天狼は癒さず
――野中さんの歌も好きです。友達にアルバムを借りて、『veil』を聴いて、こんなに共感できる歌もあるんだと感動しました。
終業のチャイムが四時限目の
おもむろに教科書とノートを片づけ、鞄に手を入れる。弁当箱を出そうとして探った指先に乾いた紙の手触りを感じる。穂花はまだ、あの封筒を開けていない。
「――ほにょ、お昼一緒していい?」
明るい気配に顔を上げる。クラスが別になった友達が弁当箱の入った巾着を片手に、隣に空いた壁際の席に腰を下ろす。どことなく猫っぽい気ままな調子の声は、ほにょ、と彼女だけが呼ぶあだ名を呼んだ。穂花、ほの、ほにょ。胸の奥のくすぐったさが意識の底に沈み重なっていくと、代わりにあのくすんでしまったきらめきが浮かび上がってくる。
「あっちゃんは、」
穂花も友達をあだ名で呼ぶ。
「昨日の『スピカ』どう思った?」
聞けば待っていましたとばかり身を乗り出す。眼鏡の奥の目がぐっと細まって、嬉しくて堪らないといったふうに口の端が上がる。
「最高。グイグイ来る野中くんめっちゃ良かった」
「でも告白やめちゃったよね」
「まだまだ最高が残ってるってことじゃん?」
明日香は半ばふざけて、きゃー、と自分の口で言った。穂花はあいまいに笑いながら彼女の言葉を考える。彼女はいつも、文忠を――現在の俳優、野中遊助を通して、過去の彼を見ているらしかった。
昨夜に見た複雑な感情のきらめきが曇りを
「その時は『
直視できない強い光、宇宙のような黒と銀の衣装、メンバーカラーのバーミリオンと――並び立つブルーバイオレット。無理としか思えない夢を明日香は語る。野中遊助は昔、アイドルだった。GLiTTERという名前のコンビユニットの片割れだった。
「確かに昨日の文忠さんはかなり、熱かったかも」
穂花はあいづちを打って、弁当箱のプチトマトに視線を逃がす。明日香が言う『天狼』とはGLiTTERの代表曲で、
「焼け焦げてたよね?」
「焦げ……?」
唐突な暗喩に戸惑う穂花に、明日香はまた、にやりと笑う。
「一番のサビのところ。覚えてない?」
そう言うと、ブレザーのポケットからスマホを引っ張り出した。ひび割れた画面を一目見るなり顔をしかめ、壁のコンセントで充電を始める。穂花は止める言葉を探したものの、差し出されたイヤホンの片側を前に呑みこんだ。イヤーピースを耳に押しこめば、駆けるベースのリズムに乗って、二つ揃った歌声が聴こえる。
――この身焼き焦がす 熱こそが僕
駆けて行こう 凍てつく宙に吠えて
君の側へ その輝きを見つけて欲した夜から
足掻き続けよう 燃え尽きるまで
どこまでも澄み切った夜空に冴え冴えと輝く一等星、青い光は冷たく見えて激しく熱く燃えている――。ほとんど叫ぶような、けれど完璧に息の合った
――それでも、私は、『veil』の方が……。
明日香が言った「焼け焦げてた」とは、昨日の『スピカに願いを』の文忠の行動が『天狼』の歌詞みたいだという意味だったのだと、穂花は今ようやく理解していた。ただ心からの同意はできなかった。熱い炎にいくら手をかざしても、胸の奥には冷たさが残る。昨日の文忠の表情は、野中遊助の演技は、違う。
しかし穂花はあいまいな笑顔を作って明日香に向けた。
「言われてみれば、焦げてた……かな」
文忠は独りよがりで身勝手で、けれどそこが良いのだろう。恋に焦がれて、愛するがために諦めて、春華と視聴者を翻弄する。それが好きになれないのは、穂花の心が間違っているからだ。隠さなければ――その焦りが、作り笑いにくっきりと影を落とす。
「無理しなくていいよ。ごめんね、変なこと言って」
明日香が苦笑した。隠せなかった、という思いが渦を巻く。取り繕う言葉を探して空回る頭で、穂花は数秒前の自分の口を塞いでしまいたいと強く思う。
「――佐々木さん!」
突然、苗字を呼ばれた。
「学校の電気を勝手に使うのは泥棒ですよ。スマホは没収します」
「せんせー、それあたしのスマホだけど」
明日香が
「そうだとしても、電気泥棒に見て見ぬ振りをしたんでしょう。犯罪を見逃すことも犯罪ですよ。分かりませんか?」
よく通る声が穂花を責める。細い吊り目が異様な光を宿している。
「……分かります」
それだけを答えた声はひどく上ずり震えていて、穂花はいっそう消えたくなった。明日香が学校のコンセントでスマホを充電しようとした時、止めようとは思った。でも止めなかった。明日香みたいな強い子を止められるわけがない。けれどそれだって穂花が弱いせいだ。穂花が悪いのだ。だから怯える資格なんて、ないのに。
口角が引きつり上がってしまうのを感じる。違う、違う。笑いたいからでは絶対にない。真面目に聞いていないからでもない。出そうになる涙を必死になって堪える。
「今井さんは放課後、教員室に取りに来るように」
長い数秒、きっと数秒でしかない時間の後、先生は明日香にそう言い残して足早に廊下を行ってしまった。
穂花はおそるおそる明日香の顔色を
けれど明日香は先生が行った方へ溜息をつくだけだった。
「逆ギレしてるし」
怒った声ではなかった。反省した様子もなかった。どういう気持ちか分からなくて、その後は何も言えないまま昼休みを過ごした。
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