強さ

 実は今まで、次は失敗しないために俺はExcelでインシデントとして何を言われ、どう対処してきたかを簡単にまとめていた。また罵詈雑言が書かれていたメールは『反省』というメールボックスを作成して残しておいたので、それも証拠として回収した。


 あっさり証拠は集まったので、会社の倫理委員会へまず提出した。予想通り、形だけの社内調査だけでうやむやに終わったので、次の行動へシフトした。退職後、証拠を弁護士のところへ持っていった。


 今時、相談料0円で弁護士はどうすれば良いか教えてくれるのだ。費用をかんがみて、今回は労働審判という比較的に早く終わる裁判をすることを決定した。


 書面を弁護士が作成してくれるところまで先週やっとたどりついた。後は弁護士がやってくれるので自分がしなければいけないことがなくなった。急に緊張の糸がぷっつりと切れて、しばらく昼だろうが夜だろうが寝続けた。


 目が覚めると、天井を見上げた。自分の家の天井もあの糸くずのような模様が入っている。そこでやっと気が付いた。眼の痙攣はもうとっくになくなっていた。



———これから何をしようか。



 何にも思い浮かばないのだ。


 思えば、両親は俺に多分に期待をしていた。麻友子に比べて。二木の言う、“玉ついてんのか!”っていうただそれだけで。かなり古い思想である。


 それなのに現実は麻友子の方が数段上手すうだんうわてだった。たいして勉強していないのに、要領よくポイントを押さえて、何の運動をやらせてもそれなりにできてしまう。俺は期待されることをこなすだけで精一杯だった。


 親に期待に応えるのが必死で、今までちゃんと自分がしたいことなんて考えてきてなかったことに今更ながら気が付いた。


―――――――――


「ねえ、最近さあ、カンチンファにはまっててさ」

「かんちんふぁ?」

「うん、康珍化カンチンファ

「誰?」

「作詞家なんだけど」

「どんな曲書いてるの?」

「“桃色吐息”とか“悲しみがとまらない”とかの歌謡曲書いてるんだけど」

 最近聞いたな…。ちょっと首をかしげながら、天井を見つめた。そして、

「あ、知ってる知ってる」

「え、わかるの? わからないかと思って話してたけど」

「最近シティポップ流行ってんじゃん。だから最近のシティポップの曲を聞いて、徐々に昔のシティポップ聞くようになったんだわ」

 最近よく聞く杉山清貴&オメガトライブも康珍化カンチンファ作詞の作品が多い。爽やかなサウンドで、このじっとりとした生活に穴をあけてくれるような曲だ。ただ歌詞はそんなに注目したことがなかったが。

「さすが無職って暇だから物知りになるんだね…」

「うっせえ」

「最近離婚してさ、いろんな曲を時々さ聞くようになったんだよね」

「今サブスクあるしな~、いろんな曲を好きな時に聞けるようになったこと関しては良い時代になったわ」

「そうそう。そっかサブスクで急におすすめで昔の歌謡曲が出てきたのはシティポップの影響なのか」

「そうなんじゃない?」

「なんだかんだわたしたちも耳にしたことがあるのに、歌詞をじっくり見たことがなかったけど、おお、そんな意味なんだとか思ったりして中々新鮮で面白い」

「例えば?」

「さっき言った“悲しみがとまらない”って曲は彼氏を友達に紹介しちゃったばっかりに、友達に彼氏を奪われるって話」

「え」


 おいおいそれって。


「おお、が歌になってるんだ、すごいなあ。よくあることなのかもなって思った」

 麻友子の顔を眼の端で覗き見た。ただただいつもどおりに笑う麻友子からは麻友子特有の強さしか感じなかった。

「歌詞の中でさ、“恋はちいさな嵐みたいに 友だちも恋人も 奪って”って書いてあってそこで初めて気が付いたんだよね。そうだ、恋人も友だちも一気になくしちゃったんだ。それでさ、自然と電話かけた相手はあんただった訳だよ」

 麻友子はぐっとアラスカを飲み干した。

「まあ、その歌詞にはたぶん出てこないけど、まだ救いがあるのはボロボロになった俺が兄弟だってことじゃないのかよ」

「何それ? なぐさめてんの?」

「そう」

 酔いが回ったのか麻友子はケラケラと乾いた笑いをした。そして、普段よりも麻友子は饒舌に話し始めた。

「離婚してからさ、歌謡曲の歌詞が沁みて。昔の曲って、歌詞がなんか大人っぽくて、生きてきた時代が違うのに寄り添ってくれるの。不思議だよ。そうやって曲の歌詞をむさぼり読んでたら、今度は本が読みたくなってね。なんの本が読みたいんだろうって思ったらふと思い浮かんだんだよ、ある本を」

「何の本?」

「それがね、題名はまったく覚えてなかったの。たまたま中学生の時に、友達とキャッチボールするために公民館で待ち合わせした時にひまだったから読んだ本で。名言集みたいなものだったんだけど」

「へえ、俺名言集とか苦手」

 なんかいいこと言って気持ち良くなっている偉人を想像するだけで、憂鬱になる。そうか、二木に似てるからか。

「違うのよ! これがすんごい毒々しい内容なんだよ。厭世家えんせいかの名言集だから」

「厭世家? 何その主義?」

「まあ厭世家の定義を知るより名言を聞いたほうが早いかも。たとえば“男はトイレみたいなもの———使用中かキタナイかのどちらかだ”」

 ぎょっとして麻友子の顔を見た。

「いや、それはあまりにもさあ…えげつな」

「ちなみにこの名言は作者多数ってことになってる」

 けっこうな人がこの名言を思いついてるってことかよ。

「わたしも初めて見た時はぎょっとしたよ。でも今は…わかるわ~」

「ちょっと、それって元旦那のこと言ってんの? それとも俺のこと?」

「言えないわ~」

 麻友子てめえこのやろ。

「その中でさ、特に印象的だった名言があったんだよ」




———男性は自分の弱さを詫びるように、

女性は自分の強さを詫びるように教えられる。


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