忘れる夢




 シンクで哺乳瓶を洗って、煮沸消毒をする。

「……日付が変わりました。午前零時です」

 リビングのテレビから零時のニュースが流れてくる。喜乃きのは手を止め、思わず舌打ちした。

 そのとき、眠ったと思っていた息子の喜一良きいらの泣き声が隣の部屋からしてきたので、今度は大きなため息をついた。

 喜乃は待つのが苦手であった。かといって、自分からリアクションを起こせない妙なプライドがあった。

 しかし、それにも限界はある。

 子供をあやしながら、スマホを開き、旦那にLINEを送る。

『遅い』

 ジッと画面を見つめる。既読にもならないし、返信が返ってこないこともまた腹ただしい。


 LINEの着信音でハッと目が覚めた。

 いつの間にか眠っていたようだ。なんだか、奇妙な夢を見ていたような気がしたがLINEの方が気になり、ソファーの上に投げ出してあったスマホを手に取る。

『第3回 ママさん会のお知らせ』と題したグループLINEであった。

 時刻は午前一時を回っていた。まだ帰って来てない旦那に、また沸々と怒りが込み上げてくる。

 自分は朝から晩まで、喜一良の相手に心身の限界まで疲れているのに、その苦労がまるで分っていない。

 生後五か月の喜一良は、ようやく夜泣きが収まり少し落ち着いてきたが、それでもワンオペでは大変だ。

 喜乃は両親と折り合いが悪く、子供が生まれてからもほどんど交流がない。

 夫の実家も遠く、兄夫婦の子供の世話をしているため、こちらにまで手が回らず、妊娠から出産、そして、生まれてからの育児とこの一年以上、本当にギリギリのところでやってきた。

 それでも、なんとかやって来れたのは旦那の一良かずよしが、献身的に支えてくれたからであった。

 会社に無理をいって育休を取ってくれて、何とか乗り切ることが出来たのだ。

 ところが子供が多少、落ち着いてきて仕事に戻ると、途端に帰りが遅くなった。

 最初の内は無理して育休を取ったので、会社に負い目があるのだろうと何も言えなかったが、こう毎日だとさすがに我慢の限界に達してくる。

 そのとき玄関の方で音がして、しばらくすると寝室に旦那が入ってきて、明かりをつけた。ベッドに喜乃が起きていることに気づき、ギョッとする。

「あ、起きてたんだ」

 小声で、気遣いモードを装うところもなんだか腹が立ってくる。

「喜一良が起きるからリビングで話をしましょう」

 抑揚のない話し方で、喜乃はベッドから抜け出た。

「……勘弁してくれよ。もう眠いんだ、あしたじゃダメか?」

「明日も朝から会社に行って、今日みたいな遅く帰ってくるんでしょ?いつ話すの?」

「明日は早く帰ってくるよ」

 その時、サイレンのような喜一良の泣き声が響いてきた。

「……泣いてるけど?」

 喜乃を見つめる一良。喜乃はジッと一良を睨んでいたが、鼻を鳴らして立ち上がる。

「明日はちゃんと話を聞くから、なっ、勘弁」

 両手を合わせて頭の上にあげ、調子よく懇願する一良を無視して、喜一良の元へ向かうのであった。



  *       *       *



 ハッと目が覚めたのは、夢の中の恐怖のせいだったが、それとも喜一良の泣き声のせいだったのか、ベビーベッドへと向かう。

「どうしたの、怖い夢を見たの?」

 あやしながら、喜乃は、先ほど見た夢のことを思い出そうとしていた。

 夢か過去の記憶だったか、はっきりしないそんな感覚を抱く夢を最近よく見た。

 まるで、現実に体験していたことを思い起こしたかのようなのだが、よくよく考えてみるとそんな経験はしてないことが分かる。

 そして、頭が覚醒するとともに夢の記憶が消えていく。どんな夢だったかよく思い出せないが、すごく嫌な感覚がする夢だ。

 そう、その夢には自分の他に登場人物がいた。それはたぶん男、そして、若くはない。

 しかし、夢の内容までは完全に覚いだせない。まるで太陽と月のように、片方の記憶がはっきりすると、もう片方がかすんで見えなくなってしまう。

 頭の混乱を感じながら、こんな夢を見るのはきっと極端に疲れているせいだと、喜一良のオシメを変えながら、矛先は一良へと向かう。

 今朝も目が覚めたら、一良の姿はなかった。

 顔を合わせると何を言われるか分からないから、自分が寝ている間に早々に家を出ていった。

 行ってきますも言わずに……。

「ふーっ」

 気が付くと大きなため息をついて、自分を落ち着かせているのも最近の癖だ。

 ――こんな状態で、夫婦生活を続けられるのだろか?


 その日、元同僚の泉美いずみからLINEがきた。

『今日、家に寄っていい?』

 泉美は一緒に働いていた同期で、現在も一良と同じ会社にいる。それほど仲が良かったわけではないが、断る理由もないので迎えることにした。

「近くに用事があったもんだから……約二年ぶりかぁ」

 泉美は、喜乃を見ると笑顔を作った。

 喜乃は泉美をリビングに通して、お茶と泉美の持ってきたケーキを出した。

「ごめんなさいね、突然押しかけて。育児、大変なんでしょ?」

「まあね。でも、気分転換になるから、大歓迎よ」

 喜乃は笑ったが内心、独身の泉美が前より魅力的に見えて、心中穏やかではなかった。

「で、なに?わざわざ訪ねてきて、何か相談事?」

「ううん、別に。ただ、急に北野の顔が見たくなったもんだから。あ、今は原田さんだったね、ごめん」

 泉美は喜乃の旧姓を呼んで、笑って訂正した。

「……最近どう?仕事の方は順調?」

「原田さんから聞いてないの?」

 意外という顔を作り泉美は返す。

「それが最近、帰りが遅くて……何かあった?」

「一緒の部署になったのよ。わたしたち……」

 喜乃の胸がざわついた。

「……そう、知らなかった」

「結構、忙しくてね。慣れてないから。けど、原田係長が丁寧に指導してくれるから、助かっているの」

 泉美は一方的に会社の話をして、小一時間くらいで帰っていった。

 その夜、一良は昨夜いった通り、早く帰宅した。

「泉美が来たのよ」

 夕食を食べ終えたタイミングで、喜乃は切り出した。

「……へえ、そう」

 一瞬、間をおいて一良は返事をする。

「一緒の部署になったんだね」

「そうだけど……最近、大規模な配置換えあったんだ。大勢の中の一人だよ」

 喜乃はジッと、一良を見つめる。

「な、なんだよ?」

「泉美と浮気してる?」

 喜乃はいきなり確信をつく質問をした。

「な、何を言ってるんだ、突然。してるわけないだろう、あんだってそんな風に思うんだ?」

「彼女があなたを狙っていたの知ってたから」

「へえ、そうなのか?」

「フッ、そうよ。今日来たのも、きっと私を揺さぶるため。分かってるの、あの子の考えそうなこと」

「……考えすぎだよ。俺と彼女とは何もない」

 真っ直ぐ見つめ、一良は言い切った。その目を見つめ返して喜乃は大きく息をついた。

「……ならいいけど」

「ないに決まっているだろ、だいたい彼女はタイプじゃない。俺のタイプは喜乃みたいに小さくて可愛らしいタイプだって知ってるだろう?」

(けど、今はちっとも可愛らしくないでしょ?)

 と口から出そうになったのを飲み込む喜乃。

 ――それに泉美のような一見、気の強そうな女が自分にだけ見せる女らしさに男が弱いのも分かっているのよ。


「おい、いいのか、相棒?このままにしておいて」

 暗闇の中、男が言った。

「構わない、一切の証拠は残していないから。こいつとあなたは接点なんてないしバレっこない」

 といった足元に血を流す裸の泉美が横たわる。

「お前って本当にイかれてるぜ、血を見ないと気が済まないようだな」

 一歩前に出たのは、無精ひげを生やした一昔前の映画に出てくるならず者のような男であった。

「元々そうなのか、そうなってしまったのか……」

「ふ、まったく恐ろしい女だよ、お前は。それに俺とこんなに相性がいいなんてな」

 とならず者が喜乃に口づけをする。

 そのキスで夢の中の喜乃は欲情し、現実の喜乃は気持ち悪く、ハッと目を覚ました。

 心臓が大きく脈打っているのが分かる。

 喉の渇きを覚えたのでベッドから抜け出た喜乃の耳に、ベビーベッドから喜一良の声が聞こえてきた。

「……マ……マ」


 リビングは明かりがついていて、一良が哺乳瓶の煮沸消毒をしていた。

「ああ、起きたの?まだ寝てていいよ」

 入ってきた喜乃に気づき、一良は微笑んだ。

「水を飲みに来たの」

「そう」

 シンクに近づいて行き、一良と入れ替わり、コップを取って蛇口から水を出す。

「今ね、ヘンな夢を見たの」

「へえー、どんな夢?」

 一良は消毒を終えた哺乳瓶を乾燥させるため、タオルの上に置いている。

「人を殺す夢」

「……へえ、イヤな夢だね」

「それがとてもリアルなの。まるでその場にいたみたいに身体の感覚から、相手の息遣い、血の臭いや味覚までしっかりしているの」

「……」

「しかもこの夢、何度も見ているのよ。ここ半年くらいの間……どうしてこんな夢を見ると思う?」

「疲れているからじゃないか。育児の大変さが夢となってでているんだよ、きっと」

「簡単に言わないで」

 喜乃は叫んだ。

「あなたのせいよ、全部あなたのせい。あなたが私の人生を狂わせた。妊娠だってしたくなかった、結婚だってしたくなかった、子供だって欲しくなかった」

「……落ち着け、君は疲れている。病気だ、育児ノイローゼってやつだ」

「違う、これは私の本心。だから、もう、お仕舞にしたの。全部……」

 シンクの棚の中にある刃渡り30センチの出刃包丁を取り出して、構えた喜乃。

「よ、よせ」

 両手を前に差し出した一良の懐にスルリと入って行くと、包丁があっけなく一良の腹に突き刺さった。

「あっ……」

 驚愕の中、お互いが目を合わせたその時、喜乃のハッと目が覚めた。

 自分がどこにいるのか、一瞬判らなかった。

 顔を上げると、隣の席の先輩が優しく微笑んで見ていた。その瞬間、自分がどんな夢を見ていたのかを忘れた。

「……北野さん、ダメでしょ。仕事中寝てちゃ」

 喜乃は恥ずかしさと照れくささで、思わず大きく息をつく。

「すみません、原田先輩」



                                    🈡



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