5.自分の時間、とは

 大学受験の時も強烈に思った、「自分の時間」って、どこまでを指すのだろうか。何を持ってそう言うのだろうか。

「時間がない」。人々はしばしばそう嘆く。私、岡山桃科おかやま ももかも例外ではない。けれども、果たして本当に「時間がない」のかは、どう定義するかによって変わってくるだろう。

 単純な「時の流れ」を「時間」と呼ぶのであれば、時間がない人間など、少なくともっこの世にはいない。あの世のことは知らん。自分が楽しいと感じる時間を「自分の時間」と呼ぶのであれば、もしかしたら学校・会社の昼休みや仲間と駄弁だべる部活動の束の間の休憩ですらもその範疇かもしれない。自分がやりたいことに取り組める時間を指すのであれば、これは、「時間がない」人もいるかもしれないし、逆に苦しみの渦中でも「自分の時間がある」のかもしれない。

 時は遡る上に完全な私事わたくしごとになるが、大学受験を控えた高校三年生の時期も、こんなことを頻繁に考えていた。夏を過ぎ、秋の終わり頃には既に授業はカリキュラムを終えていて、要するに、学習すべき教科書は一通り全科目終わっていて、自習や演習が大半となってくる。日々の宿題があるわけでも、なく各々志望校に向かって「自分の勉強」なるものを始めるのだ。勿論部活動も引退済みで、まあ放課後講習が開催されたりもしたがそれを過ぎるといよいよ授業時間以外は束されたり強制されたりする予定が空っぽになる。その時間を考えたのだ。

 私には、たしかに時間があるはずなのだ。だけど、(もちろん意欲的に勉強に取り組める生徒は別として)「自分の時間が欲しい」と熱望したあの焼け付くような感情をありありと思い出せる。自由に動ける時間が、平日休日問わず山ほどある。それなのに自分が人生において死ぬ前に念願叶えたいと切に願うことは実行を許容され得ない。物理的には拘束されていなくても、心の中で「勉強しなきゃいけないときになんてことに時間を割こうとしているのだ」また周囲の無言の「頑張れよ」の圧力が私を確実に拘束していた。毎日毎分毎秒、思っていた。「自分の時間が欲しい」。

 どうせいつか死ぬのだ。どうせいつか社会に出て働くのだ。どうせいつか「自分の時間」は失われていくのだ。それなのに、どうして最も自由だと感じられる今、私の中で優先順位第一位の物事に取り組めないのだろう。不条理である。

 毎日そんな理論に囚われて、私は大分病んでいたと思う。焦燥感が消えないのだ。SNSを開けば、小学○年生や中学○年生が毎日のようにイラストを挙げている。神絵師なんてあがめ奉られてちやほやされている人もいればまだまだ未洗練のものもあるが、そんな完成度は重要ではないと私は知っていた。継続する行動と熱意にはそうそう敵うものではない。若い世代の余裕ある日常は私にとって脅威に感じられた。プロになりたいわけでもないのに、である。

 そんな日々を乗り越えたのか流していったのか、とにかく今私はなんとかここに辿り着いた。辿り着くことができた。焦燥感はいつまで経っても消えはしないが、病むことなく「自分の時間」について考えることができるまでには落ち着いた。


 シャワーを浴びる時間も「自分の時間」だし勉強する時間も「自分の時間」、趣味の時間だって「自分の時間」。何を持って時間がないのか、今でも考えはするが、とりあえず毎日に充実感を感じ、納得する形で日々を消費していければな、なんてドラマに一時間費やしながら思う月曜日の夜だ。

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