第三十六話 術師という仕事


 一足先に校舎に入った征志郎は、体育館へ続く渡り廊下にいた。つい先ほど、神楽坂から連絡があったばかりだ。


 ——あまり長居はできませんよ。かなり彼のあちらとの同化が進んでいます。


 笛の音に乗って、鼓膜に直接響く声。

(——助かった、本当に)

 征志郎は、心の底から神楽坂に感謝した。彼女が来てくれたことは嬉しい誤算だった。陰陽師、結界術師、祈祷師は、本来3者が揃って初めてそれぞれが十分に力を発揮する。特に、ある程度の規模の怪異の現場において、場の浄化と術師のサポートに長けた祈祷師の存在は不可欠である。近年は人手不足のせいで術師一人でこなさなければいけないことも多いが、古来よりこの3者は行動を共にしてきた。


圭一郎あいつにとっては、きっときつい現場になる)

 征志郎は、半ば強引に連れてきた息子のことを考えた。不謹慎だが、いい機会だと思った。圭一郎は小さい頃から側の人間だったが、それ故にとうまく付き合ってきてしまった。見て見ぬふりをしたり、邪気が濃くなれば祓ったり。だからこそ、彼らの本当の恐ろしさ——人に害をなす、最悪のケースを知らない。知識としては知っていても、目の当たりにしたことはない。

 

 怪異に人が巻き込まれる、犠牲者が出る。おおやけになっていないだけで、それ自体は決して珍しいことではない。年間約8万人いると言われる国内の行方不明者の多くは、怪異が原因であるという。今回のように術士に要請が来ることもなく、誰の目に触れることなく起こっているものもある。

 術師この仕事を続けていくのであれば、避けることはできない試練だ。


 征志郎は体育館の観音開きの扉に手を触れ、目を閉じた。中から感じるのは———激しい怒り。

(……土地神の暴走か。そんなところだろうと思った)

 征志郎は、左手の黒い数珠を握り直した。









 圭一郎は、たった今この目で見た光景を反芻した。教室に吸い込まれるように消えた、上半身。助けを懇願する目。探していた生存者であることは間違いない。


 (——引きずり込まれた?何に?)


 走ってその教室の前へ向かう。教室の戸は磨りガラスになっていて、中の様子が伺えない。戸に手をかけたところで、廊下の床に、点々と黒いシミが続いているのが目に入った。シミに沿って視線を廊下の奥へと動かしていくと——、


「……っ!!」


 無造作に転がるは、どうみても人間の腕だった。そして、そのさらに向こうに、衣服の切れ端と、男物の靴が片方だけ転がっている。

 心臓が早鐘を打つ。4人の犠牲者。その事実が実感を持って襲ってくる。


(……ひるむな。まだ助かる可能性がある人がいるんだ)


 思い切って、目の前の木製の戸をガラリと開ける。そこに広がっていたのは教室ではなく、ただ一面の闇だった。教室の中が闇で満ちているかのように、戸を境に明らかに別世界になっている。その闇に向かってゆっくりと腕を伸ばすと、まるで意志を持った存在であるようにまとわりついてきた。


 たとえ術師でなくても分かる。ここに入るのは危険だ。

 それでも、入らないという選択肢はなかった。一郎は、自分の半径1メートルに簡易結界を張り、息を止めて闇に飛び込んだ。予想に反して、ごく普通の教室の風景が現れる。その中央あたりの床に、警察官らしき格好の、中年の男性がうつぶせで倒れていた。

「おい!大丈夫か?!」

 駆け寄ると、男はぐったりとしていたが、息をしていた。圭一郎は少し安心して、男を背に担ぎ、扉へ向かおうとした。そこで、あることに気がついた。


 ————笛の音が聞こえない。


 術師を助ける笛の音。神楽坂から、音が聞こえる範囲で行動するように言われていた。

「くそっ」

 圭一郎は、男を抱えて入ってきた扉の方へ急いだ。あと一歩で廊下へ出る、というところで、圭一郎は何かに足をすくわれてバランスを崩した。咄嗟とっさの判断で、抱えていた男を、入り口の方へ投げるようにして押し出す。

 

 男の体が廊下の方へと出た瞬間に、圭一郎の周りは完全な闇に包まれた。










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