21.Chamelauciumuncinatum

その日、珍しく店が暇だった。

暇だった、と言っても私も柚木も本を読みふけっているので、何ら困ることはない。それに、柚木の蔵書は膨大だ。読む本にも困らなかった。

本を読むのに集中していると、人は表情がすとんと落ちる。目だけが文字をなぞる。静かだ。

柚木の蔵書はどれも面白かった。日本語だけでなく英語の書物もある。ドイツ語の少し簡単な本もあった。フランス語と英語と日本語の星の王子様があったので、ついつい読み比べをしてしまった。絵本もある。難しい化学の専門書や哲学書もあった。けれども、圧倒的に多いのは小説である。このまま床が抜けるんじゃないかと思うくらい、数多の小説がダイニングの壁一面を埋め尽くしていた。よくもまぁ、人間はこんなにたくさんの小説を編み出せたものだと感心してしまう。

少し前に流行った、感動的な恋愛小説があった。中古本を扱うチェーン店のシールが裏表紙についていたので、私は柚木らしいなぁと思った。感動的な恋愛小説を、柚木が新品の新書で買うのが想像できなかった。何かオススメはないかと本を読み終えた柚木が言うので、私はその本を柚木に渡した。

私は恋愛小説が苦手で、特にお涙頂戴ものとなるとふと気持ちが冷めてしまう。柚木はどんな顔をして読むのだろうと思い、ちらちらと表情を盗み見ていたが、いつもと何ら変わらなくて少し残念だった。それでも、読み終わった感想が、グランドキャニオンに行きてー、旅行に行きたいだったのでやっぱりなぁ、と思った。柚木がぐしょぐしょにないていたら、それはそれで面白かったが、柚木にそんな一面はないらしい。

「あ」

柚木が次の本を開きながら言った。

本の間から、べろりと何かが出て来て、柚木のジーンズの上にぐったりと落ちた。柚木は何かを考えるように悩んだ後、ジーンズに落ちたそれを手に持ち、しげしげと眺めた。

「ワックスフラワー…か」

よく見れば、枝に小さな花がポツポツとついている。すっかり色褪せて、ぺらぺらだが、言われてみれば何かの花のようだった。

柚木が開いているのは洋書である。小口の所に雑な字でKAZUMA YUNOKIと書いてある。随分と年季の入った本だった。

「誰だ、俺の教科書で押し花したのは」

「自分がやったの、忘れてたんじゃないですか?」

柚木は苦笑いした。

馬鹿言え、俺が押し花なんかするように見えるか?そう言うが、残ってしまった薔薇や傷のある薔薇をこまめに吊るして、ドライフラワーにしている花屋の店主である。

「この教科書使ってた頃の俺は、花なんかに目を向けてる余裕もないくらい、切羽詰まってたからなぁ」

所在無さげに押し花を持ちながら、周りを見渡し、ティッシュを一枚、ふわりと本の山の上にひく。その上にそっと押し花を置いた。

「まぁ、面白いからとっとこう」

そう言いながら、文庫本に手を伸ばした柚木の後ろから、ヴィーナスが顔を出し、押し花にそろそろと興味深そうに手を出した。あ、と私が言おうとすると、「ヴィーナス、お前、それに触ったら今日の餌、抜きな」と絶妙なタイミングで柚木が言う。

頭の後ろに目が付いているのだろうか?私とヴィーナスはまるで同じことを思ったかのように、目を丸くしていた。

ヴィーナスが拗ねたように逃げ去ると、柚木は何も無かったことのように本を開いていた。


その押し花は、数日後、質素なフォトスタンドに入れられていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る