20.Heliotropium arborescens
青紫は青じゃないのだろうか。
だったら、スミレだって青じゃないと思う。
私は、柚木と初対面のときのやりとりを思い出して顔をしかめた。
私の中の議論を引き起こしたのは、目の前の花だ。
ヘリオトロープ。
いい香りをあたりにふりまいている。確かに、百歩譲って、咲ききった外側の花は濃い紫と言ってもいい。これは認めよう。しかし、まだ咲き始めの花はまだ紫が薄く、青に見えた。
スミレが青だからと言って、私を不採用にしようとしたくらいだ。少しでも青く見える花を徹底的に排除している癖に、ヘリオトロープは良いのか。断固抗議したかった。
柚木もそんな私の抗議に気が付いたらしい。
「んなに膨れんなよ。」
呆れた、という顔をされた。
「これはギリギリ青じゃねぇだろ」
そんな言い訳をしている。
「日本に始めて輸入されたのはヘリオトロープの香水なんだぞ。ほら、漱石の三四郎でも出てくるじゃねぇか」
ほーら、いい匂いだろーと誤魔化されて私は余計に不機嫌になった。青いからと入荷しなかったり、不採用にするほど青が嫌いな癖に…不採用にしようとしたくせに…
「あー…悪かった、悪かった」
参った、というジェスチャーをしながら柚木が言った。
「お客さんがどーしてもって言うからサ。許せ」
柚木が花を組むたびにヘリオトロープの花が揺れ、ほのかな香りをあたりに振りまく。
ガラス戸があく。金属製のドアチャイムがチリンチリンと音を立てた。この花屋の構造上、お客さんの来店に気がつきにくいから、私が取り付けた。
「この花は、特別…」
柚木がそうつぶやいていた。
「一馬くん、お久しぶり」
ひょいとこちらを伺ったのは、小柄な初老の女性だった。笑顔が似合っている。
「相変わらず、妬ましいくらいに若々しいわねぇ……あら、とってもいい香り。」
おっとりと女性が言う。
柚木がヘリオトロープを嗅いだ。
「沙智子さん、毎年ありがとうございます。トウコも喜びます」
私はふと、思い出した。トウコ。いつだったか、柚木が寝言で言っていた名前だ。沙智子さんは、ふわりとあたりを見回した。
「あなた、まだ青嫌いが治ってないのね。毎年言っているけれども」
驚いた。この人は、柚木の青嫌いを知っている。
柚木は苦い顔をしている。腕の中のヘリオトロープが揺れた。
「トウコっていう名前もお庭に咲いていた青い藤のお花からつけたのよ。浮かばれないわぁ」
トウコ、藤子。私はぼんやりと脳裏に描いた。そして、悟る。藤子という女性はおそらくこの世にもういない。なぜなら、柚木がお供えの時に使う白いリボンと白いラッピングを用意していたからだ。この組み合わせは仏花にしか使わない。
「あら」
沙智子さんは私に気が付いたようだった。
「これまでになかった変化だわ。……えっと、」
「アルバイトの神崎です。」
柚木が言った。言葉を奪われた私はあっ、と変な声をあげてしまう。
「あらまぁ、素敵なお嬢さん。うふふ、私は三島沙智子と言います。神崎…何ちゃんかしら?」
上品な人である。握手を求められながらそうきかれ、「神崎すみれです」と答えた。
すると、沙智子さんは一瞬真顔になった後、まあまあまあ!と満面の笑みで目をまん丸にした。
「青い、お花じゃない!」
柚木は気まずそうに口をへの字に曲げた。
「こいつの、ゴリ押しに負けました」
大きなため息をつかれてしまった。そんな柚木を尻目に沙智子さんは私にきらきらとした目を向けた。
「藤子ちゃんと一緒だわ。青いお花。うふふ」
柚木はラッピングを終えて、花束を整えて袋に入れている。白いラッピングのヘリオトロープが、白い紙袋に吸い込まれていく。
「一馬くんったら、気難しいから…お姉さんかお母さんの代わりみたいに接してきたのよ…嬉しいわぁ。うふふ」
代わり?疑問符だらけの私の前で沙智子さんは笑った。
「宛名は三島製薬でいいですか?」
唐突に柚木が沙智子さんに聞いた。すると、沙智子さんはむっとして、違うわよぉ、と言う。なんでお供えを領収書にしちゃうのよ、あ、ワザとね!イタズラっぽい顔になる。
柚木は面倒そうな顔を隠すことなく浮かべ、沙智子さんに紙袋を押し付けた。
「あなたはね、お話しが過ぎるんです。早く行かないと日がくれますよ」
沙智子さんは紙袋を覗く。
「あぁ、いい匂い。藤子ちゃんの好きだった香水の香り。」
柚木はさっさと帰れと言わんばかりに、ありがとうございましたーと棒読みで言う。失礼しちゃうわ、と言いながら沙智子さんは私の手を取りながら店を後にする。
不意をつかれた柚木のアッ、という声と私のエッ、という声が重なった。
「あ、あの…」
沙智子さんはガラス戸を開けて店先に出ると、立ち止まって私に名刺を差し出した。
「藤子ちゃんと一馬くんの婚約が無くなって、私は一馬くんとナンの関係もなくなっちゃったけど、何か困ったことがあったら教えて頂戴」
は、はい…私は店先に止まった車に乗り込む沙智子さんを見送る。
「ありがとうございました…」
ぼんやりと見送り、振り向きざまに名刺を見る。…三島製薬会社 会長…三島沙智子……腰を抜かした。三島製薬と言えば、知らぬ人はいない大手製薬会社である。
私が店内に入ると、しゃらしゃらとチャイムが鳴った。
「…あの人、お喋りすぎる……」
愚痴る柚木に私はぼそりと言う。
「藤子さんは婚約者だったんですね」
柚木は頭を抱えながら、驚いた顔で店先を見た。「あの人、余計なことを…」
「……寝言で名前、呼んでましたよ。トウコって。」
少し意地悪に言ってみると、柚木はこれまで見たこともないような酷く苦い顔で私を見た。少し動揺しているようにも見える。
耳が真っ赤なのを見つけて、思わず噴き出しそうになった。
「…マジか」
「はい」
その日の柚木はやけに大人しかった。
後で柚木が言うには、昔の婚約者の名前を寝言で言うなんて、不甲斐なくて死にたいくらい恥ずかしかったそうである。
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