拝啓、彼の面影へ

 勉強机に向かう。なんとなく背筋を伸ばし、深く息を吸って、吐いた。鞄の内ポケットに入れたままだったクラフト紙の封筒は角が折れていた。上の端を慎重に切って中身を引っ張り出す。真っ白な厚手のコピー用紙が三つ折りで入っている。

 開く。学校のプリントより少しだけ湿った手触り。印刷された文字は封筒と同じ角張った形で、ふちが青っぽくにじんでいる。横書きの文章の左上に視線を運ぶ間にもよく知った単語がいくつか見えた。『スピカに願いを』、「文忠」。穂花が誰に話したことも、誰から聞いたこともない単語もあった。「GLiTTER」、『veil』――それから、「瞬」。

「……本物?」

 手紙から顔を上げる。思わず、呟きがれた。放送中のドラマとその主役の名前だけなら、分かる。消滅した昔の所属ユニットの名前もまだ良い。けれども、誰にも打ち明けていない好きな曲や、公式では絶対に出てこない名前まで並んでいるのはどういうことだろうか。少なくとも、最低でも、これは穂花が出した手紙を読んだ誰かでなければ書けない手紙だ。

 明日香に観せられた昔のライブ映像を思い出す。輝くスポットライト、飛び交う銀色のレーザー。照明を散らして光るスモークの中で際立つ衣装の黒は夜闇のようで、飾りの銀は星々のようだ。モノトーンの色彩に差し色のメンバーカラーが映える。燃え盛る太陽のバーミリオン、まだ少し幼さが見える頃の野中遊助が興奮に輝いた目を隣に向ける。視線の先、いくらか小柄なシルエットと中性的な甘い顔立ちの彼は、対照的に落ち着き払った微笑みを浮かべていた。ブルーバイオレットが地球よりどこか遠くの星を思わせる。ステージを震わせる歌声の一つ、星の降るような声の持ち主はてんのうしゅん――終わっていなかった頃のGLiTTERの、もう一人の片割れだった。

 穂花はまた深呼吸をする。その名前はもう古い雑誌や映像にしか出てこないのだと諦めていた。たとえテレビか何かで野中遊助の経歴が取り上げられても、相方については徹底的なほどに伏せられていた。明日香からも聞いたことはない。もっとも彼女の場合、単に彼が「推し」ではなかっただけかもしれないけれど。

 もしかすると、穂花の「推し」は天王寺瞬の方なのかもしれない。

 明日香が見せてくれた映像や雑誌で知った限り、アイドルだった頃の野中遊助に『veil』は似合わないように思えた。『天狼』や他の歌では相方を引っ張っていた彼が、唯一『veil』でだけは相方にリードされているような気がした。俳優としての今の彼には感じるきらめきが、昔の彼には感じられなかった。

 穂花は迷いながらも手紙に視線を戻す。短い文章はやはり、昔の彼のそれには似ていない、丁寧で柔らかな言葉で書かれていた。


 ――お手紙ありがとう。『スピカに願いを』を楽しんでくれて嬉しいです。文忠は難しい役なので、しっかりと受け止めてもらえているようで、実は少し安心しています。


 六階の窓からは、まるで星空のような町の光が見える。

 ドリップパックの小袋を開け、コーヒーを淹れて、書き物机に向かう。アイドルとして売れはじめた頃に引っ越した丘の上のこのマンションに、彼はできる限り長く住みつづけるつもりでいる。

「あの子は――」

 机の上に目を留めた野中遊助は、誰にともなく呟いた。封筒から出されたままの花柄の便びんせん二枚に、上手くはなくとも丁寧な字でいっぱいに書かれたその手紙には、最後に「佐々木穂花」と書かれていた。

 ――そろそろ、あの手紙を読んでいる頃かな。

 遊助は椅子を引く。彼女からの手紙は一見してよくあるファンレターだった。書きたいことがたくさんあるのに、何を書いたら良いのか分からなくて、一周回って無難なものになったように見えた。それでも彼は返事を書いた。公式の封筒も使わず、手書きの部分もない、限りなく偽物に近いような形で。

 このところの『スピカに願いを』は意図的に、視聴者を焦らすパートとして作られていた。一時的に視聴率が下がろうとも、反響が小さくなろうとも、染井文忠は津花春華への想いをひた隠しにしつづける。当然ファンレターも減るはずで、実際にそうなった。

 それでも、毎週のように手紙を送ってくるファンもいて、その中にはGLiTTER時代の活動について感想を書く人もいた。また歌ってほしい、ソロでも良いから『天狼』を聴きたい。そういった手紙に出てくるのは違う曲であることも、稀には『veil』であることもあった。何曲も、何度も聴いて、共感してくれるファンもいた。

 ――分からない。

 佐々木穂花の手紙は、ファンレターが減るはずの時期に彼女が初めて送ってきたもので、初めてなのにGLiTTERの異色曲『veil』の感想が書かれていた。確かに珍しい組み合わせだが、そこに何か決定的なものがあったかと問われれば、遊助は言葉に詰まるしかない。

 溜息をついて、マグカップを口元へ運ぶ。ほとんど見えないほど薄い湯気が吹かれて揺れた。コーヒーの香ばしく甘さのある香りが鼻腔をくすぐる。黒々と滑らかな液面は、けれど光に透かせばどこまでも深い飴色をしているはずだ。

「――熱っ」

 マグカップを机に置く。後味に残る濃い苦みと無糖の淡い甘さを舌の上で転がしながら、また花柄の便箋に視線を預ける。

 結局は直感としか言いようがない。この手紙がどんな思いで書かれたものなのか、書いた人がどんな景色を見ているのか、遊助にはまったく想像もつかない。ただ、その「分からなさ」に覚えがあった。

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