12.Ranunculus asiatics

ヴィーナスがいた。

カウンターに座って、ずっと下を見ている。柚木の手元を見つめているようで、カウンターから垂れる尻尾がぱたぱたと揺れている。

まぁるく、ふっくらとしたヴィーナスの背中が可愛らしかった。ヴィーナスの種類は森の妖精と呼ばれているらしく、神様の車を引く猫だったらしい。確かに、神秘的な猫である。

「休みだからって、ここぞとばかりに青い服着やがって…」

手元を見たまま柚木が言った。

その日の私は青いワンピースだった。カウンターの側に立った私を、ヴィーナスが見上げた。ナァ…こんにちは、と言ったところだろうか。そのピンク色の鼻先を軽くくすぐって挨拶を返した。

柚木は、カウンターに花を並べてブーケを組んでいた。丸い形の花が多い。

「で、何で来たんだ?」

やっと柚木が私を見上げる。その瞬間、げぇ、と言うかのような顔をした。よほど青いワンピースが気に入らないらしい。

「ペンケースを忘れてしまって」

へぇ、と柚木はにやりと笑った。おっちょこちょいダナァ…そう言うと、カウンター下の棚から真っ青なペンケースを取り出す。「コレだろ?」青が余程嫌なのか、唯一青くない白いタグの所を摘まんでいる。まるで生ゴミでも持っているかのような扱いに、私は呆れた。

「ありがとうございます」

私はそれを受け取る。柚木は何でふでばこまで青なんだよ…と愚痴った。

私はペンケースの中を開けて確認した。

「失礼だな、何も盗ってねぇよ」

柚木は言った。私は大切な物が入っていたから確認したのだ。

私が緑色の万年筆を取り出して、ほっと一息つく。すると、じっと万年筆を見ている柚木の視線に気が付いた。

「それ…」

柚木が眼鏡をかけた。柚木は乱視用の眼鏡が手放せない。

「何か?」

私が柚木に万年筆を渡す。柚木は万年筆をじっと見た。そして、私に万年筆を返す。

「いい万年筆だな。それ、高いから大事にしろよ」

にやりと言った柚木に私はむすっとして、万年筆をペンケースにしまった。

万年筆は確か、叔母から譲ってもらったものだ。余り書き物をしなかった叔母が大切にしていたものである。ずっしりと重いが、書きごこちはいい。神崎のイニシャルであるKが優雅に金字で刻印されていた。この万年筆を私は大切な書類や署名に使っている。何度も手入れをして使っている、思い入れのある万年筆だった。

「アッ、こら」

ヴィーナスが花の葉っぱで遊んでいる。

ひらひらとした葉っぱが面白いようだった。

怒られると、ヴィーナスは軽やかにカウンターから降りて、奥に逃げてしまった。

「ラナンキュラス…ですよね?」

私が言うと、柚木は頷いた。

卒業式に貰った花だったので良く覚えている。バラのような花が咲く。

「この葉っぱさ、変わってるだろ」

柚木がカウンターの隅に片付けられていた葉っぱを一枚、取った。ヴィーナスがじゃれていた葉っぱと同じ形をしている。

「カエルの手足に似てるだろ。ラテン語でカエル、ラナがついてるのはそれが由来なんだと」

柚木がぺたぺたと四枚、同じ方向に葉っぱを置いた。なるほど、確かにカエルの足跡に見えた。

「これはキンポウゲ、ラナンキュラス、アネモネ…全部おんなじ仲間だ」

確かに、言われてみれば特徴的な縮れた葉や、まるい花の形はどの花にも共通していた。

「花は綺麗なのにな」

柚木は笑った。

花は?私は思わず、聞き返してしまう。柚木は言った。

「花がどんなに可愛らしくて、綺麗でも、とんでもない毒を持っていることだってある」

どういうことだろう。キンポウゲは猛毒を持っているのだろうか。

「例えば、キンポウゲの仲間にはかの有名なトリカブトがある。この花を食べたら人間だったら、ハライタくらいだが、小さな動物は死んでしまうかもしれない」

柚木の表情に、翳りがみえたのは気のせいだろうか。

「……キレイな花には毒があるッテこったな」

柚木はそういうなり、手早く手元の花で数個のブーケを作った。私も思い出したようにペンケースを鞄にしまう。

柚木はブーケをガラスの容器に飾って、値札を立てた。

「花には、毒がある。ねぇ…」

柚木は大きく溜め息をついた。その溜め息が、ひらひらとラナンキュラスの花びらを踊らせた。

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