16.Trifolium repens
日曜日、いい天気だった。
「スミレ!」
がらがらと大きなスーツケースを引きながら、叔父が手を振った。暗めのグレーのスプリングコートにスーツ。叔父は歳をとっても、余り見た目が変わらない。けれども、叔父はあの嵐の日以来、私をヴァイオレット…ヴィーと呼ばなくなった。元々、叔母が付けたあだ名だったから、叔母を思い出すのだろうか。
「叔父さん、お帰り」
成田空港に叔父が帰ってくるのは何年ぶりだろうか。ニコニコしている叔父の後ろに、見覚えのある顔が見えて、私はどきっとした。いかにもアメリカ人らしく太ってしまったが、私はその人をよく覚えていた。
「ヤァ、スミレ!」
私が小さい時、よく家に来て遊んでくれた。フレッドは背が高くて大きくて、あまりに快活に笑うので、初対面では幼かった私は驚いて泣いてしまった。
「フレッド!」
「大きくなったネ、スミレ!」
フレッド…フレデリックは日本語が話せたので、私はすぐに仲良しになった。彼も子供が大好きで、叔父と叔母ととても仲が良く、昔はよく家に来ていたのを思い出す。
「フレッドは、横に大きくなったね」
ガハハとフレッドが笑う。
日本大使館の現地職員であるフレッドは、外交官としてアメリカに出向していた叔父とよく気が合った。確か、私がミドルに上がる頃に赴任か何かで職場を離れてしまった記憶があるが、付き合いは続いていたらしい。
「チョット、日本にバカンスだヨ」
屈託無い笑顔を浮かべる。フレッドは叔父よりも幾つか上、もう五十を過ぎたろうかという歳なのに、相変わらず笑顔が似合った。無邪気な笑顔が人懐こい印象を与える。フレッドの長所だった。
「久しぶりに、空港で待ち合わせて、飛行機に乗ってね」
誰だか咄嗟に分からなかったよ、叔父は苦笑いした。確かに、こんなに太ってしまうとは。けれども、この笑顔を見ればすぐにフレッドだと分かった。
「レイジったら、酷いんだヨ。僕をみて、こんな顔をしちゃってサ」
フレッドがしかめ面をした。叔父の癖だ。考え事をするとしかめ面になってしまう。
「僕はスグ分かったのにサ。このオールバック。忘れられないネ」
ピチィ!と変な効果音をつけながら、フレッドは自分の生え際をなぞった。フレッドの生え際は昔に比べて少し、下がったかもしれない。オールバック、その発音が余りにも良くて思わず私はけらけらと笑った。
叔父はいつも仕事の時はオールバックにしている。私の記憶がある限り、昔からオールバック一択だ。背の高い叔母と並んでも遜色ないほど背の高い叔父は、すらっとしていて姿勢が正しい。オールバックも似合った。
幼く見られるのが嫌なのだという。
新任時代、バーで身分証を提示させられたのを未だに根に持っているのだと叔母が教えてくれた。
「叔父さん、ハゲたらどうすんの」
昔、笑いながら尋ねると、叔父は真顔で言ったものだ。
「この髪型のカツラでも作るさ」
そこまで!と叔母と二人で爆笑したのを覚えている。何もかもが懐かしかった。
「叔父さんとフレッドはいつまで滞在するの?」
笑いがひとしきり鎮まってから聞いた。
「一ヶ月くらいかな、いや、もっとかも知れない。ホテルか、マンスリーでも借りるよ」
「僕タチ、二人揃って、休暇が溜まってるんだヨ」
フレッドがおどけた。
こんなに背の高い二人が悠々と暮らせるマンスリーなんか、日本にあるだろうか。私は思った。さぞ窮屈に違いない。
「レイジとコレカラ、飲み会サ」
レイジはアジア人なのに、酒はロシア人より強い。よくフレッドが言っていた。そう言うフレッドも相当な酒豪なのだが、いつもフレッドと叔父と叔母で飲みに行くと、叔父が両脇にフレッドと叔母を抱えて帰ってきていたのを思い出す。
叔母もかなり強い筈なのだが、フレッドと叔父には敵わなかった。
「シュゴウカイ、フッカツ」
酒豪会、懐かしい言葉だった。
空港を出ると、フレッドは日本のオシゴト仲間に挨拶に行かなくちゃ、とタクシーを拾って行った。私達はその大き過ぎる背中を見送る。叔父は、太り過ぎだろ、と笑っていた。
私と叔父はパーキングに止めていた車で空港をあとにする。大学の友達に借りてきた車だ。おー、久しぶりの左側通行、と叔父が感心していた。
東京に入った頃に、叔父はふと、真顔で切り出した。
「実はね、スミレ」
夕闇が迫っていた。
「あやめの死について、もう一度調べるために日本に来たんだ」
思わず、高速道路で急ブレーキを踏みそうになった。まさか、そう思った。
私は気持ちを落ち着けて、言った。
「だって、叔母さんは、撃たれて…」
叔母は捜査官だった。何を捜査していたのかはわからない。ただ、その何かの捜査中に犯人グループから撃たれ、その銃弾が心臓を貫いて死んだ。叔母が犯人グループと銃撃戦をしたことは分かっている。弾倉の銃弾は空だったからだ。
どの医療機関にもそのような人物の記録が無かった。
「あやめはね、ある麻薬を追いかけていた」
始めて聞いた。
「その麻薬は、天才科学者によって作られた偶然の産物だった。」
科学者は努力の上に奇跡を起こし得るが、得てしてその奇跡に人生を狂わされることがままある…誰かが言っていたのを思い出す。
「その研究者は結局雲隠れしてしまった。だけど、あやめの遺品を整理していたら、幾つかの情報が見つかったんだ。だから、日本に帰って来たんだよ」
叔父は相変わらず無表情だった。
叔父はただ日本に里帰りしたわけでも、観光にきたわけでもないようだ。そう判断した。叔父はアメリカ暮らしが長く、外交官の経歴も長い。それなりのツテがあるのは知っていた。そのツテに確証があるから、日本に来たのだろう。
それよりも、私は叔父が叔母の死を解明しようとしていることに驚いた。
叔母の死を私に伝えたのは叔父だ。あの嵐の日、家に飛び込んだ私に、叔父はゆっくりと、あやめが死んだと伝えた。何度も、言い聞かせた。あやめが、死んだ。銃弾を心臓に浴びて…暫くして、司法解剖から帰ってきた叔母の遺体を見ても、叔父は気を乱さなかった。
よく覚えている。
「お疲れさまです」
叔父が誰にとでもなくそう言ったのを。
無表情で、叔父はそう言った。いつもと変わらず一糸乱れぬオールバックに、喪服を来た叔父は深々とお辞儀した。叔母の同僚たちがぽつぽつと悔やみの言葉を叔父に囁いていた。
叔母の墓は日本にある。叔父の実家に入れられている。悲しみに暮れる祖母に、叔父は無表情に言った。「おかあさん、あやめを日本の神崎の墓に入れます。川崎ですから、仕事ばかりの私の代わりに、どうか見舞ってやってくれませんか」この言葉を今でも祖母はよく覚えていて、今でも玲司さんはよく出来た人だと言う。
叔父はまさにこの言葉通り、叔母の死後、黙々と仕事にのめり込んだ。家での様子は、もとから口数が少ない人だったこともあり、さして変わりはなかったが、まるで叔母の死を忘れてしまったかのように叔父は仕事中毒になった。
叔父なりの、悼み方だったのかも知れない。
それがどうして、今になって調べようと思ったのかは分からない。「大学もあるからあまり協力できないけど、また皆でご飯でも食べに行こう」と私は言った。
叔父は微笑みながら、そうだな、と笑う。お前も酒豪会に入れなくちゃな。
東京駅で叔父を降ろすと、降り際に叔父があ、と思い出したように言った。
「これな、出てきたんだ」
鞄から文庫本を取り出して叔父は言う。
ひらり、と文庫本から取り出されたのは、しおりだった。何かがラミネートされた手製のものだった。
「覚えてないか、これ」
手渡されてよく見れば、二本の色褪せたクローバーがラミネートされている。ひとつは四つ葉、ひとつは三つ葉だった。
「あやめが、お前に作ってたみたいだ」
遺品整理をしていて出てきたのだろう。
『すみれ 五才 公園』
裏には綺麗な筆記体でそう書いてある。この綺麗な筆記体は、間違いなく叔母の字だった。
茶色く色が抜けたクローバーを見つめて、私はぼんやりと思い出した。きっと、公園で四つ葉のクローバー探しをした時のものだ。結局、誰が見つけたのだったか…私だっただろうか。叔母だっただろうか。覚えていない。
「ありがとう」
有難く、今読んでいる文庫本に挟んで使うことにした。
「じゃぁ、また」
叔父が扉を閉める。
クローバー、クローバー…花屋でバイトをし始めて、花言葉を気にするようになった。アクセルを踏みながら、柚木が白詰草と言っていたのを思い出す。意外な花言葉があったはずだ。その花言葉は…ひとつ、ひとつ思い出していたが、ふと、私は顔を曇らせた。
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