トイレの住人 前編


 あらすじ


 かつて日本に伝わっていた伝承に厠の住人という話があった。

 それを現代によみがえらせた民俗学者の生田の出版した本に収められたエピソード「トイレの住人」

 現代の闇に隠された真実の扉を今開け放つ。

 




 美しい日本庭園が見える座敷に対面して座る若いスーツ姿の男と、和装の白髪の老人。

「……生田先生は本来、民俗学がご専門ですよね?なのに、今回はなぜ、ホラー小説を出版されたのでしょうか?」

 スーツの若者が聞いた。

 二人の間のテーブルに、ハードカバーの本が一冊と、その横にスマホが置かれ、録音をしている。

「これは、怪談の類ではなく、民間伝承を集めたものです。地方に古くから伝わる話を丹念に聞いて回わり、それを本にしたのです。ただし、出版社がそれでは売れないからと、怪談のような形式で売り出しただけです」

 生田はテーブルの上のおどろおどろしいハードカバーの表紙を見ながら、忌々しそうにタバコの煙を吐き出した。

「執筆で苦労した点は、どういったところでしょうか?」

「単純に昔から伝わる話を集めただけの本では、今の若い人にはあまり興味を抱かれないということでしょうな。同じ話をするにも、伝え方によって興味を沸かせるよう工夫するのに苦労しました」

「具体的にどの点に力を入れたのでしょうか?」

「話の流れとその背景にあるもの、皆さんもよく知っている話も、実はこういう風に歪曲して伝わったものだということなどを解説しております。そこが従来の民話集とは異なるところではないでしょうか」

「なるほど。では、先生のお薦めの話はどれですか?」

「……みんないい、と言いたいところだが、かわやの住み人という話はとても面白い」

「厠の住み人ですか。私も興味を持ったタイトルです」

 若い男はそう言って、テーブルの上の本を見つめた。

「フフフッ、この話の面白いところは、現代にも似たような話があるところだよ。それを聞いて私も驚いてね、トイレの住人という都市伝説があるんだ」

 タバコを灰皿に押し付けて消して、生田はニヤリと微笑んだ。

「本当ですか?」

「ああ、ネットで調べてみるといい」

「はあ……」

「長距離トラックの運転手の間では有名な話らしいよ。ほら、彼らはよくサービスエリアの大きなトイレに入るだろう?そこに一つだけ、いつもドアが閉まった個室トイレがあるんだ……」



  *        *        *




 コロナの影響で、川上英明かわかみひであきが勤めていた会社はあっけなく倒産した。

 代わりの職を探し、藁にもすがる気持ちでついたのが製薬会社の営業の仕事であった。しかし、これが失敗の始まりであった。業務は基本、地方回りで不規則であり、車での移動時間がほとんどを占めた。

 三か月が経っても慣れず、限界が近かったが、妻子を養うために辞めるわけにはいかないというジレンマに陥っていた。

「はい……はい……わかりました。失礼します」

 高速道路のサービスエリアで車を止めて、会社に電話をし終え一息つくと、先ほどから我慢していた尿意が急激に脳内を刺激した。

 急いで車を降りて、サービスエリアのトイレへと駆け込んだ。潔癖症な英明は普段なら、不特定多数が使う公衆トイレを利用することを極力避けるのだが、この仕事をしているとそうも言ってられない。

 何しろ、四六時中、車を使って移動しているのだ。やはり尿意には勝てない。

「気持ち悪いな……」

 トイレから出てきた作業着のおっちゃんが、すれ違いざまに、そう呟いて去っていった。

 最近の公衆トイレは昔と違い綺麗になった。

 このサービスエリアのトイレも、悪臭もなく、清潔なトイレが左右に広がる。おまけにトイレには誰もいなくて、誰に気兼ねすることなく用を足せた。

 小用を済ませて、「フーッ」と息をつき、さて、出ようとしたとき、誰もいないと思っていたトイレの個室の一つが閉まっていることに気づいた。

(あっ、人がいたんだ)

 そのとき、先ほどの出ていった作業着の男のつぶやきを思い出した。

「気持ち悪いな……」

 手を洗って出ていけばいいのだが、なんとなくその個室が気になった。

 立ち止まり、様子を伺う。

 なぜそうしたのか自分でも分からない。ただ、先ほどから音も臭いもなく静まり返っているのが、個室の人間が息を殺し、自分の様子を伺っているのかと思ったからかもしれない。

 それとも、単に一つだけドアが閉まっているだけで、中に誰も入っていないのかもしれない。

 そう思うと急に可笑しくなった。

(ドアが閉まっているだけで中に誰もいない状況などあるか?)

 よく子供が、いたずらでやる中から鍵をかけて、上の隙間から隣へ移って外へ出るというやつだ。こんなところで、誰がそんなことをやるというのだ?

 そのとき、人が入ってきたので英明は動き出した。


 前の会社に勤めていたころの半分の家賃のマンションに引っ越してから四ヵ月になる。以前と比べて居心地が悪く感じるようになったのは、家が狭くなったという理由ばかりではなかった。

「ただいま」

 玄関で声をかけても、リビングのテレビの音が虚しく響くだけだ。

「ただいま」

 リビングのドアを開けて、中に声をかける。

 ソファーに座り、アニメを見つめる娘のむつみとその隣に妻の佐江さえがいた。どうやら眠っているようだ。

 英明はキッチンへ向かい、冷蔵庫のドアを開け、中から缶ビールを取り出した。テーブルの上にはラップをかけた夕食が一人分置かれていた。

 時刻は午後八時。

 ラップを剥がし、ハンバーグにナポリタンを肴にビールを流し込む。

「あれ、帰ってたの?」

 ソファーから振り返って、佐江さえがいった。

「ああ……」

「起こしてくれればよかったのに……」

 娘が生まれてしばらくは、仕事も上手くいっていて、人生のすべてに意欲を燃やしていたが、一つ歯車が狂い始めると、すべての歯車が狂っていくようにギシギシと音を立てているのがわかる。

「今日は参ったよ、納品した薬の封が開いていたってクレームが入ってさ……」

 ベッドに入りながら、英明がいった。

「明日から睦を連れて実家に帰っていい?お母さんが体調を崩したみたいなんだ」

 ベッドの中で、背中を向けている佐江が返す。

「……そうか、わかった」



  *       *       *



「珍しいですね、川上さんが飲み会に参加するなんて」

 女子社員の田沢翔子たざわしょうこが嬉しそうにいった。

「奥さんが実家に帰っているから、羽を伸ばしにきたんだってさ」

 英明より八つも年下だが、会社の先輩である青木和人あおきかずとがいった。

「そういうわけじゃあ……本当は前から付き合いたかったのですが、いつも外回りですから」

 そういって英明が苦笑いした。

「川上さん、どんなに遠くても、日帰りですもんね?奥さんを愛してらっしゃる」

 酔いに任せて青木が茶化した。

「でも私、一度、川上さんと飲んでみたかったんですよ」

 田沢翔子が艶っぽい目を英明に向けた。

「気を付けてくださいよ、こいつ川上さん狙ってますから」

「そんなバラさなくてもいいじゃないですか」

「ハハハハハッ」

 英明は渇いた笑いで返した。

 その日は、久しぶりに独身時代に戻ったような気分で終電まで飲んだ。

 家に帰る途中、尿意を催して、駅と自宅の中間にある大きな公園にたち寄ることにした。

 酔いもあっただろう。いつもなら家まで我慢したはずだ。

 公園内は街頭がついていたが、暗く人気がない。酔っているとはいえ、さっさと用を足して帰ろと足早になる。

 トイレに入口で、いきなり黒い影が飛び出してきた。

「わあっ」

 自分でも信じられないくらい大きな声を出して驚く英明。

 暗くて顔はわからなかったが、すぐに臭いでホームレスだとわかった。

「チッ」

 驚かされた腹ただしさで、思わず舌打ちをする。

 トイレに入ると二回目の後悔をした。公衆トイレ特有の臭いに交じり、ホームレスの体臭がトイレ内に充満していたからだ。

 それでも尿意には勝てず、さっさと済ませて帰ろうと小便器へ近づく。

 白色蛍光灯の薄暗いトイレ内にくすんだタイル。小便器が横一列に三つ、角を挟んでL型に曲がっていて三つ。その後ろに個室のトイレがあった。

 飲み会の席での田沢翔子の自分を見つめる目線が脳裏に浮かんだ。

 つまらない営業の仕事だと思っていたが、身近に楽しみを見つけた気分であった。

 勢いで飲んだものを一気に出し切って、ようやく落ち着きを取り戻しチャックを上げる。さっさとトイレを出ようとしたそのとき、ガタンと個室の方から物音がした。

 ビクッと肩を震わせて、驚く川上。

 振り返り、個室を見ると、四つある中の一番壁側の個室が閉まっていた。

 気づかなかったが、人が入っていたようだ。川上は数日前のサービスエリアのトイレを思い出した。

「……」

 静寂の中、閉まった扉を見つめる川上。

 トイレの中からも、こちらの様子を伺っているような気配がする。

 蛍光灯が突然、チカチカと点滅してので、ハッと我に返り、英明は慌ててトイレを飛び出していった。




 後編につづく

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