麦穂の星に願う

 物思いに沈んでいた意識が浮かび上がり、冷たくとも澄んでいた外の風が、薄暗い校舎のそれに塗り変えられたことを知る。

 廊下の澱んだ空気を泳いで教室へ向かう。前にも後ろにも生徒の列が続いていた。紺色のブレザーに身を包んだ彼らは回遊する魚の群れにも似て、ふと穂花はその群れを見下ろす視線を錯覚する。無数の話し声が水中の音のように遠い。それでも、友人同士でする雑談のあの無遠慮な調子だけはそれと分かった。登校の時間を合わせてまで話すべきことがあるのだろうか、と思う。

「――ねえ、昨日の『スピカ』観た?」

 ざわめきの中、その言葉はまるで耳元で話されたように聞こえた。

「あれ、昨日だったっけ」

「ウケる。初めの方なんか超盛り上がってたじゃん」

 前を行く女子二人は心底楽しそうに笑う。穂花はすっと背筋が冷えるのを感じた。大好きなドラマに対する、まったく好意的ではない感想に、それでもつい聞き耳を立ててしまう。

「でも分かる。あたしもなんか、もういいかなって思って」

「だよね」

ふみただ、顔はいいけどどうでもいいことで悩みすぎでしょ。仕事が忙しすぎて家帰れないから告れないって意味不明。そんなしんどいなら花屋行くのもやめたらいいのに」

 違う、という言葉で頭がいっぱいになる。喉元まで出かかったのはけれど空気だけだ。意味もなく口を開いて、閉じる。

 ドラマ『スピカに願いを』は、花屋で働くばなはると、ある雨の日に彼女の花屋を訪ねた男性、そめ文忠の恋模様を描く物語だ。見るからに堅物で、花になど興味が無いように見えた文忠は、しかし徐々に足繁く花屋に通うようになっていく。接客を通じて、春華は彼が厳格と評判の裁判官であり、花がその唯一の癒しになりつつあることを知る。意外な一面に惹かれる春華。一方の文忠は、実は彼女に一目惚れをしていた。慣れない感情に戸惑う彼は、学生時代からの悪友、たかに相談し、その助言を真に受ける。そして珍しく強引に春華を誘って絶好のチャンスを得るが、春華を幸せにできるか悩むあまり直前で告白を断念する――というところまでが昨日の回の内容だ。

 穂花は、文忠を演じた野中遊助の表情を――切なさと優しさと無数の細かい感情が押しこめられて透きとおる結晶のようになった一瞬を思い出す。天志をうらやみ妬み、怖気づく自分に失望して、けれど何よりも春華の幸せを願う。あんなに複雑な気持ちを、そのきらめきを見せてくれる俳優のすごさを、初めて知った。

「嫌な思いさせたくないって、結局断られるのが嫌なんじゃん」

「ね。ああいうの無理だわ」

 ――初めて知った、はずだった。

「野中遊助もさ、あんな役ばっかりで可哀想だよね」

 息が詰まる。前の二人が笑う。やがて細く溜息をつきながら、穂花はぼんやりと考える。

 違う、とは言い切れない。文忠の願いは所詮、彼の中だけで完結していて、現実の春華を見ていない。それでも願わずにいられないから悩むのだろうか。そう考えようとして、やめる。文忠がいくら悩んでいても春華には関係ない。彼は独りよがりで、身勝手なのだろう。昨日感じたあのきらめきは、気づけばすっかりくもってしまった。

 鞄を肩に担ぎなおす。教科書よりも水筒よりも、内ポケットにしまい込んだクラフト紙の封筒が重い。嫌な役を好きだと言われて良い気分はしないだろう。穂花は数日前に送った手紙を今からでも破り捨てたいと思った。

 野中遊助は今、俳優として活動している。背が高く華のある外見とは裏腹に、悩む役や暗い性格の役を得意としている、らしい。昔からそうだったわけではないと、それだけを穂花は知っていた。

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