弱さ

 この上司、名を二木ふたつぎと言うが、性格そのものは悪い人ではない。むしろ普段は偉ぶったりもしないし、女性社員の働く環境のことをよく考えていたりするので、彼の言う理想はたいへん部下思いなのだ。おれは新入社員の頃、この人と会って社会とは汚いところだと思っていたのに、こんなにもちゃんとした、良い考えを持つ人がいるのかと不思議に思いながら聞いていた。


 だが、二木は一度怒り出すと手が付けられない。まるでT-falのように急速に加熱し始め、聞いたこともないような罵り言葉を吐く。1時間ぐらい経つと、ようやく本人の中でのか、

「でもまあ、これは大したことはないんだ。お前はよく頑張ってる優秀な奴だ」

と激励を開始する。


 はじめ俺はこのルーティンを体験した時、こんな俺でもこの人は見捨てないんだ、次こそは頑張ろうと思っていたものだ。言葉でぐちゃぐちゃに傷つけられて、その上で優しい言葉で受け入れられる。その繰り返しだった。


 説教が終わった後、天井を見た。白地に糸くず状の模様が浮かぶ。眼がピクピクと不気味に動いた。

 

 二木の怒りのポイントはどこにあるかが俺には解らない。さきほどまでにこにこしていたのに、今は怒髪天どはつてんく勢いで怒り出すのだ。だからびくびくしなければならず、四六時中、「上司は何でそんなに怒ったのだろうか」と今思えば不毛なことに考えを巡らせていた。


 俺は上司に暴言吐かれても、そんなことその時にいた彼女には言えなかった。

 本当の俺は弱いんだって。怖くて仕方ないんだって。


 そんな時、ひょいっと現れたのが麻友子である。

 

 麻友子とは美歌を産むまで、全く仲良くなかった。俺の知る限り、双子って仲がいいか、距離があるかけっこうぱっくり分かれる気がする。俺たちはお互いにお互いのことを我関せずという態度だったが、お互い仕事や家庭で上手く行かなくなると、二人で少しずつ話すようになった。


「あんた、それってDV被害にあってる女みたいな気持ちじゃない? 逃げられなくなってるよ」

「でもさ、その上司は良い人なんだよ、俺がもっとしっかりすればさ…」

 麻友子の前ではするすると本音が溢れた。

「はあ? 良い人はそんな言葉で部下を傷つけることなんて絶対しないわよ。人は口があるからどんなことも言える。でも行動はその人の真実の姿を映し出すとわたしは身に沁みて学習したよ。だからそいつはあんたを傷つけてる。それがその人の本性だよ。やめな、そんなところ、心壊したら高くつくよ」

 麻友子に言われて、DV男の特徴的言動20選とか読んでみたら…うわあ、当てはまる当てはまる。なんで俺はこんな恋人でもないおっさんに縛り付けられて傷つけられなきゃいけないんだ? その時初めて俺の中で洗脳が解かれていった。


 異様にハイなテンションで退職届をしたためると、勢いそのまま二木に渡した。二木は何故か一回目は笑って、退職届を突き返した。もう一度考えてほしいと。3日考えた。考えは変わるわけがない。もう一度提出した。防音の会議室に連れ込まれ、2時間ほど激しくなじられた。怒りの矛先は俺の家族へ向かった。

「お前はどういう育て方されたんだ?! お前の親もおかしいんじゃないか!!!」

 その言葉に俺は不意に笑ってしまった。


  


 俺はズボンのポケットに入ったスマホの上に手を当てた。ちゃんと今、録音できてるだろうか。ただただそのことばかりが気がかりだった。


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