第十九話 迦楼羅


 コンクリートの地面に現れた割れ目――”境目さかいめ”は、今や車1台がすっぽり入るほどの大きさに広がっていた。あふれ出てきた大量の瘴気しょうきに、圭一郎は思わず顔をしかめて後ずさる。隙間に覗くのは、墨を流したようにどこまでも深く、黒い闇。


 迦楼羅かるらが再び割れ目に向かって飛び込もうとしたその瞬間。ドンッと大きな音と供に、割れ目から黒い影が飛び出した。

 

 反射的に目で追った、その先には――


「紀野さん!」


 コンクリートの地面に手をついてゲホゲホとせきこむ、紀野の姿があった。圭一郎はわずかに安堵の表情を見せて、紀野の元へ走る。


「っ痛てて、、」


 着地した時に腰を打ったらしく、紀野は腰に手を当てていた。


「大丈夫か?」


「――助かった。だいぶ彼岸あっち側に引っ張られてたから、もう少し遅かったらヤバかった。ありがとう」


 紀野は、突如現れた境目に引きずり込まれたこと、人が消える原因はこの”境目の出現”で間違いないだろうということを早口で説明した。


「入り口が完全に閉じちゃってて、もうこっちに戻れないかと思ったよ。境目が急に現れるなんて、こんなこと普通は無―――」


 そのとき、紀野は圭一郎の肩越しに、境目から無数の手が音も無く伸びるのを見た。圭一郎は境目側に背を向けているため、気づいていない。

 紀野はとっさに左腕で圭一郎を横に突き飛ばすと、右手を前に掲げる。


「!」


 軽く押されただけのように見えたが、圭一郎の体はふわりと浮き上がり、数メートル先まで飛ばされる。呪力による、増強の効果である。


「……!」


 圭一郎は素早く体勢を立て直し、状況を掴もうとする。

 紀野の右手の先には簡易結界。そこに、境目から伸び出た幾つもの変色した腕がビタビタと張り付いている。

「くそッ」 

 駐車場に満ちた瘴気のせいで気づかなかった。紀野を助けたつもりが、助けられてしまった。

 異様に長く不格好なその腕は、紀野の結界によって止められているが、今にも突き破ってきそうな勢いである。


 ゴオオオォォォと、地の底から唸るような重低音が響く。早くどうにかして境目を塞がないと、向こうから次々とがやって来かねない。



「圭一郎君! 僕はを押し返す! 君は境目をふさいでくれ!」


 紀野が圭一郎に向かって叫ぶ。音に負けじと、自然に大声になる。


「は……どうやって!?!」


「分からない! でも君なら……境目を開けられた君なら、逆もできるはずだ!」


 圭一郎はハッとして辺りを見渡す。

 ―――迦楼羅。

 迦楼羅は今、駐車場の端に停車した車の屋根にとまっていた。金色に輝く尾は、遠くからでも燃えているように見える。迦楼羅の周りだけ、瘴気が浄化されていた。

 (……できるのか)

 境目を完全に封印するためには、本来高度な結界術が必要だ。だが、結界術士を待っている時間は無い。


 ――できなくてもやるしかねぇ。


 圭一郎は、紀野の目を見てうなずくいた。

 それを見た紀野は、小さく頷き返す。そして静かに目を閉じ――ゆっくりと開いた。


 ――ゴォッ


 圭一郎は、地下駐車場に突風が吹いたかのように感じた。

 それが風ではなく、大量の呪力だと気づいたのは、全身がひりつくような緊張感を覚えたからだ。

 (これ……紀野さんの、だよな)

 先ほどまでとは全く違う。密度の濃い、洗練された呪力。

 圭一郎は何よりもその圧倒的な量に驚く。同じ空間にいるだけで、同じ術士でも気圧けおされそうになる。


 紀野は簡易結界ごと、じりじりと境目から伸びた腕を押し返していた。

 ちなみに、これほどの呪力を一気に放出すると、ふつうは命に関わる。ただでさえ紀野は、境目から抜け出すのにも大量の呪力を消費している。

 ―――ほぼ無尽蔵ともいえる呪力量。紀野の生来の体質が成せる技である。


「迦楼羅!」


 声に呼応して、金色のおおとりは圭一郎の肩へ向かって飛んでくる。

迦楼羅が肩にとまった瞬間、不思議と何をどうすればいいのか分かった。

 

 あとはタイミングだ。

 

 紀野が、両手を添えて呪力の出力をもう一段階上げる。ぐぐぐっと、一気に腕は割れ目の中へ押し戻される。

(――今!)

 圭一郎は、右の掌を境目の方へ向け、口を開いた。


「天地然、浄天、万奸、生霊無幽不照、無幽不浄――急急如律令!」


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