あの日を思い出しますが、何か?

「はぁ、はぁ……ちくしょうっ」


 同族らしき集団を見つけてから数時間。オレは木陰に倒れ込み、荒くなった息を整えていた。

 口の中には、鉛のような血の味が充満している。今まだオレが生きていることは、ほぼほぼ奇跡と言って相違ないだろう。全身が痛い痛いと悲鳴を上げていて、もはや立ち上がる気力すら湧かない。

 

 改めて明言しよう。オレがのこのこと近づいた相手、それは同族なんかじゃなかった。

 言い訳をするならば……そのときのオレは、人間なんて奴らの存在を知らなかったんだ。ときに、無知は死にすらも直結する。


 奴らと目が合った直後、オレの視界は暗転した。コンマ数秒の間を置いて目を開いたときには、オレの頭は地面に叩きつけられていた。そこから先のことは、意識が朦朧としていてよく覚えていない。

 ただ、奴ら人間族はエルフを下等な獣程度にしか認識していないのだと、それだけは身をもって理解した。


 だが、当時まだ幼い容姿だったことが幸いしたのだろう。奴らはオレにとどめを刺さなかった。

 良心の呵責から見逃してくれた? いや、そんなわけがない。奴らはこう判断したのだ。このまま放っておいてもそのうち息絶えるに違いない、と。

 実際、そのときのオレは虫の息も同然な姿だった。少なくとも、人間族からそう見える程度には。


 だから……また奴らに見つかるのではという恐怖から身体を奮い立たせ、必死に逃げた先がエルフの里の入口付近だったことは、本当に奇跡としか言いようがない偶然だった。

 そんな奇跡と、エルフ特有の逞しい生命力がオレの運命を変えた。


「のう、お主。まだ生きておるかの?」

「…………っ」

「そこで倒れているお前さんに、生きておるのかと訊いておるのじゃ」

「……たぶん、生きて、いる」

「そうかい、それは良かったのじゃ。どれ。傷の手当てをしてやるから、儂について来るがよい」


 これが、我らが里長との……そして、同族との初めての遭遇だった。




 屋敷で手当てを受けた後、オレは溜まりに溜まった疲労を吐き出すように眠った。ここまで深く眠ったのは、記憶にある限り初めてのことだった。

 そして翌日、オレは里長を名乗る幼女に事の顛末を説明していた。それを静かに聞いていた里長は、どこか申し訳なさそうに相槌を返す。


「ふむ、ふむふむ。なるほどの。いや、それは全くもって災難じゃったな……。ちょうど先日、この里で守り人を務めていた者がしもうての。森の警備が手薄になっておったのじゃ」

「そう、なのか」


 里長が言うには、とにかくタイミングが悪かったということらしい。事情はよく分からないが……。

 だが、結局のところ、オレの間抜けさが招いた事態であることに変わりはない。故に、一方的に頭を下げられたところで、戸惑うばかりである。

 そんなオレの気持ちに気がついたのだろう。里長が話題を変える。


「とりあえず、お主は身体を清めてくるとよい。この儂が水浴びに連れて行っても構わんのじゃが……他に適任者がおるでの」

「てきにん、しゃ?」

「そうじゃ。お主とそこそこ歳が近いはずじゃし、案外良好な関係を築けるかもしれぬぞ? それに、あやつにとってもちょうど良い気分転換になるじゃろうからの」


 そう言って里長が呼び出したのは、見知らぬひとりの少女だった。なんでも、里長のところで一時的に預かっているのだとか。

 その少女の名はフウラ。後にオレの姉となるエルフである。




 状況に身を任せた結果、オレはフウラと名乗る少女と共に水浴びをしていた。いくつか年上らしい彼女は、水浴びの最中だというのに容赦なく話しかけてくる。どうやらお姉さんぶりたいようだ。


 初めこそ緊張しながらたどたどしくも返事していたが、こうもしつこく質問攻めにされては、緊張なんてどこかへ消え去ってしまうというものだ。

 そんなわけで、彼女のことは正直鬱陶しい奴だとしか認識していなかった。当然っちゃ当然だろう。ただ、後から振り返ってみれば……あれはあれでフー姐なりに緊張を解かせる為の気遣いだったのかもしれない。知らないけどさ。


「ねえ、そろそろ名前を教えてくれない?」

「名前……? そんなもの、ないから」


 彼女の質問をかわそうと、オレは愛想なく雑に切り捨てたつもりだった。

 だが、その程度で折れて引き下がるようなフー姐ではない。そのことを、知り合ったばかりのオレはまだ理解していなかった。


「そうなんだ。じゃあ、わたしが貴女に名前をつけてもいいかしら? もちろん、とびっきり素敵な名前にしてあげるから」

「……好きに、すればいい」


 ヘビーな過去を想起させるようなオレの発言にも困惑ひとつせず、初対面のくせに名前をつけるだなんて言い出すフー姐は、かなりの大物だと思う。

 実を言うと……この辺りからうっすらとではあるが、心のどこかでオレはこの人には敵わないのではないかと察し始めていた。


 その提案に対し興味なさげに返事したものの、彼女が一体どんな名前を提案してくるのか内心そこそこ気になっていたオレは、こっそり耳を傾ける。


「うーんと、それじゃあね……名前がないって言ってたから『ナナシちゃん』で!」

「いや、そのまんま!?」


 オレは反射的にツッコミを入れてしまった。

 これが、記念すべきオレの初ツッコミが炸裂した瞬間である。記念したくねぇ……。


「ふふっ。とっても可愛くて、貴女にぴったりな名前だと思うの」

「……そ、そうかよ」


 あまりにも雑なネーミング。なのにどうしてなのだろう、不思議とオレは嫌な気がしていない。それどころか、胸の奥がじんわりと温かくなる。


 そうしてオレは、名無しを脱してナナシになった。ややこしいな。


「……ところで、ナナシちゃんが森で人間族に襲われたというのは本当なの?」

「ん? それは本当、だ」


 ふいに彼女が話題を変えた。顔つきも、先ほどと打って変わって真面目そのものである。

 オレがこの里に匿われた経緯について、里長から聞かされたのだろうか。ぶっちゃけ、オレにとってあまり触れられたくない失態なのだが、事実であることに違いはないので素直に肯定しておく。


「そっか……うん、決めた!」

「な、何を?」

「わたし、守り人の役目を引き継ぐことにするわ」


 このときのフー姐が裏でどのような事情を抱えていたのか、どんな想いでその結論に辿り着いたのか、オレはもちろん知らなかった。

 それでも……目の前の少女が浮かべている、何か吹っ切れたような表情を目にすれば、掛ける言葉なんてひとつしかない。


「よくわかんない、けど……まあ、頑張れ」

「うんっ、ありがとうね」


 もしこの里で暮らすことになったならーー。

 これからどんな風に生きていこうか、オレはぼんやりと想像を膨らませる。

 里長の言っていた通り、彼女とであれば案外良好な関係を築いていけるかもしれない。多少騒がしい性格ではあるようだけれど、悪い奴ではなさそうだし。一緒にいれば、何だかんだで楽しい日々が待っていそうだ。

 無意識に、独り言が口から漏れる。


「それも悪くない、な。ははっ」

「笑っているとき、この子めちゃくちゃ可愛いんだけど……! 何か良いことでも思いついたの?」

「あっ、いや、なんでもない。まあアレだ。これからよろしく……

「ええ。こちらこそよろしくね、ナナシちゃん!」





「う……んんっ」


 朝の日差しを肌で感じ、オレはじわじわと夢から覚める。昨晩はいろいろと思い出すうちに、いつの間にやら眠りについていたらしい。

 隣に首を動かせば、そこには変わらず幸せそうな表情を浮かべたままのフー姐が眠っていた。


「むにゃむにゃ。ナーニャちゃんとナナシちゃん、お姉ちゃんの為に争わないでぇ。嫉妬なんてしなくても、ふたりまとめてたっぷりねっとり愛してあげるから……じゅるっ」


 ちょい待て。なんて夢を見ているんだ、この妹愛好家シスコンは……。

 オレはフー姐を叩き起こすことに決めた。容赦はいらない。そんなふざけた夢を見続けることは、オレが断じて許さないからな。


「痛っ! ちょっ……痛いってばナナシちゃん! もう起きたから!」

「おっと、本当だ。フー姐おはよう」

「ひと叩き目で起きたこと、絶対気づいていたよね? それと、何か素敵な夢を見ていた気が……」

「完璧に思い出せなくなるまで叩こうかな」

「朝からナナシちゃんの愛情表現が情熱的すぎて、お姉ちゃん受け止め切れる自信がないわ」

「……煩いからもう一回気絶就寝しとこうか?」

「『就寝』の裏に別の言葉が見え隠れしているんだけど、気のせいじゃないよね!?」


 そんなくだらないやり取りをしていると、ついさっきまで夢で見ていた過去の記憶が頭に過る。

 まさかこんな朝を迎える未来が待っているとは、あのときは想像だにしていなかったなぁ。ましてや、フー姐と義姉妹の契りまで結び、共に守り人を務めるようになるだなんて……。


「んぅうう……っ」

「あら、今ので起こしちゃったみたいね。ナーニャちゃん、おはよ」

「あ、ごめんっ。おはようナーニャ」


 オレたちのくだらないやり取りによって目が覚めたらしく、ナーニャが眠そうに目元を擦っている。


 ナーニャ。

 かつてのオレに境遇が重なり、どうしても親近感を覚えずにはいられない幼女。言葉すら通じず、下手すればオレよりもずっと酷い目にあっていたかもしれない幼女。そんな彼女は、数日前からオレの妹になった。


 ひとりの辛さは痛いほど知っている。そこから救われる喜び、家族の温もりはフー姐から教わった。だから、今度はオレがナーニャの希望になるんだ。


 もう何度繰り返したか分からない決意と共に、また新しい一日が幕を開ける。

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