11.Argyranthemum frutescens

店の前に、真っ白な猫が座っている。

首には真っ青なリボン。

よく手入れされた長毛のネコで、緑色の目が光っていた。店先にいる野良猫にしては上品で、すこし不思議な光景だった。

「お、ヴィーナス」

柚木が言うと、ナァとネコは返事をした。私と柚木はコンビニから帰ってきたところだった。

「久しぶりだなぁ、どこ行ってたんだ」

ヴィーナス、と呼ばれたネコは優雅にこちらに歩いてきて、柚木の足元にすり寄った。柚木はしゃがんで三角形の頭を撫でている。

「こいつは、神崎な。神崎すみれ。ここのバイトな。」

そう柚木が言った言葉を理解しているかのように、ヴィーナスは私にすり寄った。

柚木はスタスタと裏口に向かっている。私とヴィーナスはそれに続いた。ヴィーナスは勝手知ったると言ったところで、するりと一段高いダイニングに飛び乗ると、毛づくろいを始めた。

柚木はヴィーナスの首のリボンについている筒のようなものを取った。

「ヴィーナスはな、伝書ネコだ」

伝書ネコ、聞いたことがない。それは野良猫というのではないだろうか。そう思って見ると、真っ白な毛並みに汚れはなく、つやつやしている。誰かに大事に手入れされ、飼われているのは明白だった。

「ヴィーナス、上に行ってな」

この利口なネコは、柚木の言葉を理解しているようだった。ナァン、と返事をすると、ダイニングの奥に消えていく。

「柚木さんが、飼ってるんですか?」

柚木は難しい顔をした。半々かな、その返事の意味がわからない。

「あいつ、二階で飼ってるんだけどさ、何だかわからんけど外に出ちまうんだよ。たまに変な手紙を貰ってくるから、伝書ネコ。」

二階に自力で戻れないのにナ、柚木は笑った。

変な手紙って、とツッコミたくなったが、柚木はどこ吹く風で手紙を広げている。

柚木は店にかかっているカレンダーの二十三日に赤いサインペンで丸をした。ふーん、と言いながら、ダイニングにあるパソコンの画面に手紙を貼り付ける。

「賢いネコですね」

柚木は笑った。

「譲って貰ったんだ。イヌみたいな奴でサ、走るのもドタドタしてて鈍臭いんだよな」

柚木のパソコンには、いつも何枚もの紙が貼ってある。それに、カレンダーの丸印。都内一戸建てを借りながら、柚木の年で花屋の営業だけで生活してるとは思えないから、何か副業でもしているのだろう。


私が夕方、店番をしていると、ガラス扉のむこうにぼんやりと白いものが見える。ナァン、と鳴いているところからすると、ヴィーナスに違いなかった。

柚木は奥でパソコンに向かって作業をしていて、気がつかないようである。

私が立ち上がって、扉を開けると、予想通りヴィーナスがいる。いつの間にか二階から脱走して帰ってきたらしい。

ヴィーナスは大人しく店先にちょこんと座っていた。隣には季節のマーガレットの植木鉢。

夕方の涼しい風にマーガレットの白い花が揺れていた。

ヴィーナスもその風を楽しむかのように、うっとりと目を閉じている。立派な白いひげが風にそよいでいた。風が気持ちいのか、ヴィーナスもごろごろと喉をならしている。

しゃがみこんで喉元を指先でくすぐってやると、ヴィーナスは私の手に頭をするりと寄せた。指先からごろごろと喉のふるえが伝わってくる。

「また脱走しやがって」

上から柚木の声がした。

ナー、と鳴きながらヴィーナスは店内に入っていく。

「アイツ…」

私と柚木は優雅に店内を闊歩するヴィーナスを見つめていたが、ふと目の前に気配を感じて振り返った。

「……」

真っ黒な学生服の青年が立っている。彼は、表情一つ動かさずに目だけ動かして私を見た。その目は何も感じられず、無感情で、深い深い黒だった。

真っ黒な髪に、やけに白い肌。少し不気味な青年だった。学生服を着てはいるが、表情に幼さが全くない。彼の表情には、本当に何も無かった。

「随分と、楽しそうですね」

彼は柚木の背中にそう言った。柚木が振り返る。青年の姿を確認すると、柚木はポケットから紙を取り出した。

「これな」

青年は、口元だけでにっこりと笑った。本当に嬉しくて笑ったのか、社交辞令で笑ったのか、それともまた別の意味で笑ったのか分からなかった。笑うべき場面だから筋肉を動かして笑顔を作ったような感情のない笑顔だった。

その紙は何度も折り畳んであって、それを柚木は彼の手のひらに置いた。手のひらの上にはハンカチが広げられている。彼はその紙をハンカチを介して器用に広げると、中身を確認してまた閉じた。

そのままハンカチに包んで紙を、学生鞄にしまった。

「これを、どうぞ」

そのまま学生鞄から、青年は分厚いファイルを取り出した。緑色のファイルだ。

「指示された所は、消しておきましたから」

青年がばちん、と学生鞄を閉じる。

「結果は、少し経てばわかるでしょう。」

そう言うと、店先から立ち去った。

彼は、夕方の住宅街の影に溶け込むようにして消えてしまった。

柚木を見れば、ファイルを見ながら店に入っていくところだった。

奥からナァン、とヴィーナスの鳴き声がする。

夕闇に、電柱の漆黒の影が暗く影を落としていた。その影は路地に真横に横たわり、まるで真っ黒な梯子のようだった。ふと、街灯が点灯し、漆黒の梯子は消えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る