3.Freesia refracta
「フリージアは、無いですか」
セーラー服の女学生が、ひとり店を訪れた。紺色の冬服を着ている。
柚木はちらりとケースを覗く。何かを確認すると、椅子から立ち上がってケースを開けた。
「幾つ、必要ですか」
女学生は千円札を一枚握りしめていた。
その日は寒い日だったので、ぎゅっと握って冷たくなった手が白くなっていた。寒さにさらされた頬が真っ赤に上気していた。
「これで、出来るだけ…」
彼女がそう言うと、柚木は黒いバケツを見回してそこから何本か揺れるその花を手に取った。
「白、黄色、赤、紫…白にしますか」
少女ははっ、として何度も頷いた。はい、白です、白です…何度も言った。柚木はひとつ頷いて、手早く白いフリージアを十本手に取った。千円には少し多いようだったが、柚木は構わず、丁寧に花を組むと、少女に花を向けた。
「いかがでしょう」
白い花が揺れた。少女は泣きそうな顔をして頷いた。その顔を覗き込むようにして見ると、柚木はバケツの中の白いフリージアを全て手に取った。
小首を傾げ、少し悩むようにすると、三〇本の真っ白なフリージアを傷ついた花びらはないか、確認するためにじっと眺めた。
柚木は踵を返し、はさみで丁寧に茎の先を整え、綺麗に組んでから残っていた葉を落とした。それをセロファンでそっとくるみ、補水をして、袋に入れて渡した。
「千円になります」
少女は花束の中に少し顔を入れて、深く深呼吸した。うっとりと笑うと、柚木の広げた手に少しくしゃっとなった千円札を置いた。すぐに柚木がレシートを渡すと、少女はお礼と、深々とお辞儀をして出て行った。
「ありがとうございました」
私は呆然とそれだけ言った。
柚木はそんな私に、仕事をしろと言い、足元に広がる茎や葉っぱの切れ端を指差した。柚木はそれだけ言うと、またカウンターに戻って、定位置で読みかけのまま伏せてあった文庫本を読み始める。
「……」
私が黙っていると、柚木が本から視線を上げた。私の沈黙の意味を察したらしい。
「…白い孔雀みたいだったろ」
はにかむように笑うと、柚木はそう言った。
白い孔雀?そう言われて、さっきの花束を思い出した。上手く組んだフリージアの花房が、美しく並んで揺れ、いい香りをふりまいていた。それを、柚木は白い孔雀のようだと比喩しているのだ。
ぶっきらぼうで愛想がないのに、独特の比喩を使う。カサブランカをウェディングドレスと言ったり、この男は以外とロマンチストなのかもしれない。
「たしかに。」
私は優雅に揺れる白い花を思い出した。柚木は思い出したように文庫本をカウンターに置いて立ち上がり、さっき空になったバケツを手に取った。
「ここにさ、孫連れてよく来るバァさんが居たんだよ。」
そのまま、排水溝に向かって中の水を流す。
ザァ、と水は排水溝を勢い良く流れていく。
「そのバァさんちにさ、数年前かな、注文があって花を届けたんだわ。その時にバァさんちの庭にそりゃもう見事に白いフリージアが咲いててさぁ、こりゃ白孔雀の大群だわと圧倒されたんだよなぁ」
柚木はそう呟きながら、バケツを洗う。
私はさっき指差された切れ端をほうきで集め始めた。
「いゃァ、立派なフリージアですね、フリージアがお好きな理由がわかりましたよ、って言ったらさバァさん嬉しそうに笑ったんだわ…香りが好きなんです、ッテね。いつもいつも季節になるとフリージア買ってくからナンだろうと思ってたけど、熱心な愛好家だったってコトだ」
裏手にバケツを片付け、またカウンターに座って本を取ると、柚木はまた文字を掻き集め始めた。
「……その方のお孫さんが、さっきの女の子なんですね」
「そゆこと」
柚木がゆっくりとページをめくる。
「それに、微かに線香の匂いがした」
柚木は、もうそれきり何も喋らなかった。
少女のセーラー服のリボンは白だった。
私は、柚木が言わんとしていることを察した。
数日後の霧雨の日。暖かい日だった。やっと訪れた暖かい春の雨が朝から途切れ途切れにしとしとと降っていた。
喪服を来た女性がゆったりとした所作で店内に入ってきた。少し疲れた顔をしている。
「いらっしゃいませ」
私が声をかけると、女性はこちらを向いた。控えめな香りの香水と、お香の香りの混ざった香りがした。
柚木もそれに気が付いたようで、カウンターから身を乗り出してこちらを覗く気配がする。
「あの」
女性はカウンター周りの白い花を見た。
「葬儀用のお花、明後日までに用意して頂けないでしょうか」
ふと見上げると、いつの間にか柚木が私の真後ろに立っていた。女性の視線に合わせるようにして、身体を屈めている。手にはメモがあった。
「出来ますよ。明後日の、午前中にお届けでよろしいでしょうか?」
女性は頷いた。
柚木は端的に質問を重ね、それを几帳面な字でメモに書いて行った。私はその様子を見ながら、バケツの中の値札を付け直していた。
「白いフリージアをお入れしましょうか?」
そう柚木がそっと言った途端、女性はお願いします、と泣き崩れた。そして涙を流したまま、ハンドバッグから茶封筒を取り出し、柚木の前に差し出した。
「これ、娘がこちらで花束を作って貰ったんですが……千円じゃ、ないと思うので……残りの代金です。」
柚木は言った。
「千円が正規の値段ですよ」
それでも、女性が封筒を引っ込めないで泣いているので、柚木は封筒を手に取った。
「では、今回の代金から差し引かせて頂きますね」
柚木は確認するように言うと、注文の花の大体の値段を告げた。それを聞くと、よろしくお願いしますと言いながら、女性は丁寧にひとつ礼をして店を後にした。
柚木はメモを破って、カウンター裏の壁に貼り、カレンダーにメモをすると、ぼそりと言った。
「アァ、ナンだったかしら、大好きなのに、ナンだったかしらって言ってたんだよなァ」
その口調は明らかにおばあさんのものだった。私は耳を傾ける。
「バスケットにさ、球根が入ってたんだよ。そこの写真見ながら、バァさんはナンだったかしらッテ言ってたんだよ。下に書いてあんのにサ」
光景が思い浮かんだ。きっと、老眼かなにかでわからなかったのかもしれない。
「あんまりに真剣に悩んでるからサ、声もかけずにソッとしといた訳。しばらくしたら、あぁフリージヤだわ、って思い出せたんだよなァ…球根を手に取って、アラヤダ、フリージアねって。それで色んな色のフリージアの球根、山ほど買って行ったんだよ」
フリージアの茎は細く繊細だが、その花からは独特の香りがする。滑らかな花びらで構成された花が、ハープのように均等に並ぶ。
「ちょっと前の話な」
柚木が妙に饒舌に、人間らしく話をしたので、私はすっかり聞き入っていた。若者らしくない、少し下町のおじさんのような舌のよく回る喋り方だった。
「バァさんは、ちゃんとあの球根植えたのかねぇ」
ふと、春の雨にうたれるフリージアの花を想像してみる。花の中に吸い込まれて行く小雨の雫は、その移り香がほのかにするような気がした。小雨に揺れるフリージアの花々が、さぁさぁと降る雨のベールの中で、優雅に揺れて踊っていた。
柚木はカサブランカやラン、グリーンを上手く使い、大振りの花束を作った。ふんだんに使われた白いフリージアがいい香りをふりまきながら、かすみ草と一緒にレースのように花束を飾っていた。美しい白い花束だった。
「一緒に来るか?」
柚木は一対の片方の花束を私の方へ向けながら言った。
この花束を届けに行くのだ。私は頷いた。
柚木は扉に鍵をかける。
私たちは白い花束を抱えながら、住宅街を歩き始めた。耳元で揺れるフリージアが、ほのかに香る。
柚木は迷いなく、私の前を歩いていく。
ふと、その歩みが止まった。
前原、と書かれた表札がかかっている大きな一軒家の前で柚木はメモを確認し、インターホンを鳴らした。
「おはようございます、青木青花店の柚木と申します。ご注文の花束をお届けに参りました」
高い電子音の後に、扉が解錠された。
柚木は入り口のスロープを数歩で登ると、私を振り返って人差し指を唇に当てた。静かに、ということらしい。その指を、今度は右側に向けた。その方を私が覗き込むと、春の風に揺れる、無数の黄色や、白、ピンクや紫…様々な色のフリージアが庭の大きな花壇を埋めつくしていた。花々はまだ、開き始めのようで、一つ目か二つ目の花が競うように咲いている。
花壇の端には、使い古された緑色のスコップが刺さっていた。
風がこちらへ吹き始める。
お香とフリージアの香りの中、花壇の側へしゃがんでスコップを持ちながら、嬉しそうに笑っている老婆がそこにいたような気がした。
フリージアは、レースのように可憐に地面を覆い尽くし、優しく揺れていた。
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