6.Tulipa gesneriana
『ヴィー…アヤメが、アヤメが…』
ひどい嵐だった。
その日、私を高校の玄関で待っていたのは、ずぶ濡れになった金髪の青年だった。小さな頃からよく遊んで貰っていたのだが、名前が思い出せない。
スーツを着て、頭からつま先までぐしょ濡れの彼は、開口一番、叔母の名前を叫んだ。
『あぁ…すまない、すまない……家に送ろう』
そう言って、私を車に乗せると、彼はぐしょ濡れのまま運転席に座った。その日は強風と大雨で、傘なんか役に立たなかった。それでも、私が濡れていなかったのはなんでだっただろう。私は後部座席に座ると、被っていたコートを隣に置いた。…そうだ、彼が私にコートを貸してくれたのだ。私の靴の中だけが川をそのまま歩いたみたいにぐしょ濡れだった。そうだ、彼のコートを被ったから濡れなかったのだ。
私がぼんやりしている間、彼は車のキーを差し込むのに躍起になっていた。手が震えてキーが差し込めないのだ。明らかな動揺に私は驚いた。
『どうしたの』
私の言葉に彼ははっ、とした。
金髪から霰のようにぱらぱらと雨の雫が落ちている。一瞬、ぼぅっとした後、彼は今度こそ鍵を入れるのに成功し、エンジンをかけた。
『ウチに送ろう』
ぼんやりと彼は言った。横なぐりの雨が窓ガラスを叩き、道を白く烟らせていた。
…彼をなんと呼んでいたか、思い出せない。
彼は私の家の真正面に車を止めた。
『またそれを被れば、濡れなくて済む』
彼はそう言って、私にもう一度コートを貸した。エンジンはかかったままだった。ワイパーがフロントガラスを行ったり来たりしている。それも意味を成さないくらい、雨が降っていた。
『叔父さんの言うことをよく聞きなさい。』
彼はそう私に伝えた。
金髪からこぼれる雫が顔に落ちて、まるで彼が泣いているようにも見えた。
『僕には、今すぐしなくちゃならないことがある。…そのコートは貸すよ』
彼は言った。何だか今生の別れのように彼が言うので、私は思わず彼をじっと見た。彼も私を見て、それから頷いた。
『…またね』
そう言った私に、彼ははっきりと言った。
『さようなら』
その言葉に何も返せなくて、私は思わず苦笑いをしてしまった。彼はそんな私に無表情に頷いた。
玄関の、赤いチューリップが倒れていた。
花びらが地面に散らばっていた。
真っ赤な色が、べったりと、地面に広がっていた。
叔母が植えた、チューリップだった。昨日から花が咲き始めて、叔母はさいた、さいたと嬉しそうに言っていた。
私はそれをぼんやり見ていた。
べったりとした赤が不吉に、雨に濡れて、ぬらぬらと広がっていて…
『ヴィー…』
玄関のドアが空いている。
叔父が隙間から私を呼んでいる。
振り返れば、もう車は走り去っていた。
…彼をなんと呼んでいたか、思い出せない。
そんな夢を、嵐の夜に見る。
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