「【懐抱編・上】Call of the Master—運命と選択—」<COMITIA139 サンプル>

ワニとカエル社

サンプル1



 夜の静寂を打ち砕くように川面が激しく割れ、英雄が姿を現した。

「大丈夫か?」

 岸に上がった英雄は、まだ水の中にいる魔者の子の腕を掴んで引っ張り上げた。

「……追っ手は来ていないようだ」

 英雄は辺りを注意深く見ながら言い、月光に輝く金色の髪をかき上げた。水滴が飛び、英雄の引き締まった頬や逞しい首筋を濡らす。滴り落ちる水を払いながら、英雄は瑠璃色の瞳を魔者の子に向けた。

「随分濡れてしまったな」

 全身がずぶ濡れでも厭う様子を見せない魔者の子に、ささやかな違和感を持ちながらも英雄はようやく表情をゆるめた。

 魔者の子は表情を浮かべずに英雄を見た。闇のように深く美しい漆黒の瞳は英雄の心をさざめかせた。

 英雄は魔者の子の前に跪き、手を伸ばした。白い頬に貼りついた髪を丁寧に払い、流れる水滴を指先で拭った。

 魔者の子はわずかに目を伏せたまま微動だにしなかった。

 指先に灯った温もりがまた英雄を揺るがす。

 英雄は一瞬惑ったように手を止めて魔者の子を見た。が、すぐに手を引いた。

「もう少し辛抱してくれ。もうすぐ仲間が来るはずだから」

 英雄は優しくほほ笑んだ。

 英雄の声に誘われるように淡い光がふわりと現れ、まわりを漂いはじめた。

「来た」

 英雄は光の一つに触れ、導くように掌に乗せた。

「団長」

 光から声が響いた。

「ウィスカ。私だ」

 英雄が返事をする。

「あぁ、ご無事でしたか。いま参ります」

 言葉に違わず、まもなく人影が現れた。

「団長」

 低い声とやや高い声が同時に響いた。

「ニアール、ウィスカ」

 英雄は人影の名前を呼んだ。茂みの奥から背の低いニアールと細身のウィスカが用心しながら出てきた。

「よくぞご無事で」

「よかった」

 ニアールとウィスカは英雄に駆け寄り、安堵の言葉を漏らした。

「何とかうまくいったよ」

 英雄はふたりに笑いかけ、後ろにいた魔者の子を示した。

「……この方が?」

 ウィスカが魔者の子を見やる。

「そうだ」

 英雄は頷いた。

「やはり人間だったのか」

 ニアールも魔者の子に目を向ける。

「……詳しいことは後だ。とにかく野営地に戻ろう」

 英雄が視線を遮るように立ち上がった。

「えぇ、皆が待っています」

「行きましょう」


 野営地は森の奥にひっそりと造られていた。

 先導するウィスカはある木の前で立ち止まり、掌に乗せた光にもう片方の手を置いて大きく息を吸った。

「……!」

 息を吐くと同時に両手を離して光を解放する。周囲に淡い光が一瞬散り、隠されていた野営地が姿を現した。

 小さな広場の焚き火の前に、剣を手にした人影が立っていた。

「無事のようだな、団長殿」

「ガート」

 名前を呼ばれたガートルードは剣を納め、英雄に歩み寄った。

 歩くたびに後ろに流してひとつに束ねた赤毛が印象的に揺れる。

 長身の英雄より少し低いが充分に高いといえる体格で、冷静な物腰と張り詰めた身のこなしは歴戦の猛者を思わせた。

「何とか無事だ」

「それは良かった」

 英雄の答えに、ガートルードは切れ長の目を細めた

「お帰りなさい」

「マド」

 ゆるくウェーブのかかった灰色の髪を三つ編みにしたマドラ・ルアが焚き火の前から立ち上がった。柔らかな癖毛は左頬をほぼ覆っているため、均整の取れた貌と相まって神秘的な雰囲気を醸し出している。

 英雄とほとんど変わらない背丈だが、体型は細く、筋肉質の英雄と並ぶとその華奢さが際立った。

「帰って来たよ」

「よくお戻りで」

 マドラ・ルアは穏やかな笑みを浮かべて英雄の帰還を祝った。

「お怪我はございませんか?」

「ミュリ」

 蜂蜜色の髪を三つ編みし、王冠のように頭に巻きつけたミュリエルは英雄に駆け寄る。

 かすかにあどけなさが残る顔立ちに不安の色が滲んでいる。小柄な体は緊張で強張り、小さな唇は固く結ばれ、対照的に大きな目はじっと英雄を見つめた。

「ありがとう。大事はないよ」

 ミュリエルの顔を見ながら英雄がほほ笑む。

「よかった」

 ミュリエルは大きく息を吐いて笑顔をこぼした。

「隊長。これを」

 ウィスカが毛布を英雄の肩に掛けた。

「さ、あなたも」

 と、魔者の子にも毛布を掛けた。

「早くこちらへ」

 ミュリエルが焚き火の前にふたりを座らせ、マドラ・ルアが温かい飲み物を差し出した。

「ありがとう」

 英雄は二つのコップを受け取り、片方を魔者の子に勧めた。

「熱いから気をつけて

 魔者の子は両手でコップを受け取ったがすぐに口はつけなかった。

 英雄は湯気を払うように軽く息を吹いてから一口飲んだ。熱さが内側を駆け抜け、強張った体をほぐすように広がっていった。自然とため息が漏れる。

「本当によく帰ってきた」

 焚き火を挟んで向かいに座ったガートルードが言った。

「団長を信じてはいたが、今回ばかりは戻ってくるまで安心できなかった」

 ガートルードの隣にニアールが腰を下ろした。クセのある焦茶色の髪の下から覗く同じ色の目がゆるやかに英雄を映す。

「すまない、無茶を言ったのは自分でもわかっていた」

 英雄は苦しげな笑みを浮かべた。

「私は何事もなく帰ってくると信じていましたよ」

 マドラ・ルアは美しい笑みで応えた。

「ぼ、僕も信じていました」

 薄茶色の短髪を乱すように身を乗り出したウィスカもマドラ・ルアに同意するように叫んだ。

「ありがとう。……皆、本当にありがとう」

 英雄の瑠璃色の目は淡く揺れ、焚き火の炎を映して黄金のように輝いた。

 ——この柔らかな面差しは人を魅了する。

 ガートルードは英雄に見惚れるような視線を向ける仲間たちを見て、わずかな不安を感じた。

 英雄がいつかその魅力を悪しき業として振り撒いたのなら——。

 朗らかな笑い声がガートルードの想像を掻き消した。

 そんな筈はない。

 あいつは英雄なのだから——。




 夜明けと共に英雄一行は拠点とする村に向けて旅立った。道中の小さな村で預けておいた馬に乗り、先を急ぐ。

「追手は大丈夫そうだな」

 二アールが後ろを警戒しながら言う。

「監視がついているかもしれん。鳥にも注意しよう」

 ガートルードが空に目を向ける。

「魔力の気配はしないので、追手も監視もいまのところ大丈夫だと思いますが……」

 ウィスカが周りに視線を滑らせる。

「……〈魔王〉の脅威が感じられなくても、道中の危険は変わりない。不逞の輩にも魔物にも警戒しよう」

 英雄は傍を走る馬に目を向けた。

 魔者の子は相変わらず無表情で馬を駆っている。

「大丈夫か?」

 英雄の問いに魔者の子はわずかに頷いた。

「そうか」

 よかった、と英雄は噛み締めるように呟いた。


 途中何度か道中をうろつく魔物を退治しながら進み、英雄たちが拠点とする村に無事たどり着いた頃には、夕食が始まろうかというところだった。

 村の入り口に英雄が姿を表すと、よく通る美しい声が響いた。

「ブラン!」

 英雄が声の主を認めて破顔した。

「ドラウグ!」

 ドラウグはブリュネットの髪を軽やかに揺らして英雄に歩み寄った。

「おかえり」

「あぁ、ただいま」

「ご飯用意できているよ」

 大きな鳶色の目に英雄を映してドラウグがほほ笑む。

「ありがとう」

 英雄は安心し切った声で応え、馬を降りた。

 村人が次々と集まってきて英雄たちの無事を祝った。

 輪の中心にいながら英雄は魔者の子を庇うように立ち、村人たちの祝福を受け取った。

「そろそろご飯にしたいのだけど?」

 一向に止まない祝福の雨を見かねてドラウグが声を上げた。

「そうだ。メシを食わせてくれ」

 ニアールが同調する。

「お話は、食事をとりながらゆっくりするとしましょう」

 アドラ・ルアが村人たちを諭すように言い、ミュリエルも賛成と手を上げた。

 英雄たちは、住処である村で一番大きな家に移動し、村人たちを交えて賑やかな食事を始めた。

「今日の料理は、パンとエンドウ豆のスープにハーブのサラダ、チーズ、豚の塩漬け肉にワインです」

 料理の乗った大皿を運びながらウィスカが言った。

「いやに豪勢だな」

 ガートルードはテーブルに並ぶ料理を感心したように見回した。

「団長が無事帰ってきたお祝いだそうですよ」

 マドラ・ルアが木製のコップを並べながら応える。

「ワインだってとっておきを出すもの」

 ミュリエルがワインの入った素焼きの水差しを抱えてやってきた。

「確かによさそうな酒だ」

 ニアールがさっそく水差しに手を伸ばした。

「あ、まだだよ、ニア。みんな揃ってから」

 ミュリエルがすかさず水差しを脇にやる。

「そういえば団長が来ていないな」

 ニアールが中央の空席を見やる。

「どこにいるか知っているか?」

 ガートルードの問いに、皆は一様に首を横に振った。

「すまない、待たせた」

「あ、団長」

 戸口近くにいたミュリエルが声を上げると同時に英雄が部屋に入ってきた。

「着替えに手間取ってしまったよ」

「あれ、あの方は?」

 ウィスカが団長の背後を確かめる。

「いま上の部屋で休んでいる。皆に紹介するのは明日にしようと思う」

「そうですね。長い旅路の果てに知らない場所と大勢の人。疲れない方はおかしいですね」

 仕方ないですよ、とウィスカはほほ笑んだ。

「さぁ、食事にしよう」

 武装を解いて普段着に着替えた英雄は、青年らしい溌溂さとどこかあどけなさがあり、対面するものに不思議な親しみを感じさせた。

 英雄が席につくと部屋中が明るく、楽しげな雰囲気になる。

 ——これがガートのいう魅力か。

 一足先にワインを味わっていたニアールは心の中で思った。

 戦場での容赦のない戦い振りと、いま隣で屈託のない笑顔を向ける英雄が結びつかない。長年傭兵として各地を放浪し、様々な集団を渡り歩いてきたニアールだが、これほど強烈に人を魅了しながら、苛烈に戦い抜く強さと残忍とも言える冷徹さを持った傭兵は見たことがなかった。

 ——だからこそ、この人の行く先を見てみたい。

 ニアールがアルトス傭兵団に骨を埋める覚悟をした理由だった。

「では皆の無事を祝って」

 乾杯、と英雄が杯を掲げると、部屋中の盃が同じように天を指した。

 そして賑やかな宴が始まった。

 やはり皆が聞きたがったのは〈魔王〉の城に潜入したときのことだった。

「——確かに無謀な作戦だと思ったが、やれないことはないとも思ったんだ。〈魔王〉軍の侵攻は止まるところを知らなかったし、ここで食い止めないといつ国王の喉元まで踏み込まれるかわからなかったしね」

「それで城の中はどうだったの?」

「やっぱり魔物だらけで恐ろしかった?」

 子どもたちが英雄の膝元で、止まるところを知らぬ好奇心を湧き上がるままぶつけた。

「そうだね。こんな魔物がいっぱいいたさ」

 英雄は両手を大仰にふりあげた。途端にキャーという悲鳴と笑い声とが上がって、バタバタと子どもたちが駆け出した。

「どうしたの? そんな大声出して」

 ドラウグが驚いた顔で部屋に入ってきた。

「いま団長が怖い話を」

 ミュリエルがニヤリと笑った。

「こ、怖い話じゃないって」

 ウィスカが慌てて訂正する。

「どちらにせよ楽しい話ね」

 ドラウグが笑って英雄に歩み寄る。

「……少し食べてから横になったの。だから起こさなかった」

「あぁ、それでいいよ。ありがとう、ドラウグ」

 英雄は隣の椅子を引く。

「ありがとう」

 ドラウグはゆっくりと腰を下ろした。

 走り回っていた子どもたちは叱る声をものともせず舞い戻ってきた。

「ねぇ、団長さま、続きは」

「続きはね」

 団長は笑顔で物語を続けた。

「城の中は静かだったよ。魔物はね、そんなにいなくて、城の外の森やなんかをねぐらにしていたみたいだ」

「どんな魔物がいたの?」

「ドラゴンが何匹もいたよ。鋭い爪、ギラギラと光る目玉はとても怖かったよ」

「でも団長さまはドラゴンに勝てるんだよね」

「あぁ。勝てるさ。だからいまここにいるんだよ」

 子どもたちから歓声が上がる。耳を傾けている大人たちも感心したようにため息を漏らした。

「そうそう、珍しい魔物がいたんだ。ゴーレムがね」

 ゴーレム、と聞いてウィスカの顔色が変わる。

「ゴーレムってやっぱり〈魔術師〉が使役していました?」

「どうだろうな。もうひとり魔術の使い手がいたんだ。〈侍従〉と呼ばれていて、〈魔術師〉と同じようにフードで顔を覆っていたからどんな種族かはわからなかったが、かなりの使い手だと思うよ」

「〈侍従〉か」

 ウィスカが呟く。

「つねに〈魔王〉のそばにいるやつだろう」

 ニアールが口を開く。

「見たのか?」と英雄。

「いや。俺は見ていないが、〈魔王〉軍と遭遇して命からがら逃げ帰ってきた奴が言ったんだ。『長いローブをまとった悪魔が突然火の雨を降らせた』とね」

「狂ったように何度も叫んでパタリと死んだ奴だろう? 私も似たような奴を目撃したよ」

 ガートルードは眉間に皺を寄せた。

 楽しい宴は一転して暗い雰囲気に叩き落とされた。

「で、でも団長さまは勝てるんでしょう」

 重い沈黙を破って子どもたちが声を上げる。

「あぁ、大丈夫。私を信じてくれ」

 英雄はひとりひとりの頭を優しく撫でた。

「やったぁ!」

 子どもたちはまた歓声をあげて駆け出した。

「そうだった。楽しい食事だったな」

「暗い話は後だな」

 ニアールとガートルードは困ったように笑った。

「す、すみません。僕が余計なことを」

 ウィスカは立ち上がって頭を下げた。「

「大丈夫だよ、ウィスカ。いずれ話さなければならないことだったからね」

 英雄は優しく笑いかけた。

「ほら、これを飲んで楽しんだらいかがですか?」

 マドラ・ルアがウィスカの盃にワインをなみなみと注ぐ。

「俺にもくれ」

 酒好きのニアールが盃を出す。

「はい、どうぞ」

 マドラ・ルアはついでに英雄やガートルードにも酒を注いで回った。

「ドラウグも来たし、せっかくだからもう一度」

 ミュリエルが英雄に盃を持つよう促す。

「では改めて」

 ——乾杯! と朗らかな声が響いた。


 宴は夜半まで続いた。村人たちは夜が更ける前にそれぞれの家に帰ったが、酒豪のニアールとガートルードはワインが空になるまで飲み続けた。

 英雄は久しぶりの酔いをゆっくりと味わいながら、仲間たちとの団欒を楽しんでいた。

 〈魔王〉の城から魔者の子を連れて無事帰還した達成感と、生死をかけた戦いで高揚した闘志——あるいは極限状態で生じる衝動と興奮の冷めやらぬ疼きが英雄の酔いを早めた。

「ブラン、大丈夫?」

 ドラウグが水の入ったコップを差し出す。

「ありがとう。今日は少し飲みすぎた」

 英雄は受け取った水を一気に飲み干した。

「確かに少しあなたらしくない」

 ドラウグは隣に腰掛けながら言った。

「節度のない《英雄》はお嫌いか?」

 英雄が珍しく軽口を叩く。

「節度のない《英雄》は嫌いだけど、たまに羽目を外すブランは楽しそうでいいと思う」

 赤みを帯びた鳶色の瞳が柔らかな弧を描く。

 美しい笑みだ、と英雄は思った。と同時にドラウグの過去を慮り、言葉が口をついて出た。

「……キミも楽しんでいるか?」

 ドラウグの横顔に問う。

「えぇ、とても」

 横顔はゆっくり英雄を見て、そして楽しげに酒を酌み交わす仲間たちに向けられた。

「ブランやガートたちに出会えてよかったと心の底から思っているよ」

 あの人もそう思ってくれたら、とドラウグは顔を上げた。

「そうだな」

 英雄も魔者の子が休んでいる部屋に目を向けた。




 柔らかな光が窓を塞ぐ鎧戸の隙間から寝台に落ちて、魔者の子は朝が来たことを知った。

 おもむろに半身を起こし、部屋を見回す。

 質素な石造りの壁に大きな窓が一つ造られている。

 いま横たわる寝台の反対側に木の机と椅子があり、その脇にチェストが置かれているだけで、飾り気のない素朴な部屋だった。

「おはよう。もう起きているかい?」

 ノックと共に英雄の声が響き、続いてゆっくりとドアが開いた。

「よく眠れた?」

 英雄は鎧戸を開けながら言った。

 魔者の子は小さく頷いた。

「よかった」

 英雄は椅子を引き寄せてベッドの脇に座った。

「もうすぐ朝食ができるから一緒に食べよう」

 英雄は魔者の子をじっと見つめた。

「……起き抜けで悪いが、あなたに話がある」

 英雄の瑠璃色の瞳が魔者の子の黒い瞳を捉える。

「あなたの名前を教えてほしい」

 魔者の子はおもむろに首を振った。

「名前がないのか?」

 魔者の子が頷く。

「あの城にいた者は誰もあなたを名付けなかったのか……」

 英雄は考え込んだ。

 〈魔王〉の城にいた者は〈騎士〉や〈魔術師〉、〈侍従〉などと呼ばれていた。

「確かに固有の名前は聞いたことがない」

 英雄はしばらく黙って考え込んでいたが、やがて決意したように顔を上げた。

「私の名はブラン。アルトス傭兵団の団長だ」

 一呼吸置いてから口を開いた。

「あなたに名付けることを許してほしい。そして私と……、私たちと一緒に生きてほしい」

 魔者の子は身じろぎひとつせず英雄を見つめ続けた。

「あなたの名は……、カラ。……カラと呼んでもいいか?」

 英雄は不安げに魔者の子を見守る。

「…………」

 魔者の子はゆっくりとしかし確実に頷いた。

「ありがとう、カラ……」

 英雄は喜びとも悲しみともつかない顔でカラを見つめた。


 英雄とカラは連れ立って部屋を出て、一階の食堂に向かった。

「おはよう」

「おはようございます」

 すでに食堂に集まっていたガートルードたちと挨拶を交わして席に着く。

「おはようございます、団長。今日の朝食はこちらです」

 マドラ・ルアが温かいスープを英雄の目の前に置きながら説明し始めた。

「パンとワイン、ベーコンとそら豆のスープ、タラの燻製とチーズ、それに果物が少々」

「ありがとう。今日も美味しそうだね」

 英雄は質素だが賑やかな食卓を見回し、全員が席に着いたところで声を掛けた。

「ではいただくとしよう」

 皆が胸の前で手を組み、

「いただきます」

 と呟き、食事を始めた。

「そろそろ小麦が少なくなってきましたね」

 マドラ・ルアがパンを手に口を開いた。

「なら俺が行こう。ちょうどマークスの村に用があるからな」

「ありがとう、ニア。助かります」

 マドラ・ルアがニアールに頭を下げる。

「そうだな。しばらくは村で静養できると思うから、いまのうちに備蓄や修繕をやってしまおう」

 英雄が一同を見る。

「鍛錬も忘れないように」

 ガートルードが付け加えた。

「鍛錬と言えば、ドラウグ。また弓を教えてほしいのだけれど」

 ミュリエルがドラウグに期待の眼差しを向ける。

「もちろん。私でよければいつでも」

「やったぁ! ありがとう、ドラウグ」

 ドラウグの応えにミュリエルは両手を上げて喜んだ。

「私も一緒に教えていただこうかな」

 とマドラ・ルアも手を上げる。

「えぇ、一緒に鍛錬しましょう」

 ドラウグはふたりにほほ笑みかけた。

「僕は書庫に籠ろうかな。まだ読んでいない技術書があるし」

 頬杖をついたウィスカが中空を見ながら呟く。

「本か。マークスの村で良さそうな本があったら買ってこよう」

「本当ですか!」

 ニアールの言葉にウィスカが興奮気味に立ち上がる。

「あぁ、本があれば、だがな」

「ありがとうございます」

 ウィスカは何度も感謝の言葉を口にした。

「他に必要な物はあるか?」

 ニアールが声を掛ける。

「あ、塩がほしいな。近いうちに狩りに出るつもりだから。いまのうちに塩漬け肉をたくさん作っておこうと思って」

 ミュリエルが言う。

「わかった」

「よさそうな革があったら買ってきてほしい。剣帯を直したいんだ」

「私も上着を仕立てたいので毛織物があれば」

 ガートルードとマドラ・ルアも要望を出す。

 ニアールは頼まれたものを小さな紙片に書きつけ、英雄に目を向ける。

「団長はどうだ?」

「私は大丈夫だ。後でマークスに会いにいくつもりだから」

「そうか」

 ニアールは紙片を小さく畳んでベルトに挟みこんだ。

 皆の食事が一段落したところで英雄が口を開いた。

「……改めて皆に紹介したい」

 英雄は隣に座るカラを見やる。

「カラだ。今日から私たちの——アルトス傭兵団の仲間だ」

 カラは向けられたいくつもの視線に動じることなく、ひとりひとりの顔を確かめるように見つめた。

 カートルードが不意に立ち上がり、切れ長の目をカラに向ける。

「……ガートルードだ」

 若葉色に燃える瞳がまっすぐカラを貫く。

 カラは瞬きせずに受け止め、おもむろに頭を下げた。

「よろしく頼む」

 ガートルードは短く言い、腰を下ろした。

 続いてニアールが口を開く。

「ニアールだ。見ての通りドワーフで、力仕事なら自信はある。よろしく」

 カラはガートルードと同じように丁寧に頭を下げた。

「私はマドラ・ルアと申します。斧槍ハルバートを使い、ガートやニアと共に前衛を担うことが多いです。詳しいことは追々お話しできれば」

「ぼ、僕はウィスカです。あ、あの……じゅ、術が少し使えます。よろしくお願いします」

「ミュリエルです。弓矢使いになるべく修行の真っ最中です。どうぞよろしく」

 マドラ・ルア、ウィスカ、ミュリエルもそれぞれカラと挨拶を交わす。

「最後に、ドラウグ」

 英雄に促されてドラウグが口を開く。

「ドラウグです。アルトス傭兵団の副長をしています。村の暮らしに慣れるまで何でも遠慮なく聞いてね、カラ」

「ドラウグは《狙撃手》とあだ名されるほど射撃の名手なんだ」

 英雄が尊敬の眼差しをドラウグに向ける。

「だと良いのだけれど」

 ドラウグは困ったように笑った。

「謙遜するな、ドラウグの腕は私が保証する」

 ガートルードが敬意を込めて言い、ニアールたちも同意した。

「ありがとう」

 ドラウグははにかむように笑った。

「これで自己紹介は終わったか」

 英雄がひとりひとりの顔を見る。

「皆、今日からまたよろしく頼む」

 英雄は深々と頭を下げた。




 朝食の片付けを手伝うカラの元にニアールがやって来た。

「カラ。すまないが小麦の粉挽きを手伝ってくれないか。ここには風車がないから、いつも近くのマークスの村に行って挽いてもらっているんだ」

 カラは頷いた。

「ありがとう。半刻ほどしたら出発するつもりだから、用意ができたら家の外で待っていてくれ」

 そう言うと、ニアールは忙しそうに厨房を出ていった。

「マークスの村までは馬で二時間くらいだけど、道が険しいから気をつけてくださいね」

 ウィスカが洗い物の手を止めて言った。

「今日はずっと晴れそうですが、外套は羽織って行った方がいいですよ」

 マドラ・ルアが付け加える。

 カラはふたりを見て頷いた。

 ニアールは小麦を積んだ馬二頭を引き連れて家の前にやって来た。

「待たせた、カラ。準備はいいか?」

 カラは頷き、馬の手綱を取って颯爽と跨った。

「気をつけて」

 村の門の前で英雄の見送りを受け、カラとニアールは旅立った。


 ニアールがおもむろに口を開いた。

「マークスのことは聞いているか?」

 カラは首を振った。

「マークスは、アルトス傭兵団の創立者で初代の団長だった。ブランはその座を譲り受け、二代目の団長となった。マークスはその後、村を起こして長をしている。俺たちの村は、村というには小さすぎて設備も不十分だ。そこで足りない設備はマークスの村のものを使わせてもらっている。設備だけではなく物資の交換や買付も行っている。いわば俺たちの生命線といったところだ」

 ニアールはため息を漏らした。

「俺たちの村ははぐれ者の集まりでな。よそではまっとうに暮らせない者がほとんどで、だからあんな山間に隠れるように村を作ったんだ。マークスの村の人たちは事情をよく知っているから俺たちにも普通に接してくれるが、他の連中は近寄りさえしない。だから俺たちも離れて暮らしているんだ。無駄な火種は作りたくないからな」

 橋のない小さな川を渡りながら、ニアールは続けた。

「はぐれ者と言っても、俺たちの村の連中は気のいい奴らばかりだ。団長が作った規律をよく守り、質素ながらも良い生活を送っている。逆にそれを守れない奴は村を去るか、団長に歯向かって死んでいる。団長は優しいが冷徹だからな。仇をなす者には厳しい。そういうわけか、いつしか英雄なんて呼ばれるようになったがな。俺たちには団長であることに変わりはない」

 ニアールは不意に立ち止まった。

「……だからこそお前を助けに行く、なんて言い出したときは驚いた」

 鋭い視線をカラに向ける。

「カラ。お前は以前、団長と出会っていたのか?」

 カラは答えなかった。

「覚えていないのか?」

 ニアールの声にわずかな殺気が乗っている。

 カラは首を振った。

 ニアールはしばらく息をつめてカラを見つめていたが、

「そうか……」

 と呟いて息を吐いた。

「いや、すまない。お前を疑っているわけではないが、お前の魔物としての出自がどうしても引っかかるんだ。もしお前が罠として俺たちの中に侵入してきたら、と考えずにはいられない。多分ガートやマドたちも同じことを考えている」

 だから連れ出したんだ、とニアールが苦い顔をした。

「すまないと思っている……、と同時に確信が持てればすぐにでもお前を始末しようと思っていた」

 カラはまっすぐニアールを見つめた。

「だが、その判断はつかない」

 ニアールはカラから視線を外した。

「お前の疑いが晴れたわけではないが、確信も持てない」

 ニアールは顔を歪めた。

「お前を信じていいのか? カラよ」

 カラは一度大きく瞬きをした。

「……そうか、そうだな。己の力で見極めねばダメだな」

 そう言うとニアールは再び歩き出した。

 カラは無言で後を追った。


「着いたぞ」

 ニアールは木組の門の前で馬を降りた。

「ここがマークスの村だ」

 カラも馬から降りて門をくぐった。

 マークスの村は賑わっていた。

 大通りの左右に草葺き屋根の木造の家が並び、鍬や鋤をかついだ農民や農作物を乗せた荷車を引く馬が行き交い、その間を子どもたちが大声を上げながら駆け抜けていく。旅の途中に立ち寄ったと思しき人の姿も見える。

「この先の広場では市が立っているはずだから、後で寄っていこう」

 ニアールは村を案内しながらマークスの家へ向かった。

 家々の合間には小道が張り巡らされており、牧草地や農地へと伸びている。時折にわとりや犬の鳴き声が聞こえた。

「賑やかだろう」

 通り過ぎる村人たちを見ながらニアールが言った。

「だがここは近隣の中では小さい方の村だった。魔物に襲われ、周辺の村が次々と消えて人が集まり、ここまで発展した。この村も安全とは言い難いが、マークスや腕利きの傭兵上がりなんかがいるお陰でそれなりに暮らしていけるんだ」

 家の前に座り込む男がニアールに気づき、声を掛けてきた。

「よう。また粉挽きか?」

「あぁ、また世話になる」

 男はカラに目を向けた。

「新入りか?」

「あぁ、マークスに紹介しようと思ってな」

「マークスはいま城に行ってるはずだ」

「城?」

 ニアールの顔が曇る。

「そうか。わかった。ありがとう」

 男に礼を告げ、ニアールとカラは再びマークスの家を目指した。

 マークスの家は石造りの大きな家だった。

「ここだ」

 庭先で遊んでいた子どもがニアールに気づき、大声を上げた。

「ニア! ニアだ」

 ぶつかるような勢いで駆けてきた子どもを抱きとめ、ニアールは笑顔を見せた。

「元気だったか」

「うん」

 子どもは満面の笑みで応える。

「マークスはいるか?」

「ううん、いない。朝からどっか行ったよ」

「そうか」

「ねぇ、今日は遊べる?」

「いや、今日は粉挽きに来ただけだからすぐ帰るんだ」

「えー、つまんないの」

 子どもは不満げな顔でニアールの顎髭を引っ張る。

「またすぐ来るさ。そのときまで待っててくれ」

 約束だよ、と子どもは笑った。

「あれ?」

 子どもはニアールの後ろにいるカラに気づき、

「だれ?」

 と声を上げた。

「新しい仲間——カラだ」

 カラは子どもに向かって頭を下げた。

「へぇ、カラっていうんだ。よろしくね」

 子どもは無邪気な顔でカラを見つめた。

「ニアール」

 家の扉が開いて、中年の女性が出てきた。

「いらっしゃい」

「女将さん、お久しぶりです」

 ニアールは深々とお辞儀をした。

「マークスはいますか? 新入りを紹介しに来たのですが」

「ごめんなさいね。あの人、呼び出されていまお城に行っているのよ」

「そうですか」

「いつ戻るかはわからないのだけれど。あぁよかったら少し休んでいかない? 今年のエールはおいしいのよ。そちらの新入りさんもぜひ」

 女将はカラにほほ笑みかけた。

「折角ですが、これから用事を済まさなければなりませんので、またお伺いしたときにご馳走になります」

 ニアールたちは丁寧に礼を述べてマークスの家を後にした。

 村のはずれにある水車小屋に行き、積んできた小麦を粉屋に頼んで挽いてもらった。

「さて、一番の目的は果たしたが、まだ時間はある。さっき言ったように市を見に行くか」

 馬の背に小麦の入った袋を積みながらニアールが言った。

 カラが頷くと、ニアールは小さな紙片を取り出した。

「本と革と、塩。それに毛織物か。結構な大荷物だな。お前も何か欲しいものはあるか?」

 カラはちいさく首を振った。

「そうか。まぁ市は見るだけでも楽しいし、各地の情報も集まってくるからな」

 ニアールは手綱を取り、村の広場に向かって歩き出した。


 市が立つ広場には色とりどりの屋台が並び、あらゆる品物が商人たちによって売り買いされていた。

 ニアールは広場の入り口に立ち、市の様子を見回した。

「今回もたくさん集まっているな。人も多いし、はぐれるなよ?」

 人波に目を向けていたカラはニアールを見て頷いた。

 山のように積まれた革や鮮やかな毛織物や整然と並ぶ精巧な細工の飾りがついた武具を手に取る村人たちに、商品の良さを訴える商人たちの声が飛び交い、広場は異様な熱気に包まれていた。

 ニアールは頼まれていた物を買い集めると、

「カラ。何か欲しいものはあったか?」

 と訊いた。

 後ろを歩いていたカラは立ち止まり、少し考えてから首を振った。

「そうか。なら……」

 ニアールの言葉を遮るように近くで悲鳴が上がった。

「泥棒!」

 すぐさまニアールは声の方へ走り出した。

 人混みをかき分けて進む不審な男を見つけて突進した。

「待て!」

 男は人混みを起用にすり抜けて広場の出口まで一気に駆け抜けて行った。

 ニアールはドワーフ特有の——小柄だが屈強な——体が邪魔して思うように進めない。

「くそ」

 男が出口を抜けた直後——。

「……うッ」

 頭上からカラの襲撃を受け、無様に転倒した。

「ちくしょうッ」

 なおも抵抗の意志を見せた男に、カラは容赦なく剣を突きつけた。切っ先が男の目に迫り、弱々しい悲鳴が上がった。

「カラ!」

 ニアールの声でカラは剣を引いた。

「よくやった」

 駆けつけたニアールは手早く男を縛り上げ、村の自警団に引き渡した。

「さすが団長が見込んだだけのことはある」

 ニアールはカラを褒め称えた。

 カラは連行されていく男を一瞥して剣を収めた。

「いい剣だ。誰かに貰ったのか?」

 ニアールの問いにカラの心が揺れる。

 ——強くなれ。俺を、陛下を殺せるほど——

 剣を授けてくれた〈騎士〉の声が耳の奥に蘇る。美しい銀の髪が揺れ、翡翠色の目が優しくしかし険しく瞬く。

 初めて手にした剣の重みを噛み締めた日を思い出し、カラは人知れず動揺した。

「貰ったのか……」

 カラの様子で経緯を悟ったニアールは一瞬厳しい顔をしたが、すぐにいつもの表情に戻った。

「帰ろうか」

 我が家に、とニアールは呟いた。

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