13.今回も風呂場の天井で

「うっっわぁああ!」

 出た。久しぶりにでた。黒、いや茶髪か。本体は半透明の白、脚は八本。名称は蜘蛛。正式名称は知らない。この地域じゃおなじみなのだろうか、この品種ばかり現れる。今回は、いや今回風呂場の天井にこんにちはだ。

 何度見ても、毎回驚く自分が少々情けないが、幼い頃から虫は苦手なので勘弁してほしい。どうしてかと聞かれたら即答する。気持ち悪いからである。無害であることも、襲ってこないことも、ただ飛び跳ねるだけであることもわかっている。それでもうわぁっとなってしまうのは、決して怖いからではない、気持ち悪いからだ。誰がなんと反論しようとも、そう言い張る準備はできている。この感情は畏怖ではない、嫌悪である。

 こいつが現れたときの葛藤は非常に面倒くさいため、出現すると毎回大きな溜息はまぬがれない。春、一人暮らしを始めたての頃は、退去者は割とギリギリまで入居していて数日前まで人が住んでいたというのにどういうわけか蜘蛛が沢山湧いてきた。いや、別に湧いたというわけではないのだが、私が住み始めてすぐに何匹何匹も出現しては私の平穏な生活を脅かしていた。

 天井のシミやクーラーの陰、溜まったほこりに自分の髪の毛、あらゆるものが奴に見えてビビり倒していた。あのストレスだけで少なからず寿命は縮まったと思っている。おのれ蜘蛛め。家に帰っても気が抜けない現象には本当に気が滅入った。なんならそのせいで少し病んだ。ただでさえ慣れない環境に一人放り出されているのに。お前らは歓迎会開いてくれなくていいんだよ。虫相手だとどう頑張っても口が悪くなる。日頃と口調は変わらないという反論は一切無視することとする。

 しかし、今の私は春先とはひと味違っているので何も恐れるものはない。いや、大きさによっては結構格闘するのだが。(過去最大サイズがお風呂場の天井に張り付いていたときは流石に脱兎の勢いでその場を一時離脱した)とはいえひと味もふた味も違うことに変わりはない。

 感謝すべきはネットの民である。プリンの空容器の外側の底部分にキッチンペーパーの芯を垂直にテープで固定し、トイレのスッポン状の兵器を作る。芯の部分を取っ手として持ち、容器をターゲットにかぽっとかぶせてする。そうすると、驚いたターゲットは壁伝いに容器の底の方に来る。この状態で天井や床から容器を離してひっくり返し、素早く板状の何かで蓋をすれば捕獲完了である。

 新たな住処すみかとなったこの家にプリンが来たことは今までなかったが、必死の捜索の結果、中身を全部出した麺棒めんぼうの空容器が最適だと発見できた。中身の全四十本は洗い終わった後のフォークや箸を立てかけておくアレに入れて(これも正式名称は知らない)おくことにした。この状態は今でもそのままになっており、入れ物の方も麺棒も、まさかこんなタッグを結成する運命を辿たどるとは一ミリも思わなかったことと思う。嫌だとしても、私の家に持ってこられた不運を呪うんだな。せいぜい仲良くやってくれ。使われているだけ良いと思ってもらうことにした。

 そんなこんなで初夏に作ったというか備えたこの空容器とカッター板をそれぞれの手に持ってじりじりと距離を詰める。大事なポイントは、怖いもの見たさでターゲットを凝視しないことである。仮にここで心が折られてしまうと、長期戦に突入する悪い機会になってしまう。一度ビビった対象は、何回も捕獲したことのある対象と同類だとしても克服するまでに時間がかかるのだ。もう素っ裸で何十分も格闘した挙げ句風邪を引くような事態はごめんだ。

「っう、っしゃあ」

 今回はスムーズに捕獲できた。この後外に逃がすまでがワンセットとわかっていつつも、毎回この状態で数日放置してしまう自分は随分とむごいと思いつつ、またやるのだろう。蜘蛛は何も悪くないのにごめんなさい。数日経つと蜘蛛の巣を若干張り始めるから逃がしにくくなる、とわかっていつつも放置してしまう。理由は様々だが、どれも言い訳にあるので素直に謝罪の意を示しておく。謝るなら行動で示せと怒られているとは思う。

 ちなみに最後に補足しておくと、決して善意だけで虫を逃がしている、つまり殺さないでおくのではない。この話をするとよく「えっ、逃がすの?偉いね~」と時に率直な感想として、時に嫌味ったらしく言われるのだが、断言しよう、偽善ぶるつもりはない。答えは簡単に一言こうだ。

「え、だって潰したその後の処理嫌なだけなんです」

 無論、ティッシュ越しだろうと関係ない。もう一切、一切触れたくないのだ。感触すら知りたくない。だから今日も私はこうしてプラスチックという絶対何も染み出さない最終兵器を両手に戦いを挑むのだ。


 春を越え、夏になったらまた蜘蛛や小蠅こばえとの格闘の日々が始まるかと思うと不安で憂鬱な気持ちになると溜息をついて寝床に入った。

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