追った。

 そして、逮捕されたのが訪問介護センターの元職員、田中洋治たなかようじとその内縁の妻、金子美佐子かねこみさこであった。

 彼らは十年前からトネさんの資産を狙って画策して、ついに殺害して死体を林の中に埋めた。そして、犯行を誤魔化すため二人はある計画を思いついた。

 それは、何も知らないアホな若者を犯人に仕立てるためにあの家に引き入れて、指紋を残し、殺害して死体を隠しておくというものであった。

 その白羽の矢が立ったのが俺であり、俺がちょうど一か月前に引っ越してきたことを知っていたので、上手いこと引き込んで、殺害する予定だったという。

 最初に見た幽霊は、実は金子美佐子であったという。

 家に引き入れるまでは上手くいったが、しかし、俺を待ち構えていた金子美佐子の前にトネの本物の幽霊が現れ、驚いて声を上げたせいで犯行がとん挫してしまったというのだった。

 酔っていたとはいえ、幽霊と人を見間違えるなんてバカな話だ。そのせいで危うく殺されそうになったのだから。


 それから数日たったある日、例の柴犬が小屋の中にいないことに気づいき、たまたま家主がいたので訊いてみた。すると、

「裏の事件、知っているだろう?あの犯人がさ、うちの犬が吠えるって言うんで、犯行前に毒を盛ってたんだ。ひどい話だろう?」

 家主は腹ただしそうに俺を見つめていった。

「え?じゃあ、あの夜、吠えていた犬は……?」


                                     🈡



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