18.Cerasus × yedoensis

その日、最後のお客さんは、全身真っ白で印象的だった。

「注文の品を、受け取りに来たんだが」

低い声だった。いつだったか、来店した椿という男はドスのきいた重低音だったが、この人の声は聞き取りやすかった。

「アァ、アァ、桐生さん。こっちにありますよ」

柚木が奥の保存室から、バケツいっぱいの桜を持ってきた。桜はこの辺りではとうに花が散り、青々とした葉が茂っていた。季節外れの桜は、北からどうにか仕入れたものだった。

「難しい注文を、すまんな」

柚木は入荷してから数日間、注意深く桜の枝の世話をしていた。

「葉桜や、八重でもいいんじゃないかと思ったが、お偉いさんが来るからつい意固地になってな。……お前のとこに頼んで正解だったよ」

柚木は手早く枝をまとめ、丁寧に包んだ。

精算を済ませると、桐生さんは一万円札をひらりと出して言った。いけてくれないか。俺にはそういうセンスはなくってね、と肩を竦めた。

「そんなことだろうと思って、準備してましたよ……ちょっと待って下さい」

柚木は苦笑いすると、簡単に戸締りをし、扉の札をクローズにした。片付けをしている私に柚木は行くぞ、と声をかける。

「帰り、飯奢ってやるからサ」

そう言って車のキーを取ると、桐生さんと並んで歩き始める。最近、重いもの持つと腰が痛くなっちゃうんですよ、と柚木は腰を摩る。桐生さんがそれを笑い飛ばして、そりゃお前、トシだよ!と茶化しているのが聞こえた。


ちょっと驚いたのが、桐生さんが小さい真っ白なクラシックのミニクーパーに乗っていたことだ。ここまで白にするとは…恐れ入る。

もっと驚いたのが、その可愛らしい車が霞が関のあの、警視庁に入っていったことだった。

黒いベンツやら、BMWやら、パトカーやらが止まっている中に平然とミニが停車しているのはちょっと不自然に思えた。その向かい側に止まっている柚木のカングーも。

「ちょっと、一服な」

そう言って、ミニに腰掛けながらタバコに火を着けると、桐生さんは私の持っている桜の枝が入ったバケツを見つめた。

「お前、レディーファーストだろ、持ってあげろよ」

そう言われて、柚木は確かにと頷き、悪かったナと私からバケツを受け取った。こいつは図体ががっちりしてるから、女だってことをつい忘れるんだ。…ひどい言い草である。

「あぁ、嬢ちゃん、俺は桐生って言います。こんな真っ白なナリだけどここの警察官。よろしく。」

夜の警視庁でタバコをプカプカふかせている桐生さんは、警察官だとは思えなかった。失礼だが、どっちかといえばお世話になる側のような…そんな気がした。

「これね。これ見せないと、信じてもらえないこと多くってさ」

ぱかりと開いた警察手帳には、きっちりと髪を整えてスーツにネクタイをした桐生さんが写っていた。真っ白な髪だったので見間違えようがない。手帳の下には金色の旭日章が…ふと、目に止まった。旭日章の周りを、葉桜が囲んでいる。こんなデザインは見たことがなかった。

「ウチはね、ちょっと特殊な課でね。葉桜なんだ」

桐生さんは手帳をしまいながら言った。すみません、親族に警察官がいたので…と私が言うと、どーりで気が付くワケだと桐生さんは笑った。この人の笑い方は、妙にニヒルだ。

ふと、横を見ると、柚木も一服している。

「印章も葉桜だしな」

そう柚木が言うと、ひらり、と桐生さんがコートの胸元を開いた。襟元に金色の印章があった。よく見れば、桜の花に葉が二枚添えられている。

「結構レアだから。…まぁ、俺はこの外見でめっちゃ目立つし、覚えてもらえるから大体顔パスできちゃうんだけど」

桐生さんがタバコを携帯灰皿に押し付けながら言った。それに合わせるようにして、柚木もバケツを抱え直す。

「サテ、行きますかー」

柚木が呑気な声で言った。


宣言通り、桐生さんの顔パスで警備を通り抜け、よっこいせと時々呟きながら、柚木がそれに着いていき、手持ち無沙汰な私がその柚木に続いた。

ポォーンと間の抜けたエレベーターの音がして、扉が開くと、臙脂色の絨毯が広がっている。かなりの高層階だった。飴色の木材と臙脂色の絨毯が落ち着いた雰囲気を醸し出している。

「アァ、ここね、ここ」

飴色の木の丸いテーブルに、とんでもなく大きくて立派な花瓶が置いてある。エレベーターホールに桜を飾るようだった。

このフロアに、警備をほぼザルで通過した一般人が立ち入っていいのか分からないが、柚木は飄々とバケツを床に置いて、桜を束ねていた包装と紐を解いた。

丁寧に枝と枝を分けると、柚木はガラス細工でも触るようにそっと桜を活けはじめた。桜は立派に枝を伸ばし、花を咲かせている。

「こんなもんか」

柚木がふー、と一息つくと、桜は生き生きと活けられていた。一歩、二歩下がって柚木が桜を眺めているうちに私は包装や紐を回収する。よし、と柚木が言うと壁に寄りかかっていた桐生さんがぱちぱちと拍手をした。

「どうも、どうも。春らしくてイイねぇ」

桐生さんがからりと言うと、柚木はどーも、と返した。そのまま柚木はアァ、腹減った!と言ってエレベーターに直行してしまう。

私は後ろでひらひらと手を振る桐生さんにぺこりと一礼をしてから、丁度来たエレベーターに乗り込んだ。


「桐生さんは結構偉い人だから、知っといた方がいいぞ、まじで」

柚木はハンドルをきりながら言った。

結構偉い人、柚木の曖昧な言葉を復唱する。桐生さんへの自分の振る舞いが不適当だったのは分かった。柚木はそんな偉い人に友人のように接していた訳である。柚木の交友関係は、なんというか、奇抜だった。

「サァテ、何食うかなぁー」

柚木がうきうきしながら、パーキングに車を止める。お前は何食うつもりだ?まだ、何屋に行くとも伝えないうちから柚木はそう聞いてきた。さぁ、と曖昧に返したが、柚木は聞こえていないらしく、クルクルと車のキーを指先で回しながら、鼻歌を歌っている。

小道をぐるりと進むと、料亭があった。

「女将サン!ハンバーグ!」

和風の造りには到底合わない料理名を言いながら柚木がその敷居を跨ぐと、瀟洒な日本庭園の先に、着物の女性がすらりと立っている。

「あらマ。女の子を連れて来て」

「俺んとこのバイト。夕食食べようってなったからサ」

あら、うふふと笑う女将さんは私にひらりとお辞儀をした。いらっしゃいませ。柚木は我が家のごとく上がり込んでいき、私は女将さんに連れられて部屋に案内された。庭では良く手入れされ、上品にライトアップされた遅咲きの枝垂れ桜が満開だった。

和食料亭で食べるハンバーグは、それはそれは絶品だった。

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