在りし日の一瞬

 ――GLiTTERのことは俺も、今でも大事に思っています。瞬がいてくれたから今の俺があります。間違いなく、そう言えます。


 辿り尽くして鮮明な、それはちょうど十年前の記憶。

「すいませーん、遅くなりましたー」

 気の抜けた挨拶と共にレッスン室へ入ると、そこにいる二人の間の空気がぴんと張り詰めるのが分かった。休憩中なのだろうか、少し寒い鏡張りの部屋には、他に誰も残っていない。

「本当に申し訳ありません。以後気をつけさせますので……」

 遊助を一目見るなり血の気の引いた顔をして、天王寺瞬はもう一人に向かって深々と頭を下げた。その相手は何拍か遅れて遊助の姿を認める。ぶつかった視線に一瞬、怒りが燃えて、けれどすぐ鎮まった。今朝からGLiTTERが受けるはずだったダンスレッスンの先生だ。彼は舌打ちをすると、うんざりした、疲れた顔で遊助を睨む。

「……君か。天王寺くんに免じて一言だけにしておくけど、君もしっかりしてくれないと困るよ!」

 そして言うだけ言うと、さっさと部屋を出て行ってしまった。

 広いレッスン室に二人きり、遊助と瞬が残される。目を逸らせば鏡の中の二人もやはり向かいあっていた。上背と肩幅のある体つきの遊助と並ぶと、瞬はいくらか小柄で華奢に見える。ふわりと滑らかな髪が揺れて、見れば鏡の中の彼と目が合った。

「休憩の後からは君も参加するようにと言っていたよ」

 瞬が静かに微笑む。遊助は弾かれたように、鏡の中から外へと視線を移す。綺麗なアーモンド型の目を長い睫毛が縁取っていた。

「体調を崩してはいない?」

 気遣ってくる眼差しを見ていられなくて、また目を逸らす。

「……朝、起きられなかったんだ」

「朝が弱いならモーニングコールでもしようか」

「別に……」

 頭の後ろを掻く。今度は入ってきたドアの方を見る。寝癖の直りきらない髪は乾いた硬い手触りをしていた。自分が怒られれば良いだけだと思っていたのに、ぜんぜん怒られなかった。

「昨日の夜、遅くまでゲームしてただけだし」

 それでも瞬は形の良い眉を困ったように下げるだけだ。

「電話をかけるなら夜の方が良さそうだね」

 穏やかな声、何でもないふうの言葉。けれど遊助がレッスン室に着く前、彼が代わりに怒られていたに違いない。何かが気に障って、濁った黒い感情を遊助は自覚する。

「だいたい、今日の仕事、嫌なんだよ。どう見ても俺の方が上手いのになんで後ろの方で踊らなきゃならないんだ。なんで下手なやつのミスに巻き込まれて何度もやり直さなきゃならないんだ」

 湧き上がる勢いのまま吐き出せば、ようやく瞬の微笑が消えた。

「確かに、君の動きは主役を食いかねない」

 真っ直ぐに、真剣に、優しそうな顔をすっと鋭くして、責めているのか褒めているのか分からないことを言う。

「それは瞬もだろ? 瞬だって、嫌じゃないのか」

 反発でもあり、意地悪でもあり、同じくらいに本音でもあった。女の人みたいに細い手足が、ひとたび踊り出せば目を離せない迫力を宿すことを、彼は隣で見てよく知っていた。頭の上から爪先まで、繊細にかつ自然に気を配っている。新人離れしていると騒がれた遊助のダンスにもまったく見劣りはしない。むしろ手足の長さが違う分、純粋に技術だけなら瞬の方が上だ。

 なのに瞬は小さくうなったきり目を伏せる。自分のダンスなんて大したことはないと卑下するのか。尊敬する先輩のためなら嫌じゃないとでも言い張るのか。もういい、と止めようとした時、彼は顔を上げる。

「僕にも、苦手なことはあるからね。巻き込まれたときに取った態度は、巻き込んだときに取られても仕方ない態度になる」

 よく分からない。

「俺が悪いって言いたいのかよ」

 瞬のダンスを否定されれば怒れた。先輩への敬意を説かれればいくらでも悪口で言い返せた。どちらでもなかったから、子供みたいにすねてやることしかできなかった。鏡のような――もっとあいまいな、みなのような言葉を、遊助はめちゃくちゃに跳ね返す。

 けれども水面はすぐにいで、そんな彼の姿を映した。

「君だって嫌いな仕事は嫌だろう。誰だってそうだ。どんなに凄くても好きじゃない人との仕事は、好きな人との仕事ほど頑張れない。そして僕らの仕事は、僕らだけの仕事じゃない」

 瞬はまた微笑む。

「僕らは今日、あの先生に少し嫌われただろうね」

「そんなこと言って、本当は瞬も俺が嫌いなんじゃないのか?」

 考えるより先に言葉が出てくる。分からない。何も分からない。遅刻したのは遊助なのに、どうして瞬まで嫌われるのか。嫌われただろうと言いながら、どうしてそんなに綺麗に笑うのか。さっき自分で言ったばかりの「嫌い」を、どうして瞬が言うだけで、こんなに嫌な気分になるのか。

「正直に言えば、やりづらくはあるけど……」

 瞬は答えてくれない。こんなときだけ、聞かれたことに答える。

「……この話はやめよう。ごめんね」

 そしてなぜか一方的に謝ると、遊助が何か言い返す前に、レッスン室から出て行ってしまった。伸ばした手が、行き場をなくして落ちる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る