氷角
「物事が人の目に触れるよりずっと多くの事象が、その下に隠されている。例えば、ここに年間の交通事故の死亡件数があるが、昨年は約三千人の尊い命が失われた。しかし、交通事故件数はそれよりはるか多く、発生件数は約三十万件ある。つまり、警察が介入した交通事故件数が年間約三十万あり、それより多くの届け出のない交通事故も含むとそれ以上になり、もっと言えば、たまたま事故に至らないケースが最下層部にある。そう考えると、交通事故の件数が死亡まで行くのはピラミッド型になっていることがわかると思う」
スライドを前に立ち、学生に向かって講義をしているのは、社会学者の
「これは交通事故だけに留まらず、ありとあらゆるものに当てはめることができる。例えば、芸能人になりたい人は多いが、全員がオーディションを受けるわけではないよね?オーディションを受ける人の方が、なりたいと思う人より少ないはずだ。同様に、彼女のことが気になる男性諸君はこのクラスにたくさんいるはずだが、実際、行動に移す者は、ごく少数だ」
と、最前列に座る美女をさして、孝三郎が話すと生徒から笑いが起こる。美女の方は苦笑で返す。
「そして、彼女と付き合えるラッキーな者は更にさらに少数に絞られる。これがわたしが提唱している『氷山の一角理論』なんだ。物事というのは、ピラミッドのように何層にも断層に分かれていて、人の目に触れるモノは、それより多くのモノがその下に何層にも支えるようにあると考えていい。我々が目にする事象はそれ以上のモノがあることで現れたものに過ぎない。これが分かったことで何が言えるかというと、目に見えていることを解決したとて、それよりはるかに多くの問題がその下にはあり、原因の解決になりえないと言えるというわけだ」
ベルが鳴り、講義が終わる。
「三原君」
席をたとうする先ほどの美女、
「今晩っ」
愛里を追い越し際に孝三郎が囁いた。その背中を愛里は無表情に見つめていた。
ベッドが軋み、薄暗い部屋に女の吐息が漏れる。
時折、野獣のような野太い吐息が、女の吐息の合間に挟まり、
「どうだ?……ここか?……ここがいいのか?」
攻め立てるような声が響く。
「い、ああっ」
言葉にならない声が漏れ、男の野太い声と混じりあった後、部屋が静かになった。
長い吐息を吐いて、孝三郎が仰向けになった。
「君の身体は、口とは裏腹に正直だな」
「……」
愛里は目を閉じ、鼻で荒い息をしている。
ベッドから抜け出し、シャワーを浴びに行く孝三郎が訊いた。
「進路は決まったのか?」
「……」
愛里は無表情のまま天井を見上げている。
「院に行くにしろ研究所に行くにしろ、キミの優秀さは私が証明するから安心したまえ」
「……はい」
愛里は力なく返事をした。
ホテルのエレベーターから降りてくる孝三郎と愛里。
「じゃあ、また連絡するから」
エレベーター前で別れて、孝三郎はそのままラウンジに向かう。
「お待たせしました」
孝三郎がラウンジのソファーに座る男の前に立った。
「わざわざ、ありがとうございます」
男は立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「……先生のベストセラー『氷山の一角理論』ですが、あれは元々、自分の研究であり、先生が勝手に自分の名で発表した論文であると仰ってまして、その真偽を先生に確かめたくて、わざわざすみません」
相手は如何にも抜け目のなさそうな記者風の男であった。
「……確かに
「はあ……」
「それをおたくがそのまま鵜吞みにして、記事にでもするようなことがあれば、そちらとしても信用にかかわるのではないですかね?」
「おっしゃる通りです。『氷山の一角理論』は現在ベストセラーとなり、重版が続いています。うちとしましても、真偽の定かでない記事は決して出すつもりはございません。しかし、峯山先生も自分の発言に責任を持つと言ってますし、そのまま有耶無耶にできないのではないでしょうか?」
余裕を見せていた孝三郎が初めて、嫌な顔をした。
「もちろん、私としても、有耶無耶にするつもりはないよ。ただね、君たちのようなマスコミに騒がれるのは勘弁願いたいものだがね」
「申し訳ございません。相手方が、我々にどうしても間に入ってもらいたいと仰っているので……」
記者が帰っていくと、孝三郎は一人ラウンジに残り、思いっきり舌打ちをした。
そして、しばらく考えていたが、徐に胸ポケットから携帯電話を取り出して、どこかに電話をかけ始めた。
「ああ、私だ。君に頼んでおいた例の件はどうなった?……うん、そうだ。……受けてくれると言ったのか?……本当に大丈夫だろうね?……そうか、なら君に任せよう。金は約束通り、現金で用意するから」
電話を切って、孝三郎は鼻を鳴らした。
別の日。
「先生がテレビ出演しているのを拝見しました。流石は先生、とてもテレビ映えしておりましたよ」
中年の身なりのいい婦人が対面に座る。その隣に、興味のなさそうに座るのは、その夫人とよく顔が似ている若い男であった。
「ありがとうございます」
孝三郎は笑みで返す。
「これは、残りの半額でございます。先生のお口添えのお陰で息子も無事、〇✕大学に入学できました。本当にありがとうございました」
婦人は、テーブルの上に茶封筒を置いた。孝三郎は中身の厚い茶封筒を自分の手元に手繰り寄せる。
「では、遠慮なく」
母子に入れ替わって、秘書の橋本が慌てて入ってきた。
「先生、峯山先生が今朝がた交通事故にあい、病院に搬送されたそうです」
「……」
孝三郎は封筒を隠すように懐に入れて立ち上がった。その様子に、橋本は言い知れぬ違和感を感じる。
「先生……どうしましょうか?」
孝三郎は無視を決めこむ。
「いえ、お見舞いに行かれますか?」
「今日はこの後、大阪で講演があるんだったな」
つぶやいて、窓辺に立ってはるか先の街並みを見下ろす。
その夜。
都心の高級住宅街の一軒家に帰ってきた孝三郎。
「お帰りなさい、あなた」
夫人が玄関まで出迎える。
「ただいま」
家に上がり、寝室へ向かう。その時、家の電話が鳴った。夫人が立ち止まり、緊張した面持ちになる。
「なんだ、電話か珍しい」
携帯を持つようになって、ここ何年か家に電話が掛かってくることはなかった。
「昨日から、よく電話がかかってくるんですがいつも無言で……」
婦人が不安を訴えるように孝三郎にいった。
「……」
「なんだか、気味が悪くて……」
電話のベルが止んだ。孝三郎は気にもしないで、二階へと上がっていく。
しかし、その夜、何度も電話が鳴り響いた。
「もしもし?」
電話の向こうは無言である。
「……誰だ?こんな夜中に、悪戯は止めろ」
「あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”」
その時、小さな声が受話器の向こうから漏れ聞こえてきた。
「くだらない、悪戯は止めろ。馬鹿馬鹿しい」
孝三郎は電話を切った。
翌日、学校の孝三郎の部屋に三原山愛里がやってきた。
「どうした?何しに来た、ここに来るなと言ってあるだろう?」
歓迎する雰囲気ではなく、責めるような目を愛里に向ける。
「先生、私、妊娠したみたいです」
デスクでパソコンのキーボードを叩いている孝三郎の手が止まった。
「この責任、どう取ってくれるんですか?」
愛里は鋭い目線を孝三郎に向けた。
「責任?それが私の子供だとどうして言えんだ?」
「そんな……ヒドイ」
愛里は絶句する。
「大方、私から金を取ろうとバカな男と画策して……」
すると、孝三郎は何かに気づいたような顔をする。
「そうか、キミか。うちに電話を掛けているのは、やはり、わたしを脅そうというつもりだな?」
愛里は目に涙を浮かべ、孝三郎を睨んだ。
「そんな手には乗らないぞ。帰りたまえ、そして二度と私の目の前に現れるな。このアバズレが」
その時、孝三郎の机の上の電話機が鳴った。孝三郎は愛里に背を向けて、電話に出る。
「はい、濱松ですが……」
背後で黒い影が揺れたかと思うと、孝三郎の脇を通り抜け、窓際へと進んでいった。
孝三郎が視線を走らせると、愛里が開いていた窓枠に足をかけ、躊躇なく、外へと飛び出した。
そこは大学の校舎の五階に位置しており、地上約十五メートル。
「チッ」
孝三郎は思わず舌打ちをした。その時、受話器の向こうから、先夜きいた声が聴こえてきた。
「あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”」
「悪戯は止めろ」
孝三郎は叫んで、受話器を叩きつけるように置いた。
窓辺に向かい下を覗いてみると、地面に体を打ち付けて動かなくなった三原山愛里が、頭の辺りから血を流し倒れていた。
「あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”」
孝三郎のすぐ背後で、先ほどの声が響いて来たので、とっさに振り返って見ると、そこに三原山愛里が立っていた。
「き、君は……」
孝三郎は地上に倒れている愛里と、部屋の中の愛里を交互に見た。
その時、部屋のドアをノックする音が響き、秘書の橋本が入ってきた。
「失礼します。先生、奥様と峯山先生がお見えです」
「き、君、橋本君……自殺したはずでは……」
孝三郎は橋本の顔の青白い顔を見て驚く。
更に橋本の背後から、現れた顔が半分なくなった男と土色になった老婦人を見て、孝三郎はブタの鳴き声のような悲鳴を上げるのであった。
🈡
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