22.Magnolia liliiflora

此れはもう駄目だと、皆は溜息をつきました。しかし、それは、もう手遅れながら、有る者はほぅと見惚れる程に美しいものでした。確かにそれは、美しいものでした。今まさに命を終えてしまった瞬間のような、まるで演じているだけかのように錯覚させる程だったのです。それがかの女優の最期の姿でした。彼女の遺体には、美しく丁寧な化粧が施されていたのです。


数年前、ある大賞を受賞した小説の冒頭である。「月下美人」と題されたミステリー小説は、現代には合わない古めかしい文体だったが、それがよく作品の雰囲気に合って、噂が噂を呼んでヒットした。原作者が映画化を頑なに拒んだことと、作者が一切マスコミに姿を現さないことで有名だった。

瞬く間にヒットメーカーに名乗りを挙げたその作家の名前は紺野潮という。性別や年齢も公表していないことが、これまたミステリアスで話題になっていた。

その実体は和服を着ている青年である。マスコミに出たら、さぞかし話題沸騰するであろうというくらい美しい顔立ちの男性だった。肩口くらいに伸ばされた黒髪と、すらりとした出で立ちが和服とよく合った。

もちろん、私も月下美人は読んでいる。そして、固定の作家で本を買わない私が、紺野潮の本だけは気付けば全て読んでいる。装丁が綺麗なのだ。ついつい書店で目について、手に取ってしまう。私も言われなかったら、この綺麗な青年が紺野潮だなんて思わなかっただろう。

ある日柚木は思い出したように私に言ったのだ。「あ、この人、あれだよ、紺野潮だよ。月下美人の」サインでも貰っとけば、高く売れるぜ、と言われて、私が飛び上がったのは説明するよりも明らかだった。

「この人は俺よりも若作りオバケ」

と柚木が言うように、恐らく柚木と同じかそれより上なのだろうが、まさかこんな容姿の人だとは思いもせず、私は柚木にそう言われても半信半疑だった。

「そりゃ、信じられないでしょうね」

まぁ、一応と紺野さんが取り出したのは、名刺だった。「本名なんです」紺野潮、と真ん中に書いてある上品な名刺だった。端に厚朴とある。

「あぁ、それ、俳号です。趣味で俳句もやってまして」

それでも信じられない。

お前、信じてないだろ、と柚木に呆れられたが、当たり前だ。てっきり、気難しそうなおじさんかなと思っていたのだから。

ですよね、と柔和な笑みを浮かべながら、紺野さんは少し思案した。

「では、どうでしょう。…次に出す本は牡丹の表紙にしてもらうつもりです」

あ、でも編集っていうセンが捨てれないか…そう言いながら、紺野さんは「まぁ、信じてくれなくても構いません。私は、その方が気が楽ですし」


翌月、刊行された新刊の表紙は、白と紅の牡丹が描かれていた。衝撃を受けたのは言うまでもない。

しかも、巻末の作者の言葉の中に、どことは書かれていないものの、明らかに青木青花店のことであろう、愛用している花屋のことが書いてあった。間違いなかった。

「この顔だと、目立ってしまうでしょう。人前で騒がれるのが嫌いでして、取材とかは一切キャンセルしてもらっているんです」

確かに、人気ベストセラー作家がこんな容姿なら、今時のマスコミは放ってはおかないだろう。各所に引っ張りだこに違いない。それをさらりと自覚しているようだった。

いつかこの店にやって来た、椿という男も随分と綺麗な男だった。椿は女性のように綺麗な顔立ちだったが、その言動といい、纏う雰囲気といい、野生の猛獣のようなぎらぎらした獰猛さがあった。紺野さんは椿とは違う。嘘のように凪いだ、穏やかな綺麗さだ。何というか、椿はパリコレのモデルで、紺野さんは少女漫画の憧れの先輩…みたいな、そんな感じである。

「もうすぐ、暑くなりますねぇ」

そう言って紺野さんは大ぶりのハナミズキをひと枝買っていった。

その背を見送りながら、私はぼそりと言った。

「紺野さんって…」

柚木がん?と振り向いた。

「綺麗ですし、いい人なんですけど、なんか……現実感がない感じがしますよね」

どういうことだよ、と柚木に返されて、私は思わず言ってしまった。

「あぁいう、詐欺師っていそう」

呟きながら、随分失礼なことを言っていることに気が付いて、私は口を閉じた。

柚木は私の言葉を咎めるでもなく、ハハハ、と笑い飛ばした。お前、詐欺師って、と笑いながら言う。ひとしきり笑った後、柚木は目を細めて言った。

「本物の詐欺師や嘘つきは、意外と普通な顔だったり、綺麗な顔ををしてるもんだからな。」

意味深に言うと、柚木はハナミズキの枝を整えはじめた。

高い音が枝とともに、私の感じた違和感をちぎり去ってしまった。

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