9.Muscari neglectum
「こんにちは」
背の高い、スーツ姿の男の人だった。切れ長の目が印象的だ。
扉の向こうに、黒い高級車が止まっているのが見える。
「柚木さんは?」
私がおもむろにカウンターの向こうに視線を向けると、彼は私の肩越しに奥を覗き込んだ。ダイニングのソファに横になったきり、ぴくりとも動かない柚木の足が見える。
「休憩中です」
私が声を潜めて言うと、男の人はそのようですね、と同じようにひそひそ声で言った。
その日の柚木は調子が悪そうだった。私が昼過ぎに来るなり、帰る時に起こしてくれと言って倒れるようにソファに横になってから、ぴくりとも動かない。
「あの、私、九頭見と申します」
ひそひそと、九頭見さんは言いながら私に名刺を渡す。名刺には金色の蝶のロゴが箔押しされていた。
株式会社ファルファッラ、代表取締役補佐、九頭見勍一郎。社長つきの秘書ということらしい。
「依頼があって来たのですが…おつかれのようで……また今度にしましょうかね…」
うーん、と九頭見さんは困ったように言った。
「あの野郎、疲れて寝てやがんのか」
急に九頭見さんの後ろからした、やけにドスの効いた声に私は思わずビクリとした。耳の奥に響くような、重い低音だった。
「椿…」
唐突に九頭見さんの口から出た花の名前。どうやら、後ろの男の名前のようだった。
九頭見さんが振り返ると、男が硝子戸を開けて、気怠そうに立っているのが見えた。
驚くほど美貌の男だった。一度見たら、忘れられない。やけに目力の強い男で、中世的な見た目とやけに低い声が不釣り合いだった。苗字か名前かわからないが、椿という名前は良く似合っている。
「…ったく、仕方ねぇなぁ」
そう言うと、椿は名刺を取り出して、その裏に何か書いた。
ともすれば物騒にも聞こえる低い声と、その甘い美貌とのギャップが衝撃的だった。けれども違和感はなく、なんというか、ものすごく濃く入れたエスプレッソを角砂糖を浸して飲むような…そんな、妙な味があった。
「ほら、あいつに渡しとけ」
椿は私の前に名刺を置いた。
株式会社ファルファッラ、代表取締役…椿香……えっ、と驚いた私に九頭見さんが苦笑いで答えた。椿はとうに店の外に出ている。
「よろしくお願いします。」
綺麗にお辞儀すると、九頭見さんも椿に続く。
ひらりと名刺が扉からの風でカウンターから落ちた。裏には、「ムスカリ」とそれだけ、達筆に書いてあった。
その日は客も少なく、難しい注文もなかった。そのおかげで柚木を起こさずにいられたが、柚木はぴくりとも動かずにこんこんと寝ていた。
閉店作業が一通りおわっても柚木は起きない。でも起こさなくてはならないと思って困っていた時、柚木がふと、言った。
『トウコ…まだ…すまない、まだなんだ…』
英語だった。ラテン訛りのある、少し甘ったるい英語。
数分後、柚木は飛び起きると、どこかに電話し始めた。『あいつは日本にいるのは確かなんだ、そのために帰ってきたのに…』そこまで話して、柚木は私の存在に気付いたようだった。
『すまない、あとでかけ直す』
そう言って電話を切った。
「お前のこと、忘れてたわ…今日は迷惑かけたな」
私が名刺を渡すと、柚木は名刺を迷わずにひっくり返した。そこに書いてあった花の名前を見て、露骨に嫌そうな顔をしたあと、大きく溜め息をついた。
『俺もお前と似てるんだ』
柚木がそう英語で呟いたのを私は聞いた。
それも、流暢な英語で。柚木も私が聞き取ったのが分かったようで、俺も育ったのはアメリカだよ、と言った。
『俺は、イタリア人とドイツ人の先生に英語を教えてもらったんだけど、そしたらすっかりラテン訛りとドイツ訛りの混ざった妙な喋り方になっちまった』
それは、柚木の日本語にも出ていた。滑舌のいい、独特の喋り方。合点がいった。
柚木は店内を見渡すと、頷いた。
「よし、帰っていいぞ。……今日は本当、助かった」
まだクマの残る、寝不足の顔で柚木はそう言って、店内の電気を消した。私が帰りの支度をしている後ろで、柚木はパソコンの電源を入れていた。
私がお疲れ様です、と言うと、柚木は大きな伸びをしながら、苦笑いを浮かべ、じゃぁな、と返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます