19.Myosotis scorpioides
うぁー、と柚木が意味もなく声をあげていた。続いて激しく咳き込む。
「さぶい…」
朝のシフト通りに店に来た私は唖然としていた。
柚木はダイニングテーブルに突っ伏している。毛布を肩にかけていて、すっかり弱った様子である。
「あの、その……風邪、ですか?」
風邪以外の何に見える、と小さな呟きが返ってきた。確かに、風邪以外の何物でも無かったので、私は手近にあったコップに水を注いだ。コップを柚木に渡して、それから店の扉の札をクローズにし、シャッターを降ろした。
「タマシイが脱出しそう」
ぐったりしながら唸る柚木に私は言った。
「今日は、休業にしましょう」
柚木は苦い顔をしたが、渋々といった様子で頷いた。いつになく気だるそうな柚木は、いかにも具合が悪そうだった。
「なぁ」
頭痛がするらしい。
具合が悪そうに頭を抱える柚木は、うーん、と唸っている。私は、柚木の座っている椅子の側にしゃがみこんだ。
「薬、買ってきてくれないか」
眉間にしわを寄せながら、柚木はそう言った。いかにも辛そうに見上げられて、私は深く頷いた。
柚木は財布を手繰り寄せ、そこからお札を出す。一万円札である。それを私の手のひらにゆっくりと置いた。指先が異常に熱い。
「わかりました、そのままで、待ってて下さい」
弱々しい頷きが帰ってくる。私は大急ぎで店を後にして、ドラッグストアで解熱剤と頭痛薬を買った。ついでに冷却ジェルシートも買っておく。スポーツドリンクと、お粥も足して置いた。
急いで買い物を済まして、早足で店に帰る。ダイニングを見ると、柚木は一階にいなかった。
「ナァ」
奥からヴィーナスの声がする。
暗がりを進むと、階段があった。二階に上がる階段だ。その半ばに布団が落ちていて、ヴィーナスはそこで丸くなりながら、私を見下ろしていた。柚木がさっきまでかぶっていた布団だ。
「ナァーア」
こっちよ、と言われている気がして、私はためらいながら階段をのぼる。ヴィーナスも付いてきた。招待されてもいない人の家に上がるのは、すこし勇気がいる。空き巣にでもなったような気分だ。…空き巣はもっと堂々としているだろうが。
「柚木さーん」
二階に上がると、廊下が左右に広がっていた。困った、どこにどんな部屋があるのかわからない。うろたえている内に、右側からガタン、と音がした。私はドラッグストアの袋を持ったまま音のした方へ進む。するり、と私の横にいたヴィーナスが前に出て、扉の前に座った。
「ナ」
ヴィーナスを信じることにした。私は意を決して扉を開ける。ヴィーナスも私と一緒に部屋へ飛び込んだ。
「柚木さん!」
案の定、柚木がそこに倒れ込んでいた。
驚くべきことは、柚木がスーツを着ていることだった。私がドラッグストアに行っている間に何かあったらしい。外出しようとしているのが分かった。
ち、舌打ちしながら柚木が悔しそうな顔をする。
「不法侵入だぞ」
悪態をつく柚木に、私はスポーツドリンクを押し付けて、錠剤を手のひらに出した。
「…飲んでください」
さらに具合が悪くなった柚木を私は睨みつけた。目がすわっている。熱は相当高いにちがいない。
「早く」
柚木は大人しく錠剤を飲んだ。
そのまま、スポーツドリンクを一本一気飲みしてしまった。
「サンキュー、な」
立ち上がろうとする柚木の肩を私は押さえつけた。さすがの柚木もびっくりしたようで、私を窺うように見上げた。
ビニール袋で、ヴィーナスがじゃれている。
「無理ですよ」
柚木は首を横に振った。ダメだ、断れない。
私は、少し考えてから、こう柚木に聞いた。
「私に、何かできることはありますか?」
一瞬、柚木は惚けたような、びっくりしたような顔をしてから、考え込んで、言った。
「そこの書類を、社名ごとにまとめて欲しい」
机の上に書類が置かれている。それなりの量だ。けれども、私は二つ返事で頷いた。柚木が私に頼み事をするということは、相当参っているに違いない。強情っぱりな病人に臍を曲げて助けない、なんてことは出来ない。
「会社ごとで、いいんですよね」
私が手早く書類を分け始めながら言う。柚木はかすかに眉をしかめた後に頷いた。
「柚木さん、柚木さーん」
薬が効いたらしく、柚木は椅子にすわったまま寝ていた。私は作業に集中しすぎていて気がつかなかった。柚木の足の上で、ヴィーナスが寝ている。
作業を始めて、三十分が経っていた。
「柚木さーん」
呼んでも起きない。
「テッ…!」
ので、私は書類で柚木の頭を軽く引っ叩いた。やっと、頭をさすりながら柚木が飛び起きる。
「お前な…」
書類をひらりと差し出した。柚木は、その書類をじっと見つめた。
「……終わったのか?」
時計を確認している。思ったより時間がかかってしまった。英語と日本が混ざっていて、やりにくかったのだ。時々ドイツ語が入って来た時は、読めなくて参った。
「神崎…お前って、デキ女だったんだな」
茶化すように柚木は言った。はにかむようにして笑う。どうやら、褒めてくれているらしい。柚木はその書類を、茶封筒に入れてから鞄にしまう。
「あっ、お釣り」
ドラッグストアのお釣りを取り出す。六千円も余っていた。
柚木は笑った。
「そんなん、礼だ、礼。全部とってけ」
そう言って、私の手の中にお釣りを全部のせた。
「お前は俺の恩人、だろ?今日、お前がいなかったら、俺は多分、薬買いに行く途中でぶっ倒れてた。本当に助かった、そのお礼だ」
有無を言わさぬ言い方で柚木は言う。
ふと、柚木の顔色が随分良くなったことに気が付く。薬はちゃんと効いたようだ。
「お前がここで断っても、バイト代にこの分をいれとく」
そう言われてしまい、遂にありがとうございます、と言って私はお釣りを受け取った。
それを確認するなり、柚木は立ち上がって、さっさと身支度を整える。黒いスーツに黒ネクタイ…整えた髪。あの日の男が柚木だと分かった。
柚木が鞄を持ったのを見計らって、私も立ち上がる。
「あ」
ん?と柚木が首を傾げた。
「曲がってますよ」
ネクタイが右に急旋回していた。格好が悪い。引っ張って直す。柚木は口をへの字にしたあと、笑った。
「ホント、面倒見のいいヤツだな、お前」
自分でも、少しお節介だとは思う。ヴィーナスが部屋からとことこと出て行った。それに続くように私達も部屋を後にする。ひとつ、ひとつ電気を消す柚木の後に続いた。
「ホント、サンキューな」
駅での別れ際、柚木は言った。
私達は、駅で反対方向の車線だった。
そこで別れた。柚木は人混みと影に紛れるようにして、行ってしまった。
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