第3話 夏休みの暑い一日

 アブラゼミやミンミンゼミの声が降りしきる、暑い夏休み。

 周囲には深い木陰や子供の膝までしかないジャブジャブ池で涼んでいる家族連れが沢山いる。

 隼人は暑い中、公園のベンチの上で座禅を組んでいた。

「何やってんの?」

「瞑想」

「そういうのってお寺とか道場とかでやるもんじゃないの?」

「何処だろうと座禅は出来る」

「何もこんな炎天下の公園のベンチの上でやらなくてもいいじゃん」

「心頭滅却すれば火もまた涼し。こういう所でやるからいい修行になるんだ」

「修行ねえ……」

 あたしは青いシャツ一丁で猛烈な汗をかいている隼人に、手持ち扇風機片手に話しかけていた。

 隼人のポンパドゥールは乱れて、リーゼントをキメるヘアワックスは汗に混じって、こめかみに垂れている。

「瞑想出来てるの?」

「話しかけるな」

「無我の境地ってどういうの?」

「人に訊く前にお前も座禅を組んでみればいいだろ」

「悟りって開くとどういう特典があるの?」

「……凄い精神世界の門が開くんじゃないか?」ふと隼人は思いがけずの戸惑いの表情を見せた。「……例えば超能力で万物の真理が解るみたいな……」

「言っとくけど、悟りを開いて超能力や神通力を得た云云とか言ってるのって、本当の悟り開けてないから。それ『魔境』っていって、まだ全然、中途半端な境地だから」

 神秘だのを置き去って悟りという境地がある。あたしは最近読んだ本の受け売り知識を隼人に講釈した。

 あたしと隼人がそんな会話をしていると、暑い太陽の下、公園の池の岸をまわって、般若が小走りで駆けてきた。

 涼しそうなノースリーブのオレンジのワンピースだ。

 彼女は手に屋台で買ったアイスクリームを三つ持っていた。

「ぱんにゃんが来たよ。三人でアイス休憩にしよ」

「俺はいらない。お前が俺の分を食ってくれ」

 あたしはベンチに手持ち扇風機を置いた。

 般若が来た。

 チョコミントのアイスコーンを隼人に手渡そうとしたのを、あたしがひったくる。「隼人はいらないってさ」両手にチョコミントの花。

 うん。チョコミントは不味いんだか美味いんだか解らないところが、絶妙に美味い。

「ねえ、もしかして」あたしはアイスをわざと下品な舌使いでセクシーに舐めあげる。「あんた、瞑想してるふりして、ぱんにゃんのトロッコ問題の答を考えてるんじゃないの?」

「ギクっ」

 あ、隼人、今「ギクっ」て擬音を口に出して言ったよ。やっぱり頭悪いんだ、こいつ。

「……そんな事はない」

「あー、そんな事ないのかー」

 あたしはわざとらしく棒読みして般若に微笑みかけた。

 クール・ビューティー。般若は今の隼人の言動を確かに聴いたのに、まるで何事もなかったかの様にただ笑っていた。

 衝撃の告白のはずなんだけどな。

 自分の魅力に惹かれてる異性に対して気づかなかったのを装う。

 悪女って、こういうのも言うのかもなあ。

 そっかあ、やっぱり隼人も般若の事が気にはなっているんだ。

 こういう時は二人をくっつけるように働くのが親友の筋ってもんかな。

 その時、風が吹いて、あたし達の前髪をさらった。

 般若の額にある一点のほくろが明らかになる。

 いや、本当はそれはほくろじゃない。

 幼馴染のあたし達だから知っている、一見、色素の薄い小さなほくろにしか見えないそれは細かな縮れ毛が集まって出来た塊なのだ。

 これは仏像の額にある物と同じで『白毫(びゃくごう)』という。

 そんな物がある般若はやはりただものじゃないかもしれない。彼女は知れば知るほど神秘性が高まる手合いなのだ。

 それから、あたし達は隼人の座禅の観察会を始める事にした。

 汗だくの隼人を挟んで、ベンチの両脇に立ち、冷たいアイスを食べる。

 どうだ、アイスの涼しい誘惑は。あたし達は仏教でいう修行僧の修行を邪魔する悪鬼、いわゆる魔羅(マーラ)だぞ。

 ミントの何ともいえないスーッとする味。そして、それに溶け混じる甘ーいチョコの味。

 どうだ、隼人。美味そうだろ。

 いわゆる飯テロだ。

 ツクツクボーシが加わって、セミの声が四方八方から降り注ぐ炎天下。

 容赦なく全身を打つ直射日光。じりじりと日焼けの熱光線。

 けなげに座禅を続ける隼人がそろそろ日射病で倒れるんじゃないかなー、と思っていた時、その男は突然、現れた。

「デュフフフフフフ」

 何、この気色悪い笑い声。

 あたしと般若が声の方を振り向くと、傍の木陰から派手なアロハシャツを着た小太りの中年男がのっそりやってきた。

 訂正。中年ではない。

 よく見るとあたし達と同じ辺りの年齢の様だ。

 そういえば、まるで見知らぬ顔ってわけじゃないぞ。

 学園のいっこ下のオタク学生じゃないか。どうも生理的に受けつけない容貌のせいで記憶の中に中途半端に埋もれている。

 気色悪い、という意味では目立つ。だが、名前は知らない。

「私達に何かご用ですか。あなたはどなたでしょう」般若が炎天下でクール・ビューティを保ったまま、誰何する。

「ご用も何も」オタクは首に巻いたクールタオルとは別に、ハンカチをポケットから取り出し、ボサボサ髪の額の汗をぬぐう。「おたくの質問に答えられたら、恋人になってくれるらしいじゃないか」

 げええっ! こんな時に愛の告白なのぉ? しかもこんなえぐい奴に。

「拙者の名は天狗坂王一郎」

 一人称が拙者ときたもんだ。

「どうか、拙者と結婚を前提につき合ってくれぬか」

 なんか、すっごいどストレート。

 オタク全員がこんな奴だとは思わないが、この天狗坂は思いっきり、あの、その、アレだ。

 全国のオタク共に謝れ、天狗坂。

 現場の空気がなんか微妙になってきた。

 周囲にいた家族連れが何人かがこちらに気づいて、眺めている。

 今まで眼を閉じて座禅を組んでいた隼人も、片眼を開けて状況を見ている。居心地が悪そうだ。座禅など組んでいなければ、さっさと恋の告白現場から去っていただろう。

 暑い夏。一気に湿度が高まった。

「さあ、どうですか」天狗坂はまたデュフフと笑った。「ぱんにゃん」

「あたし以外の奴が、ぱんにゃんをぱんにゃんと呼ぶなあ!」

 思わず叫んでいた。

 こんな奴にあたしのぱんにゃんの恋人なんかになってほしくない。

 こんな奴に身も心も捧げてほしくなんかない。

 あたしは般若を見た。

 彼女はこの期に及んでなおクール・ビューティーを貫いていた。

「あなたの告白はとっても嬉しいです。……でも」

 嬉しいのか、本当に。

 こんな奴に遠慮する事はないんだぞ。

「もし私を大事にしたいというのなら、この質問に答えてください」

 あたしは今まで、告白した男子に正解してほしいという応援する気持ちは幾らかあった。

 でも、今回は絶対違う。天狗坂に正解なんかしてほしくない。

「……あなたは線路の傍にいます。その線路は物凄いスピードで走ってくるトロッコがあります」般若は一語一句違わずに問いかけ始めた。「あなたは線路の分岐点で線路の切り替えスイッチの横にいます。線路のまっすぐ先には五人の人間が縛られていて、そのままトロッコが進めば五人は轢かれて死んでしまいます」

 絶対正解するなよ、天狗坂。

「その線路は分岐路があって、あなたがスイッチを切り替えれば、トロッコは分岐路に入ります。しかし、その分岐路の先には一人の人間が縛られていて、トロッコがそちらに進めば、その一人が確実に轢かれて死んでしまいます」

 般若は言葉を溜めて天狗坂へ微笑を送った。

「ブレーキはありません。あなたはスイッチを切り替えて五人を助けますか? それともそのままトロッコを切り替えずまっすぐ進ませて一人だけ助けますか?」

 ちょっとだけ静寂があり、デュフフ、という笑いが炎天下の緊張を切り裂いた。

「ズバリ、それは引っかけ問題ですね」

 引っかけ問題? え、何、こいつ正解を知っているの?

「一人と五人。確実に五人の命の方が五倍価値があると思わせておいて、実は言外に一人の方が別の五人よりもレベルが高いという、そこまで読み取らなければいけない裏設定があるのでしょう」

 ……何言っているの、こいつ。

「読者は作者が言いたい事を読み取らなければなりませぬ。物語を読んで作品世界を正しく読み取るのは読者の義務なんですよね。行間を読む。拙者はそういうスキルを高めた、ネームドレベルの識者なのですよ」

 天狗坂は眼を閉じ、腕を組んで、うんうんとうなずき始めた。

 ……おーい。こっちの世界に帰ってこい。

「ズバリ、人間の総合価値が高い方を助けるべき! 拙者はスイッチを切り替えずに一人だけを助けます!」

 眼を見開いて言い切った天狗坂の顔は、見事なまでにドヤ顔だった。

 それに対する般若の回答は間髪入れずだ。

「残念ですが、私はあなたとはつき合えません」

 その言葉に自信満満だった天狗坂の態度は一転して、ガタガタに崩れた。

 般若は本当に残念だとは思ってないだろうな、きっと。

「なぬ! 拙者の答が受けつけられぬというのか!」

「申し訳ありませんが」

 よほど自分に自信があったのか、天狗坂はこんな現実認められないという表情をあからさまに周囲に見せつけた。

 自信満満のプライドが傷つけられたか。

 天狗坂の心の中にこみあげてくるものがあった様だ。

「……畜生! お前なんかいらねーや、このブス!」

 叫ぶと残念オタクは後ろを向いて逃走を始めた。来た時と逆方向へと木陰の中を走り去る。

「ちょっと待て! 般若の事をブスとか言うな、このどアホ!」

 遠ざかるアロハシャツの背中へ罵声を浴びせたのはベンチの上に立ち上がった隼人だった。

 それはあたしも同じだ。あたしにならともかく般若をブス呼ばわりするのは許せない。

 運動が苦手そうなオタクの背中はえっちらおっちら遠景へ消えていった。

「学園で会ったら、ギッタギタにしてやる」

「暴力は振るわないでね」

 憤る隼人をそう諫めたのは般若だった。

「そうそう。あたし達の評判を、あんなオタクのレベルにまで落とす事はないって」

 あたしはそう言いながら、般若があいつの物にならなかった事に安堵した。

 だが、その時、根本的な疑問が浮かんだ。

「ねえ。もし、あのオタクが正解を言ってたら、あんな奴でも身も心も捧げてつきあうつもりだった?」

「ええ」

 彼女はきっぱり言い切った。

 とてもそれが嘘だとは思えない。

 私はベンチの上に立ちっぱなしの隼人に無言のエールを送る。

 がんばれ、隼人。あたしの心の中では般若を安心して許せるのはあんただけだ。

 それにしてもスイッチを切り替えてもノー、切り替えなくてもノー。般若の中にある正解とはいったい何なのだろう。

 暑い夏休みの一日が過ぎていった。

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