第109話 髪の香り

 私を殺して。

 そう言って、武器も持たずに両手を広げるミノリを前に、御月みつきは一瞬たじろいだ。

「何よ……そうやって情に訴えかければ、私が思いとどまるとでも思ったの?」

「……」

御月の問いかけに対して、ミノリは肯定も否定もしない。ただ黙って微笑ほほえみ、御月を見つめる。その表情は御月が幼い頃から見てきた笑顔と、何一つ変わらない。

 

 私は本当に御祈ミノリを殺したいのだろうか?

 御月の心に疑念が浮かぶ。

(御祈を見ているとイライラする。姿形は自分と似ているのに、性質は自分と全く違う御祈がうとましい。御祈さえいなければ、私はこれほどみじめな思いはしなかったのに)

 だから殺すのか? 

(えぇ、殺す。私の生き方を否定するなら殺す。私の邪魔をするなら殺す。だってこれは、私の人生だもの)

 じゃぁ、殺したら幸せになれるのか?

(……)


 ミノリは、依然変わらぬ微笑みで御月を見つめ続けている。まっすぐに、澄んだ瞳で、ただ御月の目を見ている。

「あああああああああああああ!」

 御月は頭を抱え、のけ反りながら悲痛な叫びを上げ、同時に月煌輪げっこうりんの力を解き放つ。

 解放された光は地面を砕きながら周りに飛散した。やがて細かく光が編み込まれた半球場の結界を形成し、御月とミノリを外部から完全に遮断した。光でできたこの結界壁は、大空おおぞらの結界と違い物理的な障壁はない。しかし、触れるもの全てを焼き貫く破壊光線で編まれている。例え大空が無理やり結界壁をこじ開けようとしても、かなりの時間と労力がかかるであろう。

「はぁ……はぁ……」

「……」

 光で照らされた黄金の景色の中で、御月とミノリは向かい合う。他に誰もいない、誰の邪魔も入らない、二人だけの世界。

 御月は再び手のひらに光を集め、光の刃を成形する。そして一歩、また一歩とミノリへと近づく。

 それと共に近づいてくる、ミノリの姿。幼い時から知っている、妹の姿。その瞳を、その髪を、その顔を。誰よりも近くで見てきたのは、他ならぬ御月自身であった。

 ふと風が吹き、ミノリの髪をなびかせた。ミノリの髪の香りを乗せた風は、御月の元へと流れつく。そして思い出される、昔の記憶。


 まだ【夜長よなが夏至げし】が起こる前、御月は運動会の徒競走で転んでしまい、最下位になってしまった。そして泣きながら家族の元に帰った御月に、ミノリは言った。「さいごまでがんばったね。ころんじゃったけど、あきらめなかったね」と。

 小学生の頃、御月が必死になって終わらせた夏休みの課題を、登校日前日になくしてしまい、泣きながら家中を探し回ったこともあった。その時も、ミノリは嫌な顔一つぜずに探すのを手伝ってくれた。「おねえちゃんが、がんばってたの、わたしはしってるから」ミノリはそう言って、半ば諦めていた御月以上に真剣になって探してくれた。

「なんでそんなに私に優しくしてくれるの?」

御月は疑問に思って、ミノリに尋ねたこともある。ミノリはきょとんとしたのち、優しく笑った。

「だって、おねえちゃんは、おねえちゃんなんだもん」

ミノリはどんなに弱く情けない御月のことも受け入れてくれていたのだ。天才だとか、隊長だとか。そんな肩書きがない頃から、ミノリは御月のことを受け入れてくれていた。大切だと思ってくれていた。


 御月はハッと、我に返る。

 今まで自分がしてきたこと、今自分がやろうとしていたことを思い出し、体が震える。

 そうして再び前を見ると、そこには金色の光に照らされた、最愛の妹の姿があった。彼女は柔らかく微笑み、全てを受け入れるように、両手を広げて待っている。

 御月は気がついたらミノリに抱きついていた。彼女の感触を全身で感じる。

 ミノリのぬくもりによって、御月は自分を覆っていた分厚い氷が溶け落ちるかのような感覚を覚えた。

 先ほどまでミノリを殺したいと思っていた理由など忘れてしまった。もうどうでもいいことだ。御月の人生にとって、ミノリを失うことは何にも代え難い損失なのだ。

 御月はボロボロと涙をこぼし、ミノリに必死で謝った。「ごめんなさい。ごめんなさい。お姉ちゃんが間違っていた」と。

「ううん。いいの、大丈夫だよ」

ミノリは御月の頭を静かにでる。

「だって、お姉ちゃんは、お姉ちゃんなんだもん」

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