自己紹介がまだでしたが、何か?
人間の少女……クウと握手しているナナシちゃんを眺めているうち、わたしの胸中に何とも言えない感情が渦巻き始めました。人間相手にも物怖じしないほど逞しくなっていく妹の成長が、嬉しいような寂しいような。そんな想いを誤魔化すように、隣で腰を下ろしている里長の頭を撫でまわします。
「里長の成長期はいつ来るのでしょうね?」
「ぬわぁぁああ!? ……おいこらっ、急に何をするのじゃ」
予想通りな里長の反応に安心感を覚えながら、さらに冗談を付け加えてみました。
「このくらい良いじゃないですか。何しろ里長はわたしの
「さてはお主、この世のすべてが己のものじゃと勘違いしておる
失礼な。そんな勘違いはしていないですよ?
「それから、儂の成長期はとっくの昔に終わっておるからの? 甚だ残念なことじゃが……ぐすん、自分で言うてて悲しくなってきたわい」
「よしよし、可哀想に」
玩具扱いについては突っ込まないのね。なんて考えながら里長の頭を撫でつつ、折角なのでわたしの膝上に乗っているナーニャちゃんの頭も撫でておきます。すると、途端に目を細めて「ふわぅう」と気持ちよさそうな声を漏らすナーニャちゃん。うふふ、見ていてとっても癒されますね。堪りません。
「あの……少し、お話、良い?」
あぁもう、せっかく癒されている最中なのに。
ナナシちゃんとの会話を終えたクウが、ナーニャちゃんと少し話しても良いかと尋ねてきました。なんでも、今後ナーニャちゃんと関わる機会が多くなるだろうから、自己紹介を済ませておきたいとのこと。
ぐぬぬ。わたしたちの方からクウに手伝いを頼んでいる以上、さすがにそれを拒むわけにはいきません。仕方がないので「どうぞ」とだけ返事します。
しかし、言葉すら通じない現状では自己紹介も何もない気がするのですが……。
膝上のナーニャちゃんに視線を合わせるため、クウがゆっくりとしゃがみ込みました。そして、自分自身を指差しながらゆっくりと口を動かします。
「うち、名前、クウ」
「…………んぅ?」
いやいや、ナーニャちゃんに言葉は通じないってこと、先ほどナナシちゃんが説明していましたよね? 一体何を考えているのでしょうか、この子は。
「うち、名前、クウ」
「…………?」
首を傾げるナーニャちゃんを目にしても折れる気配のないクウは、尚も自分を指差しながら名前を繰り返し続けています。
……あれ? そういえば、わたしたちはナーニャちゃんに名前を教えようとしたことありましたっけ? ふと、あまりにも今更な疑問が浮かびました。ナーニャちゃんの名前については、以前必死で聞き出しましたが……。
そんなことを考えている間に、ナーニャちゃんの反応に変化が訪れました。訪れてしまいました。
「んと…………くぅ?」
「そ、そうっ。うち、クウ!」
「……くぅ! くぅ!」
あぁあああああああああああああああ!?!?
クウってば、名前を覚えてもらうことに成功しているじゃありませんか。
「な、なあ、フー姐。オレたち、肝心なこと試し損ねていたんじゃないか? あは、あはははは」
「そそそそうね、ナナシちゃん。うふふふふふ」
えぇ、そうです、その通りです。わたしたち、ナーニャちゃんに自分の名前を教えようとしたことなんて一度もありませんでした。ほんと、今まで何をしていたのでしょうね。
……ですが、それはもう既に過去の話。過ぎたことを悔いても仕方がありません。大事なのはこれからどう動くかです。
というわけで、膝上のナーニャちゃんを軽く持ち上げて……そのままくるっと一回転。わたしと対面になる状態を作ります。よいしょ、これで良し。
それではさっそく自己紹介と参りましょう!
「ナーニャちゃんナーニャちゃん! わたしのこと、お姉ちゃんって呼んでみて?」
「……んぇ?」
ナーニャちゃんの表情から、私の意図を必死に理解しようとしていることが伝わってきます。これはもうひと押しですね。再び自分を指差して、
「ほらっ、わたし、
「……お、おねぇちゃ?」
はいっ、わたしがお姉ちゃんですよ!
それにしても、うちの妹って天才なのでしょうか。まさかこんなにもあっさりと覚えてくれるなんて。
「ちょっと待てってフー姐、早い者勝ちはズルいって。オレだってナーニャにお姉ちゃんって呼ばれたいのに……このままだと被っちゃうじゃないか」
あっ、たしかに……。わたしとしても、ナナシちゃんの願いはなるべく叶えてあげたいですからね。
ではでは、少しだけ呼び方をアレンジしてみましょうか。大丈夫、天使で天才なナーニャちゃんなら理解してくれるに違いありません。
「だったら……
「おねぇ、ちゃ……ふぅあ……ふぅおねぇちゃ?」
はいっ、わたしがお姉ちゃんですよ!(二回目)
確信しました、うちの妹は紛うことなき天才です。うふふ、今日この日を「ナーニャちゃんにお姉ちゃんと呼ばれた記念日」と定めましょうね。
「よ、よしっ! それならオレは……ナナシお姉ちゃんでいこう」
わたしたちのやり取りを見ていたナナシちゃんも気合十分なようです。
このまま何度もお姉ちゃんと呼ばれ続けていたい気持ちはありますが、順番ですからここは一旦ナナシちゃんに譲るとしましょう。再びナーニャちゃんを持ち上げて、今度はナナシちゃんのいる方向へ動かしてあげます。
「ナーニャ。オレのことは、ナナシお姉ちゃんって呼んでくれ!
「……なぁし……おねぇた?」
「おぉおお、良い感じだぞ。もう一息だっ」
ナーニャちゃんがほんの少しだけ考え込むような仕草を見せます。ですが、それも一瞬の事でした。
「んぅ…………なぁおねぇちゃ」
「おいおい天才かよ!? あぁ、オレがナナシお姉ちゃんだ!」
ふふ、わたしと同じ反応をするんですね、ナナシちゃん。さすがわたしの妹です。
「ふぅおねぇちゃ! なぁおねぇちゃ!」
はいっ、わたしがお姉ちゃんですよ!(三回目)
ナーニャちゃんからお姉ちゃんと呼ばれるときの破壊力、凄まじいです。それはもう、名前くらいどうしてもっと早くに教えておかなかったのかと悔やむ気持ちが再浮上してくるほどに。
辛抱堪らず目の前のナーニャちゃんを抱きしめると、ちょうど同じタイミングでナナシちゃんもナーニャちゃんを抱きしめていました。
「んぎゅう……ーーーーーーー!?」
前と後ろから同時に抱擁されたナーニャちゃんが何やら声を漏らしていますが、今のわたしたちにそれを理解してあげられるような余裕なんてありません。
「こらこら、お主ら……娘っ子が苦しそうにしておるではないか」
里長に咎められて渋々ながら腕の力を緩めると、ナーニャちゃんが「ぷはぁ」と可愛く息を吐きました。たしかにやりすぎはいけませんね、反省反省。
「ふむ。そういえば、儂も娘っ子には名前を教えておらなんだのぉ」
そう言いながら里長もナーニャの正面にやって来ました。里長の場合は視点の高さがナーニャちゃんと大差ないので、わざわざしゃがみ込む必要はありません。そのままナーニャちゃんに語りかけます。
「娘っ子よ。儂の名前はララノーア、じゃ」
「らぁ……のぁ?」
ん? んんんんん? わたしもナナシちゃんもついでにクウも、一瞬にして皆固まってしまいました。
里長は頭をぽりぽりと掻きながら「うぅむ、ちょいと発音が難しいかのぉ」などと独り言を呟いていますが……いやいや、ちょっと待ってください。
「里長、今なんて仰いました?」
「じゃから、発音しづらい名前かもしれんのぉと」
「えっと、そうではなくて、もうひとつ前です。ナーニャちゃんに向かって何か言いましたよね?」
「儂の名前はララノーアじゃ、と言うたが……それが一体どうしたというのじゃ?」
……いや、えっ、誰それ!?
「誰って、儂の名前に決まっておろうが」
おっと、心の声がうっかり外に漏れちゃっていたようです。そんなことより、
「里長の……名前!?」
「ちょいと待て。その反応、まさかとは思うが……」
結論、誰も里長の本名を憶えていませんでした。
だって里長はどこまでいっても里長ですから。他の呼び方はしっくりこないというか……ね?
「お主ら……いい加減にせんと幾ら儂とて泣くぞ? 本気で泣いちゃうぞ?」
あっ、これガチなトーンですね。
幼い頃からお世話になっている里長相手にその反応はさすがにちょっとマズかったようです。そんなわけで、里長の機嫌が直るまでの間、わたしとナナシちゃんはひたすら謝り続ける羽目になりました。
ちなみに、空気を読んだナーニャちゃんが里長の頭をなでなでして慰めていましたが……それが逆効果だったことには触れない方が良いでしょう。
そんなわけで、本日の教訓。
大切な人の名前はちゃんと憶えておきましょうね。
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