ゆめさき診察所

わたりあき

ゆめさき診療所


 松浦良太郎が診療室に入ると、部屋にはコーヒーの香りが満ちていた。香ばしい匂いを嗅ぎながら、良太郎はアンティーク調の椅子に腰かけている凛之助に声をかける。

「先生、あんまりコーヒーばっかり飲んでいると体に悪いですよ」

 声をかけられた凛之助は、長い前髪からぱっちりとした大きな目を覗かせた。

「前にも言っただろう? 私は自分が好きなものを飲んでいるだけだよ」

「はあ、そうですか」

 良太郎はそれ以上何も言わず、診察の準備を始めることにした。凛之助は、優雅に朝のコーヒータイムを満喫している。良太郎はカルテや診察の器具の用意を済ませて、外に出た。

 細い街角の隅に建つ診療所の玄関には、「Close」の札が掛ってある。良太郎は札を「Open」に引っくり返した。

 そして扉の上には、これまた別の表札がかかっていた。

 ゆめさき診療所。それが、良太郎が働く診療所の名前だった。

 

 朝九時の開業と同時に、患者が診療所にやって来る。この日は、近所に住むおばあさんが朝一に訪れた。

 凛之助は、始めに聴診器を当てる。

「朝から喉が痛くてねえ」

「はい、じゃあお口開けて下さい。あー腫れてますねえ、風邪にならないうちにお薬出しておきますね」

 凛之助がカルテに書き込みをしていると、おばあさんがぱっと顔色を輝かせた。

「そうだ、先生。今度新しいケーキ屋さんが出来るんだって、知ってる?」

「え、ほんとですか。一体どこに?」

 良太郎は助手の仕事をしながら、おいと突っ込みそうになった。

 凛之助は患者の女性と楽しげに会話している。

「先生、まだ患者さんが」

「はいはい、分かってるよ。じゃあ、今度お店行ったらケーキ買って来ますね。お大事に~」

「ほんと? ありがとう。楽しみにしてるわ」

 おばあさんは少女のように顔を綻ばせると、ウキウキと診察室を出ていく。

 良太郎は凛之助に新しいカルテを渡し、冷めた目で主治医を見下ろした。

「先生、患者さんのおつかいしてどうするんですか」

「いいじゃないか、私の趣味なんだから。ここのところ感染のせいでめっきりティータイムが減ってしまったからね」

 鼻歌を唄い出す凛之助は放っておくことにして、良太郎は女性から診療費を受け取り、薬を手渡した。

 待合室をちらりと見ると、午前中にも関わらず患者は多かった。まだ新しい診療所だが、凛之助の人あたりの良さが人気を呼んでいることを、実は良太郎は知らない。

 待合室にも、凛之助が診察室で座っているようなアンティークの椅子が並んである。窓にも白いレースのカーテン、隅にある丸テーブルの上には、花瓶が置かれ秋桜が飾られている。

 完全に凛之助の趣味であることが、一目瞭然だった。

 良太郎は、診察表の名前を確認して次の患者を呼んだ。

「前田さん、どうぞ」

「はい」

 椅子から立ち上がった五十代くらいの男性は、マスクをしていても分かるくらい、顔色が悪く目の下には隈ができていた。

 良太郎は患者を一目見て、はっと気を引き締める。患者を案内し、凛之助の前に座らせると、良太郎は慎重に、待合と診察室を隔てるドアを閉めた。

「ええと、前田さんですね。今日はどうされました?」

 凛之助が優しく男性に訊ねる。

 男は、背中を丸めた格好で答えた。

「はい。実はここ一ヶ月、夜眠れなくて」

「眠れないんですか。何かご自分で、原因があるとお思いですか?」

 男は言いにくそうに口をもごもごさせる。

 凛之助が、何でもいいんですよとやわらかく笑うと、男の口周りのこわばりが溶けた。

「その……最近、ひどい夢を見るんです」

「ほう、例えばどのような?」

 夢と聞いて、凛之助の目が鋭く光った。凛之助は男性の顔を覗き込む。

「誰かから追いかけられる夢です。逃げても逃げてもだめで、それが、どんどんひどくなって、終いには、その、殺される夢なんです」

 夢の内容を思い出したのか、男の体が震え出す。凛之助は落ち着かせるように、患者の肩に手を置いた。

「分かりました。今から、前田さんの治療をします」

 凛之助が微笑むと、男は目を丸くした。

「え、な、治るんですか」

「はい、治してみせます。ご安心下さい」

 凛之助は良太郎に目線を向けた。良太郎は軽く頷き返す。

「それでは、こちらのベッドに横になって下さい」

 良太郎が、部屋の中央に置かれているベッドを掌で示す。

 男が凛之助を見ると、凛之助が頷いた。男は横になると、部屋の天井と、凛之助と良太郎を不安そうに見上げた。

 凛之助はベッドのそばに立ち、掌を男の目の前にかざしてみせた。

「目を閉じて下さい」

「え」

「なるべく、幸せなことを考えながら」

 男は、言われた通りに目を瞑った。凛之助は口の中で何事かを呟く。良太郎はその光景を黙ったまま見つめていた。

 やがて男が寝息を立て始めた。凛之助は、ぐっと手に力を込めると、掌を上に持ち上げ、下げ、また上げてを繰り返した。

 すると凛之助の掌から、黄金色の光が溢れ出てきた。光は優しく男を、繭のように包み込んでいく。

 光が男を完全に覆い尽くすと、患者の頭の位置から、ふっと漆黒の蝶が音もなく現われた。

 凛之助は素早く蝶を掴んだ。蝶は羽をばたばた動かし、凛之助から逃れようとしている。

「最近のは、ますます色が真っ黒だなあ」

 凛之助が蝶をしげしげと眺める。良太郎はそうなのだろうかと思いながらも、凛之助を見つめる。

「先生、まだ外で患者さんが待ってますから」

「分かってるよ。もう、松浦くんはせっかちで困るな」

 凛之助は苦笑すると、手の中の蝶を黄金色の光で包み始めた。真っ黒の蝶は光を浴びせられ、苦しそうにもがいていたが、唐突に真っ白な蝶に姿を変えた。

「今度は、悪い蟲が寄ってきませんように」

 凛之助は唱えると手を離した。蝶はひらひら舞っていたかと思うと、男の頭上ですうっと消えてしまった。

 同時に、男を覆っていた光の繭も薄くなっていく。

「あ、あれ」

 繭が完全に消えた途端、男は目を覚ました。患者は、不思議そうに辺りをきょろきょろと見渡す。

 凛之助がにこやかに声をかけた。

「前田さん、もう大丈夫ですよ」

「あ、はい。何だか、とてもすっきりした気持ちです」

「それはよかった。お薬はお出ししませんから、今日はゆっくりお休みになって下さいね」

「はい、ありがとうございました」

 男は嬉しそうに笑って、診察室を出ていった。



 午前の診療が終わり、昼休憩になった。良太郎は自分で作ってきたお弁当を広げる。凛之助がアクリル板越しに羨ましそうに覗いてきた。

「いいなあ。相変わらず、松浦くんのお弁当はおいしそうだよね」

「あげませんよ。あ、先生またコーヒーとサンドイッチじゃないですか」

「いいじゃないか、おいしいんだし」

「それじゃ栄養が偏ります」

 良太郎がぴしゃりと言い放つと、凛之助はむすっとむくれてそっぽを向く。

良太郎は、そんな凛之助に眉を顰めた。

 人々の悪夢を取り除くことができる凛之助のようになりたくて、良太郎はここで働いている。その術をいつになったら教えてもらえるのか。良太郎は訊くタイミングを逃している。

 凛之助の不思議な黄金色の光は、見ていてあたたかくなる。ほっと安心できる。

 凛之助は、じっと良太郎が自分を見つめていることに気がつくと、慌ててサンドイッチを引き寄せた。

「どうしたんですか」

「私のサンドイッチを狙おうたって、そうはいかないからねっ」

「誰が欲しがりますか。僕は和食派ですよ」

 良太郎はふんと鼻を鳴らして、たくあんを摘まんだ。

 人によって悪夢はさまざまだ。みんな心に闇を抱えて、膨らみ過ぎて。それが夢になって現れる人がいる。

 そんな人たちの為に、凛之助は夢の治療をしているのだ。

 良太郎は弁当を食べ終わった。残り時間は持参してきた本を読み、午後の診察の準備をした。 

 凛之助は相変わらずコーヒーを啜り、雑誌を捲っている。

 良太郎は診察が始まる前に外に出て、再度「OPen」の札を引っくり返した。

 秋の空には、うろこ雲が浮かんでいる。

 良太郎は、背伸びをしてから中へ戻っていった。



 ここは、とある町の小さな診療所。

 もしも貴方の夢見が悪い時は、是非こちらまで。

ゆめさき診療所。


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