Diaboli Iustitia et Amor

神無(シンム)

零章 悪魔が生まれた日

深紅の降誕祭――クリムゾン・クリスマス


 白。白。白。視界に広がる白い色は冷たく凍える温度で人々や家々を包んでいく。


 世界のすべてを包み込み、あたかも世界そのものであるかのように在る白は冬の厳しい寒さの中でだけ在れる儚きものであった。圧巻とせし存在感でありながら、少し暖かみが世界に溢れれば消えてしまう。それこそはじめからなにもなかったかのように……。


 雪。それは一部の地域を除き、世界のほとんどに共通の季節限定の光景であってその季節を象徴するモノであるともされる。ここ欧州、と世界に呼ばれる地域にも期間限定で降って時に積もり、雪搔き、という季節限定の労働すら強いる雪が降るある日のこと。


 年の瀬も迫るがその前にこどもたちが楽しみにする季節行事、降誕祭がある。イエス・キリストが降誕した特別な日、というよりもどちらかというと両親、サンタさんから特別にプレゼントがもらえる日、というのがこどもたちの多くが抱く認識だったりする。


 もちろん、信仰心深き心できちんとお祝いに挑むコもいるが、少数かもしれない。


 日常だったら並ばない手の込んだご馳走やらケーキが食卓を唸らせ、食事のあとにはプレゼントがもらえるのでこの日ばかりはどんな悪戯っ子もいいコにしていたりする。


 でも、そんな平穏から弾かれるように在る者もいる。……このコも、そのひとり。


 淡き白い華が空から降り、積もっていく。幻想的でとても平和で優しく不穏の影も形もない筈の世界。国。町の片隅のそのまた奥に雪以外の色をぶちまけた場所があった。


 暗い路地裏の一角。小さな煙突が目印になる一軒の家。元は空き家だったが、そこに無断で暮らす者たちがいた。近所とはいえ十数キロ離れた場所にいかねば民家や公園もない本当に寂れて人気のないここは数年も空き家だった。このコたちが住むまでは……。


「レ、ン……?」


 ひそやかに、ささやかに、であれ確実に生活のにおいがただようそこにある異常。


 開け放たれた扉の奥。室内にはテーブル。上に余所の家に負けないくらい豪勢なご馳走が並べられている。七面鳥やスープ。サラダに焼き立てと思しきパン数種。目にも鮮やかな苺や手づくりのクッキーと生クリームでデコレーションされたクリスマスケーキ。


 奥には薪をくべて焚く暖炉や心ばかりの家具が配されている。ふたり掛け長椅子がひとつ。足の長い椅子が二脚、ダイニングテーブルのそばに置かれ、ふたり暮らしであるのがわかる。一般家庭と同じようもみの木を置き、オーナメントで彩り飾りつけている。


 だけど、ここで暮らす誰かが一生懸命つくったのであろうご馳走のにおいは皆無。一帯に濃い潮と鉄、硝煙の臭気が立ち込めてただよっている。勝手に誰かたちが住んでいる空き家の前に凄惨な地獄絵が広がり上塗りされていた。清き純白の雪を上塗るのは緋。


 鮮烈な緋色――血の赤は黒っぽい色へと変色していっていてまかれてある程度の時間が経過しているのを告げている。路地裏の黒い道に積もった白い筈の雪は血染めとなり、温度で溶けている。それもひとりやそこいらの出血ではない。複数人分の血が流れた。


 惨劇の場と呼ぶに相応しい路地裏で動いて声を零すただ、ひとりっきりのこども。


 親が近くにいる様子もなく、偶然そこに足を踏み入れた雰囲気でもない。ぽつぽつ、と水のような音。路地にひとり、ぽつねんと立ち尽くしているこどもから聞こえる音。


 こどもの病的なほど白い、細い指の先から赤い血がぽつ、ぽつりと滴っていく。血の源はそのコの肩にあった。右の肩がひどく爆ぜていた。血柘榴となったそこから血が噴きだしている。なのに、そのコは自らの重傷であり、銃傷にまるで興味を持っていない。


 他のことに気を取られている。そのコの見つめる先にあるナニカ。ナニカは小さなひとの姿をしている。赤い雪の上に横たわるのもまたこどもだった。肩から出血するこどもが見据える先はそのコの胸。薄い胸の上に開いた大穴。爆ぜた、銃が負わせる致命傷。


「はあ、あ、ぐ……、レ、レン……っ」


 声。右肩爆ぜしこどもの呼びかける細い声。荒い息がこどもの負った重傷が生む激痛を物語っている。だが、それ以上にそのこどもは誰かを呼ぶことに注力する。一生懸命呼びかけているのに、そんな声に返事はない。こどもの血で汚れた頬に涙が伝っていく。


 待てど返ってこない声を求めるように歩きだす。傷が痛むだろうに、厭わず。頬を濡らす涙も激痛が故のものではない。無慈悲な現実を直視しているのにしたくなくて泣いているそのコは左手で肩を庇い、ゆっくり歩を進めて赤黒い雪に転がるこどもに近づく。


「レン、起きて……ねえ、もう、あいついないよ? 私だけだよ。サイだけだから、大丈夫だから起きて。起きてよッ。ねえ、お願い。お願い。お願い……っ、レンってば」


 こどものか細い声が必死で呼びかける。レン、という名の誰かを呼び続ける。はいない。だから大丈夫だ、とまるでつい先ほどまで恐ろしいナニカがいたかのよう。


 だが、必死の声に応える者はおろか声も、小さな音ひとつすらもない。孤独。ひとりぼっちでレンを呼ぶこどもが雪の上のこどものすぐそばに膝をつく。右肩を押さえていた血まみれの左手で地面に転がるこどもの頬に触れる。冷たい。雪のようで氷のように。


 その事実が示す圧倒的現実を理解したのか、こどもが銀色の右目を見開き、黒い髪を振る。もとい頭を左右に振っていやいやをし、拒否するように雪の上のこどもを強めに揺さぶった。だが、そのコは揺らされるまま揺れ動き、他に動くことは、一切なかった。


 死。こどもの脳裏にそんな一文字が浮かんだ。サイ、と自らを呼んだこどもはレンを見ている。穴が開くほどに。見つめている。まるで息を吹き返すのを待つように……。


 だけれども、そのコが、レンが起きないこと。息をしないこと。動かないこと。音を発することがないことは、そのコ――サイが一番よく理解していた。ただ、拒みたい。


 だって、信じられない。信じたくない、と思っているのがサイの銀の隻眼にありありとうつしだされていた。片目に包帯を巻いているサイは溢れでる涙を拭いもせず、ただ呆然とレンの死を見つめ続けている。そして、レンのそばにある黒いナニカを一瞥する。


 銃だ。一般に、警察にも流通しているモデルのモノでやや小型であれ、殺傷力は銃に相応しい威力を持つ。路地裏のこどもたちを殺傷した得物であり、同時に救った得物。


 サイの手が伸びて銃に触れる。触れてそのまま流れるように見やった先にある大きな体がひとつ。痩せているサイに比べると大きすぎるが一般的で普通の成人男性だった。


 男もまた動かない。血の海に沈んでいる男の目にある無念。憎しみ。嫌悪。そして……嘲笑。まるで、生き残ったサイを嘲るかのような、そういう目で死んでいる男のそばにも銃が落ちている。双方に銃が一丁ずつ。推理などせずとも殺しあった情景が浮かぶ。


 大の男がこども相手に銃をぶっ放した、というのは少々理解に苦しむものの、サイとレンはたしかに撃たれて片方は死に、片方は生き残った。双方に落ちている銃に名が刻印してある。両方共に男の名前。これだけで元々銃は男だけが持っていたのだとわかる。


 奪ったか、与えられたのか。いずれにせよ殺しあいに使われた黒い獣二丁は沈黙している。持ち主の死を嗤い、使用者の片方の生を嗤う。黒たちは無音で嗤い続けている。


「いや……」


 サイの唇が音を紡ぐ。否定の、拒否の、拒絶の音。誰にも拾われない音は血染めの雪に落ちて沈んでいく。大人とこども、ふたつの死体をそばにサイは泣き続ける。溢れる涙はとめどもなく流れていき、サイの幼すぎる心の出血であるかの如く零れ落ちていく。


「いや、レン、いやぁ……っ」


 必死でレンを呼ぶ。声が返ることないことを知りながらも呼び続けるのはサイの無念と後悔と悲しみと絶望。深い深い、痛み。肩の重傷のことなど忘れるほどの心の激痛。


 冷たい雪の上に座り込み、レンのそばで泣き続ける。サイに救いの手はない。突き放されて誰にも顧みられない。孤独と大切なひとの死と絶望と昏い未来を考えてしまい、さらに涙が溢れてくる。助けの手も、たったの一声すらもサイに寄越されることはない。


 寂れ果てて街路や町からずいぶん外れている上に本日は祝祭日。世間はお祝いの言葉を並べ立てている。サイには信じられない。お祝いなどととても思えず、信じがたい。


「一緒だったのに。レン、ずっと、一緒にいる筈だったのに。どうし、て……? いやだいやだ。サイをひとりにしないで。お願いだから。どうして、逝って、しまうの?」


 死者に訊ねる無意味な問いの音もまた赤い雪に吸われて失せていく。誰もいない。サイはひとりだった。祝祭の日にふたりの人間が永遠にいなくなったのを知る者はない。


 そして、同時に永遠の孤独に陥ったサイの悲しみを知る者もない。サイの痛みはサイの中で延々とサイをさいなみ、痛めつけ続ける。そのことも熟知してサイはレンの死体を抱きしめる。冷たい。けど、永遠の孤独に堕ちたサイにとっては冷たさも救いだった。


 他人の温度だから。大事な者のの温度だったから。冷たかろうと温かろうとどうでもよかった。サイにとってはどうでもいいことにすぎず、ひたすら求めて抱きしめる。


「ごめんね、レン。本当に、ごめ、ん」


 死者に謝るサイの目にはひとつの大きな、特別な決意があった。陽が暮れる。すべてが闇に閉ざされていく中、サイの銀色の隻眼だけが美しく煌々と輝いていたのだった。


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