第34話 手紙

 20分以上走った後に、足を止める。夕方近いとはいえ、真夏だ。汗が滝のように噴き出してくる。


 1週間ぶりに、雪乃さんのマンションに入った。


 エントランスにて、彼女の部屋の番号を入力して、呼び出すも反応はない。

 まだ、学校から帰ってないみたいだ。


 弱ったなと思ったが。


(そういえば、鍵を返し忘れてたんだった)


 鍵穴に鍵を差し込む。オートロックが解除され、涼しい風が流れてきた。エアコンが神にしか思えない。


 エレベータで彼女が暮らす階へ移動する。降りたとたんに、セミの合唱が聞こえた。


 玄関前で再びチャイムを鳴らす。出ない。


(ここで待ってようか)


 数分後、ドアの開く音がした。

 小さい女児を連れた主婦が僕の方へ近づいてくる。僕をジロジロ見ながら。


 思わず会釈をする。

 主婦はそそくさと僕の横を通りすぎ、エレベータに乗り込んだ。


(不審者扱いされてる?)


 仕方がない。雪乃さんの部屋で待たせてもらおう。

 鍵を開け、玄関に入る。


 1週間しか空けていないのに、雪乃さんの家が懐かしい。

 気づけば、ここで暮らし始めてから2ヶ月が経っていた。


 リビングのエアコンをつけ、テーブルにつく。

 そのとき、テーブルの上に便せんがあるのに気づいた。


『翔琉くんへ』


 僕宛だった。


 妙な胸騒ぎがする。

 自分宛とはいえ、本人の許可を取らずに開けるのは気が引ける。


 迷ったすえに、読むことにした。

 雪乃さんの帰りが遅くて、心配になったからだ。


『あなたがこの手紙を読んでいるということは、私はもう遠い場所に行っているでしょう』

「えっ?」


 いろんな意味で驚いてしまった。


「ここでネタに走るとは?」


 古いドラマなどで頻繁に使われ、現代ではネタと化した表現。

 書いた人の死後に読まれるのが定番で。


 かりに、明日花の手によるものだったら、笑い飛ばしていただろう。


「雪乃さん、シャレにならないんだけど」


 手紙を持つ指が小刻みに震えてしまう。

 最悪の事態を想像し、古傷が強く痛み出す。


 の人だったら、『この程度で早まった行動はしない』と思うかもしれない。


 けれど、雪乃さんには前科がある。


 一度、死を考えた人間にとっては、ちょっとした出来事でも致命傷になってしまう。

 たとえば、リスカを経験した人は、少しでも不安があるとリスカをするケースもあるという。


「僕は知っていたのに……」


 父が死ぬ直前、手を振りほどいたのと同じように、僕は雪乃さんから離れてしまった。


(僕、最低すぎるじゃん)


 心が自分を責めるが、すぐに思いとどまった。

 悲観しても時間の無駄だから。


 いまは少しでも情報を集めないと。


 深呼吸してから手紙の続きに目を通し始めた。


『あたしが余計なことを聞いたばかりに、翔琉くんを傷つけてしまい、すいません』


 ボールペンで書かれた手書きの文字。雪乃さんらしく端正で、読みやすい。


(雪乃さんが謝ることじゃないのに)


『ただでさえ、あたしは翔琉くんに甘えてばかり。お風呂にも付き合ってもらったり、添い寝してもらったり。パパとの思い出に浸りたいなんてワガママに振り回して、ごめんなさい。愛想を尽かしても当然だよね』


(むしろ、ご褒美なんですけど)


「雪乃さん、自分のせいにしすぎ」


 笑って済ませられればいいんだけど。

 雪乃さんが持つ思考のバグは、命をも奪う可能性があって。


「もう僕は雪乃さんの手を離さないんだから」


 危なっかしくてたまらない。


『しかも、あたし学校だと本当の自分を出せないし、かといって配信中は演技だし。本当の自分がよくわからないんだ。意味不明なキャラで、あたし変な子でしょ?』

「そんなことない。最高の推しなんだぞ」

『翔琉くん、あたし気づいたの』

「なにに?」


 気づけば、手紙と会話していた。

 雪乃さんと話すつもりで。


『夢は失ってから、そこにあったものだと認識するって』

「……そうかもな」


 雪乃さんに夢を持ってほしかった僕。

 結局、夢とはなにかがわからずじまいで、こうなってから僕も気づいた。


(いや、まだ失ってない!)


『あたし、ダメな子だけど、翔琉くんが見つけてくれるなら――』


 文字が震えていた。


『ううん、なんでもない』


 彼女のはかない微笑が脳裏に浮かぶ。


『翔琉くん、短い間だったけど、ありがとう』


 そこで手紙は終わっていた。


 僕は手紙をカバンに突っ込むと、雪乃さんの家を飛び出す。

 エレベータは1階にあった。

 待っている時間がもどかしいが、焦っても良いことはない。


 景色を眺める。太陽が雲を朱に染めていた。

 到着したエレベータに乗り込む。


 狭い室内で、僕は思考を巡らしていた。

 雪乃さんは僕が見つけるのを待っている。


(どこにいるんだ?)


「あっ!」


 叫んでしまった。エレベータが無人で助かった。


 マンションを出ると、その場所に向かって全力で駆け出す。


 川に近づくと、風が強くなる。涼しい風は火照った体に優しい。

 太陽が川に注ぎ、水面が揺れている。


 橋を駆ける。

 幻想的な風景のもと――。


 彼女の銀髪が映えていた。

 彼女は欄干に手をつき、下を眺めている。


「雪乃さん!」


 僕は大声で叫ぶ。

 彼女が振り向く。


 僕は彼女の一歩手前で足を止めると。


「もう離さないから」


 タックルの要領で、彼女の腰に抱きついた。

 安全を確保するためと、僕が雪乃さんに触れていたいから。


「翔琉くん、あの日みたいだね」


 クールな彼女の微笑に、僕は安堵した。

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