第三十五話 神楽坂の力


 泉穂いずほの張った結界を通って、征志郎せいしろうの姿が校舎の中に消えた。術師は通れても、邪気や妖は通さない——簡易結界を張ることができる術師は多くいても、この微細な調節ができる術師は限られている。勧修寺かじゅじ家の人間が”結界術師”を名乗り、陰陽師とともに怪異の現場へ呼ばれるのはこのためである。

 

 征志郎が校舎に入った瞬間、わずかに空気が揺らいだ——ように見えた。そのを、泉穂や神楽坂も見逃さなかった。

「……これは」

「校舎内は、だいぶきしとの同化が進んでいるようですね」

 極度に瘴気が濃くなると、彼の岸(妖怪や物怪の世界)と此の岸(人間の世界)の境が曖昧になることがある、と神楽坂は言った。

 圭一郎の表情が曇ったのを見て、泉穂が口を開く。

「術師なら、長時間滞在しなければ大丈夫。ただ、今の校舎内は何が起きても不思議じゃない状態になっているはず……圭ちゃんも十分気をつけてね」

「そうですね。征志郎さんにも私から伝えておきます」

「……モタモタしてらんねぇってことだな」

 圭一郎は迦楼羅かるらを呼び出した。祓具ふつぐである真鍮の指輪リングが黄金色のおおとりへと姿を変え、校舎の周りを一周して圭一郎の腕にとまった。


「圭一郎さん、ちょっと」


 そのまま校舎へ向かおうとした圭一郎を、神楽坂が呼び止めた。右手の横笛をわずかに掲げて見せる。

「中に入ったら、必ずこの笛の音色が聞こえる範囲で行動してください。聞こえなくなる場所は、たとえ術師であっても危険です」

 圭一郎は頷くと、校舎に向かって駆け出した。





 2階建てのコの字形の校舎と小ぶりな体育館は、渡り廊下も合わせてロの字になるように並んでいる。征志郎は北端の非常口から中に入り、体育館へ続く渡り廊下へ向かって行ったが、圭一郎は最短ルートで生存者のもとへ向かうため、2階へ続く階段がある正面玄関へ向かった。

 小走りで進む圭一郎の耳に、美しい笛の調べが聞こえてくる。笛の音は不思議と移動しても遠ざかったりすることはなく、一定の音量で、語りかけるように届いてきた。


 玄関には当然鍵がかかっているものと思ったが、手をかけるとあっさりと開いた。まるで中へと誘いこまれているようで、不気味だった。

「!」 

 一歩足を踏み入れた瞬間、異変があった。腕に乗っていた迦楼羅がふっと消えたのである。右手の指に重さを感じて見ると、真鍮の指輪に戻っている。

迦楼羅祓具は使えねぇってことか……)

 圭一郎は冷静に周囲を見渡す。

 荒れた靴箱、ひび割れた蛍光灯。真夏の、まだ日が高い時間帯にも関わらず、中は薄暗く、ひんやりとしていた。それは単に日当たりなどの問題ではなく、充満した邪気の影響が大きい。妖や霊の気配は幾重にも入り混じり、もはやそれらの懐の中にいるような感覚になる。

 階段は廊下を挟んですぐ目の前だ。1階廊下の様子を伺っていると、


「しつれいしまーーーーーす」


 奥の教室の方から男とも女ともつかない、無機質な声が響く。


「し、しつれいいいいしまああああす」


 ゴンッ、ガタガタッと戸を大きく揺らすような騒音。音は徐々に大きくなっていく。圭一郎は脇目も振らず廊下を横切り、階段へと向かった。

 壁から突き出す青白い腕、天井を這う巨大な目。小物はいくらでもいた。全部祓っているとキリがないので、全て無視する。

 階段を駆け上がる時、踊り場にいた首のない一松人形が飛びかかってきた。首を捕まれそうになったので、やむを得ず祓う。

 その時、気がついた。

 (……体が、軽い)

 これほど邪気の充満した空間にいて、体のだるさが全くない。そして、いつもよりはるかに、祓った時の呪力の消耗が少ない。

 ——神楽坂あの人の力か。

 泉穂の言っていた、”術士にとってはプラスに働く”の意味を理解した。

 


 圭一郎は校舎に足を踏み入れてわずか一分足らずで、2階へ辿り着いた。息を整えて、廊下をのぞくと———

 数メートル先の床。教室へ引きずり込まれていく体。警察官らしき服装の上半身。床に横たわる、その目と。


「た、たす、けて」


 ———バンッ。


 教室の戸が閉まる音が、暗い廊下に響いた。

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