天狼は癒さず

 ――野中さんの歌も好きです。友達にアルバムを借りて、『veil』を聴いて、こんなに共感できる歌もあるんだと感動しました。


 終業のチャイムが四時限目のだるさを溶かし、ノイズ混じりの余韻を引いて消える。黒板消しに追われながら板書の数式を写し起立して、担任の先生の長い一つ結びを見送ればすぐ、一番後ろに座る穂花のさらに後ろを生徒の群れが次々と廊下へ飛び出していった。

 おもむろに教科書とノートを片づけ、鞄に手を入れる。弁当箱を出そうとして探った指先に乾いた紙の手触りを感じる。穂花はまだ、あの封筒を開けていない。

「――ほにょ、お昼一緒していい?」

 明るい気配に顔を上げる。クラスが別になった友達が弁当箱の入った巾着を片手に、隣に空いた壁際の席に腰を下ろす。どことなく猫っぽい気ままな調子の声は、ほにょ、と彼女だけが呼ぶあだ名を呼んだ。穂花、ほの、ほにょ。胸の奥のくすぐったさが意識の底に沈み重なっていくと、代わりにあのくすんでしまったきらめきが浮かび上がってくる。

「あっちゃんは、」

 穂花も友達をあだ名で呼ぶ。いま、名前の最初の文字を取ってあっちゃん。彼女は皆にそう呼ばれていたし、呼ばせていた。そういう強さのある子だった。

「昨日の『スピカ』どう思った?」

 聞けば待っていましたとばかり身を乗り出す。眼鏡の奥の目がぐっと細まって、嬉しくて堪らないといったふうに口の端が上がる。

「最高。グイグイ来る野中くんめっちゃ良かった」

「でも告白やめちゃったよね」

「まだまだ最高が残ってるってことじゃん?」

 明日香は半ばふざけて、きゃー、と自分の口で言った。穂花はあいまいに笑いながら彼女の言葉を考える。彼女はいつも、文忠を――現在の俳優、野中遊助を通して、過去の彼を見ているらしかった。

 昨夜に見た複雑な感情のきらめきが曇りをぬぐわれて、けれども今度はスポットライトの下できつい輝きを放つ。

「その時は『てんろう』が流れてくれたりしないかなぁ」

 直視できない強い光、宇宙のような黒と銀の衣装、メンバーカラーのバーミリオンと――並び立つブルーバイオレット。無理としか思えない夢を明日香は語る。野中遊助は昔、アイドルだった。GLiTTERという名前のコンビユニットの片割れだった。

「確かに昨日の文忠さんはかなり、熱かったかも」

 穂花はあいづちを打って、弁当箱のプチトマトに視線を逃がす。明日香が言う『天狼』とはGLiTTERの代表曲で、天狼星シリウスをモチーフにした、燃えるような恋の歌だ。実のところ穂花は、その曲の何がそこまで明日香を惹きつけるのか分からないでいた。

「焼け焦げてたよね?」

「焦げ……?」

 唐突な暗喩に戸惑う穂花に、明日香はまた、にやりと笑う。

「一番のサビのところ。覚えてない?」

 そう言うと、ブレザーのポケットからスマホを引っ張り出した。ひび割れた画面を一目見るなり顔をしかめ、壁のコンセントで充電を始める。穂花は止める言葉を探したものの、差し出されたイヤホンの片側を前に呑みこんだ。イヤーピースを耳に押しこめば、駆けるベースのリズムに乗って、二つ揃った歌声が聴こえる。


 ――この身焼き焦がす 熱こそが僕

   駆けて行こう 凍てつく宙に吠えて

   君の側へ その輝きを見つけて欲した夜から

   足掻き続けよう 燃え尽きるまで


 どこまでも澄み切った夜空に冴え冴えと輝く一等星、青い光は冷たく見えて激しく熱く燃えている――。ほとんど叫ぶような、けれど完璧に息の合ったつやのある歌声は確かに、泣きたくなるほど綺麗に輝いていて。音楽に詳しくない穂花が聴いても分かるほど、GLiTTERの歌った曲の中で『天狼』は頭一つ抜けていた。

 ――それでも、私は、『veil』の方が……。

 明日香が言った「焼け焦げてた」とは、昨日の『スピカに願いを』の文忠の行動が『天狼』の歌詞みたいだという意味だったのだと、穂花は今ようやく理解していた。ただ心からの同意はできなかった。熱い炎にいくら手をかざしても、胸の奥には冷たさが残る。昨日の文忠の表情は、野中遊助の演技は、違う。

 しかし穂花はあいまいな笑顔を作って明日香に向けた。

「言われてみれば、焦げてた……かな」

 文忠は独りよがりで身勝手で、けれどそこが良いのだろう。恋に焦がれて、愛するがために諦めて、春華と視聴者を翻弄する。それが好きになれないのは、穂花の心が間違っているからだ。隠さなければ――その焦りが、作り笑いにくっきりと影を落とす。

「無理しなくていいよ。ごめんね、変なこと言って」

 明日香が苦笑した。隠せなかった、という思いが渦を巻く。取り繕う言葉を探して空回る頭で、穂花は数秒前の自分の口を塞いでしまいたいと強く思う。

「――佐々木さん!」

 突然、苗字を呼ばれた。とげのある声は明日香のものではない。弾かれるように顔を上げると、ついさっき教室を出て行った担任の先生が眉を吊り上げてそこにいた。

「学校の電気を勝手に使うのは泥棒ですよ。スマホは没収します」

「せんせー、それあたしのスマホだけど」

 明日香がだるそうに口を挟む。穂花は顔から血の気が引くのを感じた。先生が一瞬、まずい、という顔をしてから、音が聞こえそうなほど強く奥歯を噛み締める。明日香をにらんで、また穂花に向き直る。きつく引き詰めた先生の一つ結びが大きく揺れる。

「そうだとしても、電気泥棒に見て見ぬ振りをしたんでしょう。犯罪を見逃すことも犯罪ですよ。分かりませんか?」

 よく通る声が穂花を責める。細い吊り目が異様な光を宿している。

「……分かります」

 それだけを答えた声はひどく上ずり震えていて、穂花はいっそう消えたくなった。明日香が学校のコンセントでスマホを充電しようとした時、止めようとは思った。でも止めなかった。明日香みたいな強い子を止められるわけがない。けれどそれだって穂花が弱いせいだ。穂花が悪いのだ。だから怯える資格なんて、ないのに。

 口角が引きつり上がってしまうのを感じる。違う、違う。笑いたいからでは絶対にない。真面目に聞いていないからでもない。出そうになる涙を必死になって堪える。

「今井さんは放課後、教員室に取りに来るように」

 長い数秒、きっと数秒でしかない時間の後、先生は明日香にそう言い残して足早に廊下を行ってしまった。

 穂花はおそるおそる明日香の顔色をうかがう。スマホの充電を止めれば良かった。先生が近づいてきたことに気づければ、せめてくだらない話で明日香に気を遣わせていなければ良かった。先生にもっとちゃんと言い返せば良かった。後悔ばかりが頭の中を掻き回す。

 けれど明日香は先生が行った方へ溜息をつくだけだった。

「逆ギレしてるし」

 怒った声ではなかった。反省した様子もなかった。どういう気持ちか分からなくて、その後は何も言えないまま昼休みを過ごした。

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